2 たたかう - <飽食のアンギル・アルケー>




 一振りの剣があった。


 それはまるで大地に建てられた墓標のようにも、地面から生えた牙のようにも見えた。


 その刀身は長く、広く、そして厚く――深々と大地に突き刺さっている。

 十字を描くような鍔と柄――藁にも縋る想いで、少年はその十字に飛びついたのであるが、


「く、うう……!」


 抜けない。微動だにしない。


『残念ながら……あなたは選ばれし者ではないようです。残念ですが』


「二度もッ、言わんくても……ッ! このっ、クソ……! 全然抜けない!」


『わたくしは伝説の<聖剣>……であるが故に、真の持ち主以外の手には扱えないのです。正しき心を持ち、星に選ばれた聖なる人格者にしか……』


 頭のなかで声がする。少女のように可憐で、淑女のように凛々しく、そして聖女のように神々しい声が――頭のなかで、響いている。

 どこからか他人に話しかけられているような感覚でありながら、自分が思考するときの<言葉/声イメージ>のようでもある――なんとも奇妙な感覚だが、そんなことより命の危機が差し迫っている。少年は必死に剣を引き抜こうとした。


『諦めなさい。あなたは選ばれませんでした。わたくしも残念ですが、これもまたさだめ』


「さ、先っちょだけでも……どうか! なんとかなりませんか!?」


 自分でも何を言っているのか、誰に頼んでいるのかも分からない。それほど混乱しながらも、この剣を抜きたいという一心が口を動かす。


「一分だけ! ほんのちょっとでいいんです! 終わったら戻しますから!」


『……わたくしには真の主がいるのです――その方以外の手に渡るわけにはいかないのです……』


「じゃあその主さま呼んできてくださいよ! なんでこんなところに剣だけ残して姿くらましてるんですか! ……あぁそうだ! ボクがその人のところまで運んでいってあげますから……! だからお願いします! なんでもしますからぁ……っ!」


『今……なんと?』


「なんでもしますぅ……!!」


『いえ、その前の、前です――このわたくしを、真の主のもとまで運んでいってあげる、と――そう、言いましたね?』


「言いました……!」


『……いいでしょう。ちょうどわたくしも――かれこれ……もう数えるのも忘れてしまうほど前から、そういうことを言ってくれる人間が現れるのを待っていたのです。わたくしの言うことを聞き、わたくしに従う……わたくしの腕となり、足となり、そしてわたくしをここから連れ出してくれる、従順なしもべを――ゆするのをやめてもらえますか? 話の途中です』


「御託はいいですから! 早く抜けて……!」


『力は抜いていますよ。ほら、もう出ます――もっと力をこめてみては?』


 確かに、さっきまでびくともしなかった大剣に動きがあった。刃の突き刺さる大地に亀裂が走る――周囲の土がわずかに盛り上がる。


「ぐ……ぐぬぬ……重い――」


『貧弱ですね。それでわたくしの仮の主が務まるのですか? ……いえ、あなたは主ではなく、わたくしのしもべでしたね。いいですか? 今日からあなたは私の下僕――、』


「うわ……!」


 不意に、少年は吹き飛ばされた――否、剣が抜けた反動でひっくり返ったのだ。


「いつつ……、――やった! 抜けた!」


 地面を抉って引っ張り出された大剣が、尻餅をつく少年の足元に投げ出されている。その刃先が外気に晒され、かすかに光を放っているようだった。


「……?」


 立ち上がり、腰をかがめてその柄に手を伸ばしかけ――少年はふと、気付く。


 顔を上げる。


 さっきまで聞こえていた――少年を追いつめていたオオカミの鳴き声が、地面を踏みしめ駆ける爪と肉球の音が――しない。


 その代わりに、もっとおどろおどろしい――何か、底冷えのするような気配が木々のあいだから近づいてくる。



「urrrrrr...」



 それは唸り声のようだった。低く、重く、腹の底を震わせる重低音。先ほどのオオカミの群れとは違う、より大きな影がもやの向こうから滲み出す――


「な、に……、」


 ゴッ、ゴッ、ゴッ――地響きか、それとも声か――



「god――god――god――ッッッ」



 ごぼっ、ごぼっ……と、何か、質量のある物体がこぼれ落ちるような、水気を含んだ異音が連続している。



 ――闇が、顕れる。



 巨大な影が差したのかと錯覚した。頭上に巨大な何ものかが現れ、その影が地面に投じられているのだろう、と。思わずそう誤認してしまうほど、それは実体であると感じさせない不確かさを伴っているのだ。


 影のようである。陽炎のようである。その向こうが透けて見えそうでありながら、視覚情報を奪うほどに濃厚な――深い、闇。光を吸い込み、空間を捻じ曲げた結果としてそこに生じた幻のような存在。


 ケモノであった。バケモノであった。


 少年の背丈を軽く超える巨躯を持ち、先のオオカミがボールに思えるほど大きな四肢で地面を踏みしめている。質量があり、脈動がある。足元の雑草を踏み潰し、息吹が周囲に漂う白いもやを吹き払っている。


 どっしりと構えているようで、その動きは実にしなやか。余裕を感じさせるゆったりとした前進だが、接地の瞬間は力強い。こちらの油断を誘うような速度に見えるも、一瞬で距離を詰められる脚力を感じる足音。


