第9話 世界樹
それから数日後のことであった。アネッサが屋敷にやってきた。今日はくすんだ赤紫色のスカートに、上品なリボンがたっぷりと胸元にあしらわれたブラウスを着ている。
「世界樹のことなんだが……」
紅茶をすすり、話を始めたアネッサは、どこか困惑しているようだった。
まずいことが起きたという感じでも、かといって何もなかったというわけでもない、複雑な感情を含んだ表情である。
「なんだ。もったいぶらず、早く言え」
人型になったセラは、ソファにふんぞり返って言い放つ。本来の姿の時と物言いは同じだが、なぜだか数倍、偉そうに見える。
アネッサはその態度に物申すことなく続けた。
「確かに魔力は不安定だ。だが、三柱の魔力が消失しているわけでもないし、樹が枯れているわけでもない」
「じゃあ、いったい何が……」
壱護が聞けば、アネッサは少し間をおいて、つぶやくように答えた。
「どうも、三柱の機嫌が悪いみたいでね」
「機嫌?」
音羽と壱護、そしてセラの声がそろった。アネッサは頷いた。
「ああ……甘露草の不作は知っているかい?」
その言葉に音羽たちは視線を合わせた。アネッサはその様子に気付くことなく、考え込むようにして続ける。
「それで、供物の甘味が減ってしまって、今では他の材料を代用した菓子を捧げているのだが……どうもそれがお気に召さないようで」
「確かに、味が格段に違うからね。おいしくないというわけではないが、明らかに格が違う」
「そうなんだよ。それで魔力が不安定になっているんだ」
なんということだ、と音羽は驚いた。何せ自分の推測がおおむね当たっているのだから。
「三柱の機嫌が損なわれていたのか……そりゃ、分かりづらいわけだ」
壱護は、やれやれといったように笑い、セラも渋い顔をした。
「魔力云々の問題であれば、管理しているやつらが気付くだろうが……三柱の機嫌ともなれば、まあ、まず気付かんな」
「神様って、そんな扱いなの?」
音羽が誰ともなしに聞けば、アネッサが苦笑して答えた。
「知ろうと思っても、容易に知れない存在なんだよ。神様というのは。近くにいても、分からないことはたくさんある」
まあ確かにそうか、と音羽は納得した。人間同士でも想いの行き違いというものがあるのだから、そりゃあ、神様相手であれば、余計に分からないのかもしれない。
アネッサは表情を引き締めなおした。
「しかし、放置しておくわけにもいかない。世界樹に全く影響がないとはいえないからな」
そしてアネッサは姿勢を正すと、壱護をまっすぐ見据えた。
「そこで、壱護。君に依頼したい」
「私かい?」
「ああ。何でも、何とか三柱と対話できた者の話によるとな……」
アネッサは実に真剣な表情をして言ったものだ。
「甘露草の代わりになる甘味が欲しいとのことだ」
「なるほど、まあ、そうなるだろうね」
壱護は苦笑を浮かべた。アネッサは背もたれに身を預けると、一つ息をついて続けた。
「至上の甘味というものは、なにも甘露草だけに限らない。そこで君に力を貸してほしいんだ。甘露草に匹敵するか、あるいはそれをしのぐほどの甘味になり得る植物はないか、ともに探してほしい」
「分かった。つまり、神様のご機嫌を取るんだね」
「そういうことだ」
神様のご機嫌取り、とはなんと壮大な……と、音羽は話に置いていかれつつあったが、壱護の実に朗らかな一言で、話のど真ん中に連れ戻された。
「なら、音羽を連れて行くといい」
「えぇっ?」
音羽は思わず壱護を見、アネッサに視線を向け、そしてもう一度壱護に視線を戻した。
困惑する音羽だったが、壱護は何の心配もないというように微笑み、セラはセラで当然というように頷いている。
「私はこの屋敷を守らなければいけないからねえ」
のんびりとした口調の壱護に、音羽は詰め寄った。
「いやいやいや、ちょっと待って! 私が行ったところでどうにかなるものなの?」
さすがの音羽も、こればっかりは自信がない、というより自分の手に負えるものではないのではないか、と思ったのだ。しかし壱護はすがすがしいくらいに言ったものである。
「以前の音羽だったら悩むところだが、今なら大丈夫だろう。知識も実力も、十分付けたはずだ」
「でも……」
「それはいい!」
アネッサは明るい笑みで言ったものだ。
「経験を積むにはいいのではないか?」
「えっ、本当に? 冗談じゃなくて?」
「いざとなれば私もいる。向こうの世界には、信頼できるやつも多い。一度来てみるといいさ」
ただ、とアネッサは形のいい顎に手を当てて、少し思案して言った。
「あと二人ほど、一緒に来てくれる子がいると安心だな。三柱を相手にするのであれば、その分、疲労も大きい」
「役割分担、ということだね」
壱護も頷く。セラは腕を組んでにんまりと笑うと、音羽に向かって尊大な態度で言った。
「強大な力を相手にするのは、相当骨が折れる。頑張れよ」
これはもう拒否権はないのだろう。
音羽は早々に悟ると、首を縦に振った。
「分かったわ」
事実、魔法の世界に興味はあったし、一度目にしてみたいと思っていたので、断るつもりはなかった。
しかし……大変なことというのはどうしてこう、突風のようになってくるのだろう。もっと前触れのようなものがあったっていいのに、と音羽は思った。
「こうなったら、巻き込んでやろうじゃないの」
その突風に一人で吹き飛ばされるつもりなど毛頭なく、音羽は、きれいな細工が施された天井を見上げ、誰にも聞こえないように呟いたのだった。
まあ、そもそも、音羽そっちのけで盛り上がる二人と一匹の耳には入るはずもないのだが。
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