第10話 魔法の世界

 朝からひどく暑い日のこと。壱護の屋敷には風観と天の姿があった。二人ともローブを身にまとい、魔導書も持っている。

「なんで俺たちなんだ」

 実に不機嫌そうな顔で風観は音羽に言う。ローブを羽織りながら、音羽はさも当然というように言ったものだ。

「他にいないのよ、魔法使いの知り合いなんて」

「この間の集会で何人も会っただろう」

「たった一度の挨拶しかしていないような相手よ。まず、関係を構築するところから始めないといけないのは、非効率的だわ」

 それに、と、音羽はいたずらっぽく笑い、ローブのリボンを結びながら、風観の方を見て言った。

「魔法の世界、気になってるんでしょう?」

 その言葉に風観は何も言い返すことができなかった。図星である。何か言いたげに唇を動かしていたが、結局、言葉を飲み込んだ。

 興味深そうに屋敷の中を見て回っていた天が二人のもとにやってくる。

「まさか、本当に甘味が原因だったとはね」

 天は言うと、ソファに腰掛けて明るく笑った。

「音羽、大当たりだ」

「いやまさか私もそうだとは思いませんよ……」

 そしてその解決のために自分が駆り出されるなど、予想外もいいところだ。音羽は少し緊張した面持ちで息をついた。

 そうしてしばらく三人で話をしていたら、壱護がセラとともにやってきた。

「そろそろ出発の時間だけれど、準備は大丈夫かい?」

「ええ」

 と、音羽が返事をしたとき、二階の扉が開いてアネッサがやってきた。

 アネッサは音羽たち三人を見ると、口元に楽し気な弧を描き、目を細めた。

「やあ、こんにちは」

 ゆったりと階段を下りてくるアネッサは、今日は濃淡が様々な紫色を基調としたカソックのような服に、真っ黒なローブを羽織っていた。

「ごきげんよう、音羽。息災かい?」

 音羽はアネッサに駆け寄った。

「こんにちは、アネッサさん。今日の洋服、とっても素敵だわ」

「ああ、音羽。貴女のような麗しい乙女のお褒めにあずかり光栄だよ」

 アネッサは機嫌よく音羽の両手を取ると、まるでダンスをするようにくるりと回った。音羽のローブとアネッサのローブがふわりと舞い、大小二匹のカラスアゲハが、戯れているように見えた。

 壱護はその様子を微笑ましげに見つめる。セラは少し怪訝そうに、アネッサから距離を取るようにしてつぶやいた。

「仲良いな」

「音羽がこの屋敷に出入りするようになって、よくお茶しに来てるからねえ。アネッサ」

「ああ……騒がしい者同士、気が合うのだろうな」

 つい先日も世界樹の話をした後、音羽と長いこと話をしていたアネッサの様子を思い浮かべて、セラは嘆息した。そんなセラに壱護は少しいたずらっぽく聞く。

「うらやましいかい?」

「そんなわけがあるか」

 セラはけんもほろろに、壱護の言葉を否定したのだった。

 ローブがゆったりと元の形に戻ったところで、アネッサは名残惜しそうに音羽と離れると、表情を改めて言った。

「それじゃあ、出発するとしよう。ついておいで」

 ローブをひるがえし、アネッサは壱護と並んで階段を上っていく。そのすぐ後に音羽、風観、天と続く。セラは壱護の肩にのっていたが、アネッサから遠い場所にいた。

「おや、その鍵は……」

 壱護がアネッサの手元を見て言う。アネッサの手には、木製のカギが握られていた。

「三人とも、あちらの世界は初めてだろう? だったらこちらの方がいいかと思って奮発したのさ」

「確かにいい考えだ。しかし、よくクーウォンが許したな」

「ああ、言ってないからな」

「……懲りないなあ、君も」

 壱護は苦笑し、アネッサはいたずらっ子のように笑った。その会話を聞いていたセラは、冷めた目をアネッサに向けている。

 扉の前にアネッサが立つ。壱護は三人の後ろに回った。

「では……」

 木製の鍵を差し込み、回す。かちりと軽快な音が鳴ったのを確認すると、アネッサは扉を押し込んだ。三人は息を飲む。

「行ってくる」

「行ってきます」

「ああ、気を付けて」

 壱護はにこやかに手を振り、セラもゆらっとしっぽを揺らして四人を見送った。

 扉の向こうには、広大な草原と澄み切った空が広がっていた。

「ここが、魔法の世界……?」

 突然外につながったことにも確かに驚いたが、鍵を使い分ければあらゆる場所につながるというのは音羽を含め、三人とも理解していたので、少し拍子抜けしたような表情をしていた。

 確かにきれいではあるが、正直、魔法らしさというものが他になかった。どこからか轟音が聞こえるが、広大な草原を吹き抜ける風というのは、そういうものだろうとなんとなく三人は思った。

