13話 深夜の出来事

 日を跨いで、夕方。


(ふぅ……。そこそこ疲れた……)


 三人で天道學園に戻って別れたあと、伊織はたらふく飯を食い、浴堂よくどうひのき風呂に浸かっていた。

 浴堂の広い風呂場は男女別に三か所あるが、ここは今だけ、伊織の貸し切りだ。

 常世姫の取り計らいである。

 沙奈が神器に選ばれ、持ち帰ったとなれば、誰も文句は言うまい。


(葵は……、ずっと黙っていたな)


 葵の事情をかえりみるに、また利用されるのではないかと、疑っているのだろう。

 差し当たって伊織は、葵について、常世姫に報告はしなかった。


(姫さんなら、察しているかもしれないが)


 常世姫が何を知り、何を知らないのか、伊織には分からない。

 物思いにふけっていると、からからと音が鳴り、風呂場の戸が開かれた。

 貸し切りを知らない誰かか? と出入り口を見れば。


「せ、背中を流しにきたわ」


 そこには白い浴巾タオルで前を隠す、裸の沙奈が立っていた。


「……料金はいくらだ?」

「お金は取らないわよ! 伊織くんには頑張って貰ったから。ねぎらいにね」


 沙奈が頬を赤く染め、後ろ手で戸を閉める。


「それは嬉しいな。頼むよ」


 伊織はどこも隠さずに湯舟から出て、洗い場に歩く。


「わぁーーー! ぶらぶらしてる、ぶらぶらしてるぅ! 少しは隠しなさいよ!」

「……初心うぶだな。俺を興奮させて、どうする気だ?」

「ちがっ、そういうつもりじゃなくて……!」


 内股ぎみの沙奈が、浴巾を握り締める。


「安心しろ、冗談だ」

「……むしろ伊織くんは、何でそこまで冷静なの?」

「御庭番の隠れ里の風呂は、混浴だった。慣れているんだ」


 修行に励んでいた時期、風呂は唯一の安らぎの場だった。

 伊織にとっては、今もその認識が強い。


「うぅ……、私だけ恥ずかしいのって、不公平よ……」


 不満を漏らしながらも、沙奈にやめる気はないようで。

 伊織が椅子に座ると、そばにきた沙奈が、お湯入りの桶を用意する。


「……大きい背中ね」


 伊織の背中に触れる沙奈は、おっかなびっくりといった手つきだ。


「きみの手は小さいな」

「男の人と比べたらね」


 沙奈が背中を洗い始め、伊織は心地いい感覚に身を委ねる。


「改めて、ありがとうね。伊織くんのおかげで緋王を手に入れられて……、隆源さんにも勝てたわ」

「緋王を使いこなして隆源に勝ったのは、きみの力だ」


 沙奈は隆源を生かしたと、帰り道で聞いた。

 沙奈の選択であれば、異論はなかった。

 次に顔を合わせたとき、隆源はどんな反応をするのやら。


「そう言って貰えると、自信がつくわね」


 間を置いて、ざーっと、お湯で背中を流される。


「はい、終わりよ。あと……」


 背中越しに、気配がさらに近づく。


「……これはおまけね」


 沙奈が伊織の右頬に一瞬、唇をつけた。


「お……」

「温まって、早めによく休んでね」


 振り返った伊織が言葉をかける前に、沙奈が急ぎ足で風呂場から出ていく。

 残された伊織は、ぼんやりと右頬を撫でる。


(……十分な労いだな)


 自然と笑みが浮かぶ。言われた通り、今日は早く休みたいが。


(……、……)


 まだ、やることがあった。



   ◇◇◇



 ――その日の深夜、二人の人間が世を去った。



(葵め、しくじりおって……!)


 よわい六十の男、大久保おおくぼ栄蔵えいぞうは、苛立っていた。

 場所は元老院の拠点、松江城まつえじょうの三階、私室の畳部屋。

 座布団に腰を下ろし、机で書きものをしているが、手は一向に進まない。

 書状の内容は、今回の蓮水伊織の暗殺について。

 渡す相手は依頼主、明堂院の本家だ。


(金を受け取っておいて、失敗したでは済まされぬ!)


 既に葵から報告は受けていた。ただ一言、「負けた」と。

 葵でも勝てないとなれば、いよいよ厄介だ。

 となれば別の手段を取らざるを得ないが、學園の付近では、柳葉家の目がある。

 少なくとも直接的な手段は、もう使えない。


(伊賀の抜け忍……。良い拾いものをしたと思うたが、所詮はわらべか)


 はっ、とあざけり、続きは明日にしようと筆を置く。もう夜更けだ。


(ん……?)


 ひゅうと室内に風が吹いた。ふすまは開いておらず、


「――喋れば即座に斬る」

「……っ!?」


 底冷えするような低い声が聞こえ、後ろから栄蔵の首筋に、刃が添えられた。

 薄水色の美しい刃……、天羽々斬あめのはばきりだ。


(蓮水……!?)

「元老院の一人、大久保栄蔵だな? 肯定ならば、首を縦に振れ」


 栄蔵は額に脂汗を滲ませ、微かに頷く。

 思考が追いつかなかった。

 松江城の警備には、一流の術者や、大倭国の軍人が多く配備されている。

 何せ、大倭国政府の組織だ。

 不埒者に侵入されるなど、到底ありえない。


「よし、発言を許す。ただし大声を出せば斬る」

「……っ、はぁ、はぁ……。わ、わしに何用だ……?」


 極度の緊張で、息が乱れる。


「葵を解放し、もう干渉するな」

(あの童、事情を話したか! こやつ、あれを助けようと……?)


