第5話 はじまり
翌日、音羽は早々に屋敷へやってきた。
「おや、早いね」
ワインレッドが渋い雰囲気を醸し出すスーツを身にまとった壱護は、朗らかに音羽を迎え入れた。音羽は、はじけるような笑みを浮かべる。
「ワクワクして、いてもたってもいられなかったの!」
「そうかい」
「落ち着きのない娘だ」
微笑まし気な壱護とは反対に、ふうーっと長いため息をつくのは、ソファに座るセラだ。音羽は「あら」とからかうように言うと、セラの隣に座った。
「賑やかなのはお嫌い?」
「騒がしいのは好ましくない」
「そう。まあ、そういう人もいるわよね。いや、この場合は獣かしら?」
音羽の言葉に、セラは鋭い視線を彼女に向ける。
「獣だと? 馬鹿を言え。俺はそんな低俗なものではない」
「低俗……乱暴ねえ」
そんな言い合いをする一人と一匹を微笑ましげに見ながら、壱護は向かいに座った。それを確認したセラは、ピルピルッと耳を振り、壱護の隣へ軽やかに移動した。
「あら、嫌われたかしら」
「セラは素直じゃないのさ」
「気持ち悪いことを言うな」
ふん、とセラはそっぽを向いてしまった。
壱護は腰にかけていた鍵の束を取り出すとテーブルに置いた。
「約束の時間まで少しあるから、今のうちに説明しておこうか」
「約束?」
「今日は音羽の魔法道具をこしらえようと思っていてね。昔なじみの店の主が来てくれるのさ」
「なるほど、そうなのね」
音羽はそわそわした様子で「それで?」と話を促した。壱護は鍵に触れながら続ける。
「この鍵は、二階にある扉に使うものだ」
「全部?」
「ああ、全部。そして、鍵ひとつひとつでつながる場所が変わる」
壱護はいっとう古い鍵に触れ「これは昨日入った樹の間」、次に同じくらい古い鍵に触れ「これは魔法の庭」と言った。
音羽は興味深そうに鍵を見つめる。
「へえ~……他の鍵は?」
「主に倉庫だ。歴代の主たちが物をため込む質でねぇ。魔法で倉庫を作ったのさ」
「ああ、そういう……」
「壱護が珍しいのさ。今まででここまで荷物の少ない主は初めてだ」
セラは音羽を横目で見ながら「あんたは多そうだな」と付け加えた。
「倉庫が欲しいと思うほど物は持ってないし、揃える余裕もないわよ」
音羽があきれたように言うと、セラはふんと鼻を鳴らして再びそっぽを向いた。
壱護は続けた。
「そして今日やってくる店の主は、魔法の世界から来る」
「お客を招き入れるときはどうするの?」
「こちらが鍵を用意するのが一般的だね。一度使ったら役目を終える鍵を準備して、相手に送る。まあ、頻繁にこちらの世界にやってくる業者なんかは、いつでも、何度でも使える鍵を持っているね。今日来る店の店主も持っているよ」
「へえ、不思議ねえ」
音羽が相槌を打ったその時、柱時計が鳴った。と、柱時計の音が鳴りやんだと同時に、二階の扉をノックする音がした。
「おや、来たかな」
壱護は鍵の束を腰に戻すと、二階へと続く階段を上っていく。少し緊張した面持ちでそれを見つめる音羽の横顔をセラは薄く瞼を上げて黙って見つめた。
扉が開き、柔らかな風と光とともに現れたのは、年齢不詳の女性――アネッサだった。
美しい黒髪は濡れた烏の羽のように輝き、垂れ目がちな瞳は濃いべっこうのような色をしている。丈の長いワンピースは灰色で、腰のあたりをベルトで留めている。羽織ったローブは黒く、つばの広い帽子はいかにも魔法使い、というような見た目だった。
「やあ、壱護。息災かい?」
「おかげさまで。君も、変わりないようだね」
「何を言う。私は日々、美しくなっているだろう」
アネッサはよく通る声でそう言うと、つい、と視線を階下の音羽に向けた。音羽は思わず姿勢を正す。その様子を見たアネッサは「ほぉ……」と小さくつぶやき目を細め、ゆっくりと階段を下りていく。手には年季の入った大きなトランクが握られていた。
「貴女が、壱護の後継?」
「はい」
音羽は立ち上がり一礼する。アネッサは音羽より背丈があり、必然的に見降ろす形になる。人形のように整った顔に黒ずくめの装束も相まってずいぶんな迫力があったが、アネッサはその雰囲気を打ち消すような朗らかな笑みを浮かべた。