 そんな彼らの表情にムッとすることもなく、むしろ嬉々とした表情でアネッサは言った。

「後ろを振り返ってごらん」

 三人はそろって振り返る。と、その瞳はみるみる見開かれた。

 なにせ自分たちの後ろにあったのは、両手を広げるどころか、どれだけの人間が並んでも追いつかないような幹の大樹だったのだから。

 先ほど通ってきた扉は樹にくっついていて、今は固く閉ざされている。

「でっか……」

「上が見えねえ……」

「葉がこすれる音だったのね、この地響き……」

 ぽかんと見上げる三人にアネッサは誇らしげに説明した。

「これは連絡樹といってね、あちらの世界とつないだり、遠出をしたりするときに使われる。特別な使用許可が必要で、費用も高額だ。交通網が整備された今、使う人は少ない」

 魔法の世界とはいえ、みんながみんな魔法を使いこなせるわけではないので、公共交通機関というものも発達しているのだという。

 そんな説明を聞いて、やっと我に返った三人はアネッサに視線を向ける。アネッサは優しく笑って言った。

「直接私の店につなぐこともできたが、それでは味気ないだろう? さあ、おいで」

 歩き出したアネッサに三人は素直についていく。

 しばらく進んでいくと、だんだんと見えてくるものがあった。ただでさえ開けていた視界が、さらに広がっていく。

「ここが、魔法の世界。といっても、ほんの一部しか見えないけれどね」

 草原の端、断崖絶壁のその向こうには、広大な街と自然が広がっていた。まるで、世界中の様々な時代や文化を寄せ集めたような、なんともにぎやかで、明るくて、でもどこかさみしげなようで、一言では表せないような光景だった。

「……すごい」

 三人ともあっけにとられていたが、一足早く我に返った音羽は、はじけるような笑顔でアネッサを振り返った。

「すごいわ! これが魔法の世界なのね。本では読んでいたけれど、実際に見ると……何とも言えない気持ちになるわ。ああ、早く町に出てみたい!」

「喜んでもらえて何より」

 普段、不機嫌そうな表情ばかり見せる風観も、初めて見る光景に興奮を隠せないようだった。幼い子どものように瞳をキラキラとさせて、ほう、とため息をつく。

「世界樹は、やっぱり見えないんだなあ」

 ぽつりとつぶやいた天の言葉に、音羽も風観もハッとした。

 アネッサはくすくすと笑うと言った。

「そりゃあ、特別な場所にあるからねえ。ま、それはおいおい話すとして、まずは私の店へ向かおう」

 と、アネッサは魔導書を宙に浮かせ、あるページを開く。そして何やら唱えると、スッと手を空に向けた。

 すると、小さな花火が打ちあがる。空は明るいというのに、はっきりとよく見える桃色の花火だった。パンッと軽い破裂音がして、桃色の花火はしばらく滞空すると、パラパラと花びらが散るように消えていく。

 それから数分後、四人の前にずいぶんきらびやかな乗り物が現れた。例えるなら、メリーゴーラウンドの馬車のようである。馬もまるで陶器でできているようではあるが、確かに生きていた。ゆらゆらとたてがみを揺らし、ちゃんと呼吸をしている。

 御者が座る席には、小柄な少女が座っていた。

「やあ、胡桃こもも。世話をかけるね」

 アネッサは少女を胡桃と呼んだ。

 から紅の長髪は編み込まれ、純白のリボンで留められている。甚平にも似た造りの服は、白い小花柄がちりばめられた山吹色。切れ長の目元には薄桃色の紅が差してあった。胡桃は桜貝のような唇をほんの少しだけ微笑ませた。

「大丈夫、アネッサ。いつものこと」

「おや、私はそんなに人使いが荒いかな」

「そっち? お客様」

 胡桃は黒目がちなその瞳を音羽たちに向けた。そして、一人ずつ指差し確認をしながら、

「音羽、風観、天」

 と言った。

 淡々とした声で胡桃は続ける。

「私、胡桃。アネッサの店で、仕事、してる。よろしく」

「よろしくお願いします」

 かしこまったように三人が言うと、胡桃は目をすぼめて首を横に振った。

「堅苦しいの、私、苦手。楽にしてて」

 アネッサに促され、三人は馬車に乗る。普段は荷車を引いているらしいが、今日はお客を乗せるものを引いている。それもまたメリーゴーラウンドのようで、落ち着いたパステルカラーで統一されていた。アネッサは胡桃の隣に座った。

「やっぱり、私たちが住んでる世界とは全然違うのねえ」

 人心地着いたところで、音羽はソファの背もたれに身を預けて言った。ふわふわとした手触りのクッションは、まるでマシュマロのようである。

「なんていうか、世界の全部がうちの庭みたい」

「それは言い得て妙だね」

 天は頬杖をつき、小さな窓から楽し気に外を見ながら言った。

「魔法使いがいることが当然の世界だから、魔力に満ち溢れているんだよ。当然、魔力のない人たちもいるわけだけど……比率としては、僕らの世界とは逆かもね」

「話には聞いてたけど、実際に見てみると圧巻だよなあ……」

 風観も横目で外を見る。

 その頃、アネッサと胡桃は賑やかな馬車の声を聞きながら話をしていた。

「クーウォン、怒ってた」

 馬を操りながら、胡桃は言う。馬はまるで踊るように空をすべる。アネッサは苦笑を浮かべた。

「げ、もうバレた?」

「鍵、いつも使ってるやつ、持って行ってないから」

「あー……」

 うかつだった、とアネッサは頭を抱える。胡桃は笑うようにため息をついた。

「アネッサ、お金の使いどころ、下手。もう長いこと、近くで見てる。全然変わってない」

 ずばりと言う胡桃に、アネッサは何も言い返せないようだった。アネッサは眉を下げて笑うと、両手を合わせた。

「君たちの給料はちゃんと確保してるから、勘弁して」

「……そういうことじゃない。アネッサ、なんにも分かってない」

 胡桃はあきれたようにため息をつき、ちらっと馬車の中を見る。音羽たちが眺めに夢中になっているのを確認すると、ムッとした表情で続けた。

「アネッサ、店の資金、足りなくなったら、すぐ自分の生活費、削る。クーウォン、それを心配してる。私も同じ」

「世話をかけるねえ」

「今更、どうにかなるとも思ってない。頑張って商売、励むしかない」

「肝に銘じます」

 馬車はやがて、一つの町にたどり着いた。

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