 なぜわざわざ、とは思うが、目的が葵だとすれば。


「わしが解放すれば、葵は伊賀忍に殺されるぞ。金でねじ込んだ養子ゆえ、円城寺家も葵を守りはせん」

「伊賀忍に関しては、既に手は考えている」


 嘘か、まことか。

 蓮水伊織には謎が多く、元老院が持つ情報では、判断がつかない。


「……元老院にあだなせば、政府が動くぞ」

「斬れないと思うか? この俺が。死人しびとがどう告げ口する?」


 刃が僅かに動き、栄蔵の首に痛みが走る。


「……っ! ま、待て……。わ、分かった、従おう」

「だったら明堂院家からの裏金や、円城寺家への支援の証拠を寄越せ」

(くっ、この男、存外に頭が回る……!)


 証拠を盾に、元老院、明堂院家、円城寺家、全てを脅す気か。

 裏金や特別な支援があったと明るみに出れば、常世姫や、残りの五大武家が黙ってはいまい。

 場合によっては、政府からも処罰が下るだろう。

 これは元老院全体が関わる話で、証拠を渡せば、栄蔵の立つ瀬がない。

 証拠を渡さなければ、斬られる。

 どちらを選んでも不味いが、命あっての物種ものだねだ。


「……左の箪笥たんす、二番目の引き出しに、裏帳簿がある。ついでに金もやろう。蓮水、わしと組まんか?」

「組むとは?」

「わしの権力と財力、お前の武力、合わせれば無類の強さだろうて。いずれは常世姫を陥れ、共に出雲の実権を握ろうぞ」

「……興味ないな。裏帳簿は貰っていく」


 刃が引かれ、再び風が吹く。

 栄蔵が慎重に振り向けば、室内は無人だった。


(……こうなれば適当に理由を作り、ひとまずは皆を誤魔化すか。その間に、蓮水を殺して裏帳簿を取り返せば……)


 思案していると、急激な眠気を感じた。

 疲れた、と栄蔵は畳に横たわり、意識を手放す。

 そのまま目覚めないとも知らずに。



   ◇◇◇



(どこまでも権力に固執こしつするとは、愚かだな)


 夜空を見上げ、松江城の屋根上に立つ伊織は、刀を鞘に収めた。

 無月一心流魔刀術、奥義、しん幻傷げんしょう――通常の幻傷とは逆、斬った相手に、斬られていないと錯覚させる暗殺の術だ。

 相手は無傷を信じ、悪夢にうなされ、緩やかな失血死に至る。

 当初は殺すかどうか、迷っていたが。


(姫さんに仇なす気なら、仕方がない。帰って寝るか……)


 伊織は裏帳簿を懐に仕舞い、闇夜に紛れて場を去った。



   ◇◇◇



われが沙奈に負け、命を拾わされるとはな……)


 同刻、明堂院隆源は、白富士山しらふじやまを歩いていた。

 ほこらの周りの結界内で休み、回復してからの下山だ。

 まだ完全に傷は塞がっていないが、あまり悠長にしていても、食糧が尽きる。

 一般的に夜中の移動は危険だが、隆源の場合、覚識で地相を読めば問題なかった。


(我が神器にさえ、選ばれていれば……!)


 悔しく、恨めしく、屈辱だった。

 まさか散々見下してた沙奈が神器に選ばれ、その力に負けるとは。

 たゆまぬ鍛錬で得た自負が揺らぐ。


(もっと強くならねば)


 突き詰めればそれでいい。どんな無様を晒そうとも。


(……何だ?)


 地相に異変が起き、隆源は眉根を寄せる。

 強大な気配が、凄まじい速さで接近してくる。


「……っ、式神召喚、護法善ごほうぜん、きたれ吉将きっしょう密迹金剛みっしゃくこんごう!」


 咄嗟に式神を召喚し、注意を払う。

 木々を薙ぎ倒し、地面を抉り、現れたのは一匹の獣だ。

 赤黒い泥土でいどを纏った、大きなおおかみ。漂う異臭が鼻をつく。


「弱い、ね。悔しい、か? ひっ、ひひっ……」


 狼が言葉を発した。声色は、老若男女が入り混じったかのように不気味だ。

 口端からぼたぼたと泥土が垂れ、地面の草を枯らす。


呪言獣じゅごんじゅう……! 我の血の臭いに釣られたか!」


 話には聞いており、正体の看破に時間は要らなかった。

 人間を喰って力を増し続けている、危険な怪異だ。


「分家に、負け。立場は? 凡愚ぼんぐは、どちら?」

「ぐっ……!?」


 隆源の身体が固まる。呪言獣の言葉は、対象の心を映す呪いだ。

 耳にすれば心がむしばまれ、身動きを封じられる。


「舐めるな! やれ、密迹金剛!」


 非術者であれば抗えないが、隆源はそれなりの術者だ。

 この程度、と強引に移動し、良き土地から密迹金剛をけしかける。

 しかし呪言獣が四足で駆け、


「な、にぃ……!? がはっ……」


 泥土を撒き散らし、密迹金剛の片腕を削いだ。

 一瞬の出来事だった。強い、強すぎる。予想よりも遥かに。

 視認できない速度で回り込んだ呪言獣が、隆源を押し倒す。


「なっ、こうなれば……!」


 隆源は即座に二枚の起爆符を使い、至近距離で爆発させた。


「ごほっ、げほっ……!」


 粉塵にせき込む。半ば自爆の攻撃だ。

 呪言獣の頭部が半壊し、


(馬鹿な! いったい、何十人喰っている!?)


 内から湧き出る泥土で再生した。


「死にたく、ないね? 生きた、かったね?」


 呪言獣が幼児の声で呪いをささやき、大口を開く。


「我を、喰らうか……! 泥にまみれた畜生がっ!!」


 隆源に鋭い牙が迫り、


「ぐああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 苦痛の叫びが、白富士山に木霊した。

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