 丸々として毛むくじゃらだった先のオオカミの群れがひな鳥なら、こちらは成長しきった――否、単純な進化の先ではない、理想形の具現ともいえるカタチを成している。


 鋭い逆三角形のような頭部は鼻先から頭頂部にかけて滑らかなラインを描き、牙を剥きだした口元は薄く開いている。力が抜けているようでいて、その部位が全身のどこよりも強靭な筋肉によってかたちづくられていると分かる。地面に頭を下げるような姿勢だが、決してかしずくためではない。そうすることで頭部から背中、長い尾にかけての線が地面と水平になっている。


 その脅威は、単純な大きさだけでは計れない――そのサイズにしては細く大人しい体型に見えるが、その実、シャープな線を描くほどに筋肉が引き締まった、全身が獲物を狩るというただ一点に研ぎ澄まされた凶器のようである。


 優雅で、美しく、気高い――そしてこの上なく恐ろしい、オオカミの王――


「ひっ――」


 闇のなか、亀裂のような光が覗く――金色に輝く双眸――それを目にした瞬間、少年の喉から空気が漏れた。慌てて呼吸しようとして、ひきつったような音がこぼれる。


 目が合った瞬間、全身の――ありとあらゆる意志の一切を貪り尽くされたかのような、際限ない脱力感に襲われる。


 ――<視喰ししょく>されている。


 肩から、腕から力が抜ける。筋肉が弛緩する。骨によって支えられていた脚も緩み、知らず地面に膝をついていた。


 心臓だけがばくばくと脈打っている。最後の抵抗を続けている。


 恐怖はなかった。そんなものを超越した、諦観だけがそこに残っていた。


 死ぬ、殺される――そういう次元はとうに過ぎている。


 自分は、餌だ――喰われるだけの、貪られるだけの、口にされ噛み砕かれ舌でなぶられひき潰され、ごくりと嚥下されるのを待つだけの――ほんのいっときの愉しみのためだけに消化される、なんの栄養にもならず命を繋ぐ糧にもならず、ただただ無為に吐き出される糞でしかない。


 あれは、そうした工場だ。肉を汚物へと加工する――ゆっくりと、時間が肉を運んでいく――下半身の筋肉が泥になったように弛緩し、首がかくんと落ちる。頬を伝い、腿を濡らし、水分が無意味に失われていく。


 地面にまき散らされる汚物――それが、一瞬先いまのボクだ――



『わたくしを手に取りなさい――早くッ!』



 鋭い叱咤が意識を刺激する――身体の命令系統に電気が奔る、少年の意思とは無関係に腕がびくんと震える。痙攣する。それは筋肉の蠕動だった。刺激に伴う反応に過ぎなかった。しかしそうして、地面に投げ出されていた大剣の柄に指が触れた。


「っ」


 我に返った、という表現では生ぬるい。地べたの汚物が息を吹き返したのだ。

 ただちに、すがるように大剣の柄を両手で掴んだ。きつく、固く握り込む。自分の生を確かめるように、強く、刃に触れることも恐れず、抱え込むように。


「あ、あれは……なんです……?」


 声が、問いが口を衝いた。全身に活力が戻ってくる――思考にかかっていたもやが消える。恐ろしく現実的だった錯覚が夢のように消え失せる。現実が帰ってくる。


『知りません。大方、悪霊の類でしょう――ただのクソザコです。斬り捨ててしまいなさい』


「は、はい……?」


 先ほどまでの諦観は嘘みたいに思い出せないが、だからといってこのバケモノが怪物的なサイズであり、狂気じみているのは間違いない。ついさっきまで必死に逃げていたあのオオカミが可愛らしく思えるくらいだ。

 大剣の言葉は頭に入っても――というか自分の思考こえであるかのように頭を満たしても、まったく同感もできなければ、納得なんて不可能だ。その指示を実行できる、成功させるというビジョンがまるで視えなかった。


『久方ぶりの獲物ですから、なるべくなら生物ナマものが良かったのですが――まあ、我が侭は言いません。半生はんナマでも斬れればなんでも良いです。刃が光りますね』


「そんな、腕が鳴るみたいに言われても……」


『とにかく、立ち上がりなさい。立たなければわたくしを振るうことも出来ませんよ。座り込んでただ待つだけなら足がなくても出来ます。動かないなら喰われてしまえばいい。命尽きる前にわたくしをもとの場所に戻してくださいね。長年過ごした場所ですので、多少なりとも愛着があります。住めば都というやつです』


「…………」


『……さあ、立ち上がりなさい』


 意志が、気力が全身に漲る。脚に力が入り、膝を立てる――重たい大剣を地面に突き立て、それを支えに立ち上がる。


 バケモノは、動かない。ただ待っている――立ち上がるのを待っている。糞になるだけの餌ではない、狩りの対象となる獲物を待っている――情けや躊躇や容赦ではない。ましてや余裕でも油断でもなければ、警戒などはありえない。皿の上に載った肉にナイフを突き刺す、ただそれだけの行為に、そんな心の動きを差し挟む必要がどこにあるというのか。


 まだ、食べる気分にならない――ただそれだけで、動かない。


 しかし、少年が立ち上がれば、この剣を抜けば――今度こそ、来る。


 それを理解した瞬間全身に震えが走るも――生存本能を基礎として、なおも心を奮い立たせる何かがあった。


 ――こんなところで、終われない。まだ、何も始まっていない――


「やる、ぞ――ボクは、やってやる……!」


『その意気です。さあ、我が下僕として、最初の戦いです――』


 剣を持ち上げようとした。対峙するバケモノを相手に構えようとした。


 重くて持ち上がらなかった。


「使い物に、ならない!」


『…………』


 静寂がその場を支配した。


 バケモノが動き出す。



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