×剣伝説
人生
序章 抜剣伝説
1 落火 - H×l× in ...
――――――――――――落ちる――――、落ちる。
ッ
「うぎゃ――――」
鈍い痛みによって目を覚ます。すると目に入ってきたのは、遠く――果てしなく遠く、薄らと見える光。白くもやがかった視界――だんだんと焦点が定まってくると、切っ先のように鋭い折れ枝が見えてくる。
空を覆うように広がった枝葉……木々。手を振るようにさざめくのは、風が吹いているからか。青臭い草葉の匂いがした。どうやらここは森のなからしいと、漠然と思考している。
――うーっ……!
「?」
――キャンッキャンッ!
と――どこからか響く甲高い鳴き声が、ぼんやりとしていた意識を覚醒させた。
うるさい――眠りを妨げられたような不快感。きんきんと頭に響く声。身体は重たく、血が通ってないかのように感覚が鈍い。そのくせ全身を突き刺すような、ちくちくとした草葉の感触があって、湿気を感じさせる青臭さが鼻につく。
きゃんきゃんきゃん、なおも聞こえる金切り声。地面に倒れた格好のまま、背中に硬い異物を感じながら、ゆっくりと声のする方へ首を巡らせる。脂に塗れた銀の髪が地面に落ちる。
何か……毛むくじゃらの物体がある。いる。背の高い雑草に半ば隠れながら――はあ、はあっ……と短く荒い呼吸を繰り返しているのが分かる。茶色がかった色の毛に覆われていて、たてがみのような長毛の中心に――湿り気を帯びた黒い鼻、細かく蠕動する赤い舌、そして黒々としたガラス玉のようなものが、二つ。
目が合う――それでとっさに少年は飛び起きた。
「!」
わんわんわんわんわんっ!
低く激しく、それが喚き散らした。四つの短い足を突っ張り、地面にしがみつくような格好で、少年を見て吠えている――
動物だ。
少年が立ち上がると、それはさらに激しく吠えたてる。うーっ、うーっ、と低い唸りで威嚇したかと思えば、発作的にわんわんわんわんっ――その繰り返し。金切り声のような鳴き声が耳に痛い。周囲の静けさと相まって、少年の心をひどく不安にさせた。
(な、なんだ……!?)
立ち上がって見れば、なんてことはない、体高三十センチからそこら……小柄な少年の膝くらいの高さしかない、小動物だ。細く長くごわごわとした体毛がなければもっと小さいかもしれない。丸々としていて、毛玉の塊のようだ。脚も短く、雑草のなかに隠れている。臀部のあたり、羽飾りのようにわずかにカールした体毛が威嚇するように逆立っているが、少しでも自分を大きく見せようとする臆病な示威行為が微笑ましくさえある――
(お、おおかみ――)
「はっ、はあ……!」
何かないかと周囲に視線を走らせ、少年は足元に落ちている木の枝に飛びついた。瞬間、弾かれたようにオオカミが飛びのき、再びうーっ、うーっと低い唸りを上げた。可愛らしい見た目をしたケダモノは、怯えるように枝を注視する。
切っ先のように鋭い先端をした枝は長く太く、少年が両手でもってもなお有り余る。振り回すには向かないが、振り下ろせば小型のオオカミを仕留めるくらいは出来るだろう。
「ふっ、ふう……ッ!」
心臓がバクバクと音を立てる。息苦しい。うっすらと白くもやがかる視界――霧というほど濃くはなく手近の視界を妨げるほどではないが、周囲一帯に薄くもやが立ち込めているようだ。息を吐くと離れていき、吸いこめばわずかに近づく――身動きすればわずかに晴れるが、すぐに空間を覆う。多少うっとうしかったものの、目を凝らせばオオカミの姿は捉えられる――
頭上で木々のざわめく気配――風が吹いている。草葉の青臭さに交じって漂う――ケモノのニオイ。
「!」
額の汗を拭う、脂っぽい長めの前髪を振り払う。耳を澄ませる、目を凝らす――もやのなか、はっきりと見えるのは数メートル先までが限度。それ以上はぼんやりと景色が歪んでいるが――うっすらと浮かび上がる、緑色の風景。そのなかに黒光りする黒眼がいくつも垣間見えた。
――囲まれている?
……そうでなくとも、少しでも眼前のオオカミに手を出す素振りを見せれば、その後ろに控えた集団が襲い掛かってくるのは間違いないだろう。
……手遅れだった。群れが到着してしまっている。低い唸り声が重なり、重くなる。それらが徐々に大きくなる――気配の輪郭が、群れの包囲が、より確かに、より近く――
気圧され、少年は手足の震えを自覚した。その振動によるものか、目の前のオオカミが一歩ぶん遠くになる――素足の踵に、硬い感触があった。ちらと視線を落とせば、赤黒く湿った下草の中――それは木の根である。瞬間、背後に圧迫感を覚えた。大樹がある。退路は塞がっている。
(ど、どうする……)
じりじり、じりじりと……大樹を迂回しようとするように足を動かす。気配が近づく。湿り気のある空気が緊張と相まって、少年の体内に熱を生んだ。あちこちが破れ、ボロ布と化した衣服に汗が滲む。
少年が身にまとっているのは、ゆったりと余裕のある、頭から被り膝上までを覆うタイプの一枚布だ。薄汚いそれが今や周囲に漂うもやのように肌に張り付き、うっとうしい。苛立ちが、心の余裕を奪う――気持ちに落ち着きがなくなったせいで、全身で感じる全てが神経を逆なでする。
ごくり、と――音がするくらいに、それほどに力まねば飲み込めないほど硬い生唾を嚥下した――
瞬間であった。
キャンキャンキャンッ!
目の前のオオカミが飛び掛かってきた。
少年はとっさに枝を振りかぶった。しかし反応が遅れた。振り下ろすより早く、オオカミが少年の足元に食らいつく――皮膚を突き破り、少年の薄いふくらはぎに食い込む小さな牙。骨に当たる感触すら感じられた――鋭い痛みに、振り下ろしかけた枝が手を離れる。
キャウンっ! と落ちた枝がオオカミの身体をかすめる――直後か、あるいはその寸前か、遠くの木々のあいだから濃厚なまでの気配が押し寄せてきた。
わんわんわんわんわんッ!
「うわぁああああああああ!?」
弾かれるように駆けだしていた。少年はオオカミの群れに背を向け、足をもつれさせながら、つまづきそうになりながらも、ひたすらに、がむしゃらに、無我夢中で逃避していた。それは生物としての本能であった。
木々のあいだをひた走る。何かに足をとられる。地面に張り巡らされた木々の根が、草葉の陰に隠れていたのだ。罠のようなそれに引っかかり地面を転がる。その足首にオオカミが追いすがる。牙を、爪を立てる。一匹、二匹、次々と群がるそれらを、もう片方の足で蹴り飛ばし必死に起き上がろうとする。手に触れた小石を握って叩きつけ、投げ飛ばし、他のオオカミが警戒して一瞬だけ離れた隙をついて這うようにしながら立ち上がった。
もともとは白かったのであろう一枚布は血と土で赤黒くなり、あちらこちらが切り裂けている。剥き出しの素足は傷だらけで鮮血に塗れ、手足の爪のあいだには土が混じる。血と土。土と血――大地と溶け合い、捕食されようとしている――背後に迫るオオカミよりも、今この足が踏みしめている地面そのものが自分を殺そうとしているかのようだと少年は感じていた。
つまり、逃げ場がない――走りながら眼球を必死に動かす。目玉が飛び出そうだ。
痛みはなかった。なぜか疲れもない。どこまでも走れそうだと感じたが、清々しさはない。頭が痺れ、何も考えられない。息が苦しく、胸の内側から何かが飛び出そうとしているかのようだ。圧迫感がある。一方で、全身を搾り上げられるような、巨大な手に全身を掴まれているかのような圧力を覚えた。
気が変になりそうだった。
全身から汗を、口から涎を、目からは涙を――からからに乾いていくように全身から熱を失いながらも、血液が沸騰するように体内は燃え盛る――きゃんきゃんきゃんきゃん。追い立てるケダモノが、少年の命を摩耗する。
限界だった。もう何がなんだか分からなかった。
声が聞こえた。
『人の子よ――わたくしは今、あなたの頭に直接語り掛けています――』
目の前が開ける。光が差している――
それはまるで、墓標のようだった。
『
言われるがまま、少年はその柄に飛びついた。
……抜けなかった。
「うぁああああああああああああ……っ!?」
絶体絶命だった。
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