黒いレースの手袋をはめた右手で、音羽の顎に触れる。
「ずいぶんかわいらしい子じゃないか。貴女、名前は?」
「お、音羽と言います」
「名前も
そう言うとアネッサは恭しく膝を折ってお辞儀をした。
「私はアネッサ。魔道具専門店ポラリスの店主をしている。君の祖父、壱護さんとは長い付き合いでね」
アネッサは先ほどまで壱護が座っていた場所に座ると「貴女も座りなさい」と音羽に腰掛けるよう促した。音羽はその通りにする。セラはいつの間にか姿を消していた。
壱護は音羽の隣に腰掛けると、アネッサの分の御茶を用意して、さっそく話を始めた。
「この子のローブと、魔導書をこしらえてほしいんだ」
「ああ。分かっている」
そう言うと、アネッサはトランクを開け、中から真っ黒なローブと分厚い皮張りの本を取り出し、テーブルの上に置いた。
「さて、それじゃあ早速だが、説明しても?」
「は、はい」
「うん、いい返事だ」
アネッサは言うと、ローブを手に取った。
それはまるで夜空をそのまま生地にしたような輝きをしていた。絹のような、そうではないような、不思議な質感だ。
「これは魔法使いの正装であるローブだ。魔力増強と、魔法による攻撃の無効化という効果を持つ。見習いになったときに作るのさ。あとで採寸させてもらうよ」
「はい」
「そしてこっちが……」
続いて、分厚い本を手に取る。
「これは魔導書。君が経た時や出来事が刻まれていく。簡単に言えば、魔法使い個人の歴史書のようなものだね。これは私のものだが、触ってみるかい?」
差し出された魔導書を音羽は恐る恐る受け取る。アネッサは頬杖をつくと「開いてみてごらん」と言った。その表情は少しいたずらっぽかったが、目の前の魔導書に夢中な音羽は気づかない。
「はい……あれ、え? 開かない……」
困惑したように魔導書を触る音羽をアネッサは面白そうに見る。その視線は、新しいおもちゃに翻弄される子犬か何かを見ているようでもあった。壱護は苦笑した。
「音羽、それはね。持ち主以外には開くことができないんだ」
「えっ」
音羽は壱護を見、アネッサを見、魔導書を見、そしてもう一度アネッサを見た。
アネッサは「ふふ」と笑って説明した。
「そう。魔導書は持ち主以外には開けられない。唯一例外的に、持ち主に危機が迫ったときだけは開けられる」
「そういうものなんですねぇ……」
音羽はアネッサに本を返す。
「それじゃあ」
と、アネッサはローブと魔導書をトランクに戻すと、今度はメジャーのようなものを取り出した。
「早速、採寸をしようか」
ふとその時、アネッサは何かに気が付いたようにあたりを見渡した。
「そういえばセラがいないね? お出かけか?」
「いや、さっきまでいたけど……」
音羽もどう答えたものかと考える。しかしアネッサはセラがいないことなど些末なことだというような笑みを浮かべた。
「彼も随分歳だろう。気を付けておいたほうがいい」
そうアネッサが言って音羽に立つよう促したときだった。壱護の部屋の扉が勢いよく開き、見慣れない少年が入ってきたのだ。
美しい金色の髪にエメラルドグリーンをたたえた、色白の、美しい少年だった。身にまとうベストとそろいのズボンは濃紺のベルベット、シャツはピシッと真っ白で、首には壱護のものと同じ石をつけたループタイをかけていた。
とても美しい少年だった。ただ彼は、ものすごく不機嫌な顔をしていた。
「誰が歳だ。
その声は見た目にそぐわない、大人っぽい色をしている。そして何より、とげとげしかった。そのとげとげしさに音羽は覚えがあった。
音羽がその心当たりに気が付くより先に、アネッサは少年に、満面の笑みであいさつをした。
「やあ、セラ。久しぶり。相変わらず麗しいねえ」
その言葉に少年――セラは皿に顔をしかめた。驚いているのは音羽だ。
「ああ、セラか! ……えっ、セラ? なんで人間に……?」
セラは律儀に、かつ、不愉快極まりないという声音でその問いに答えた。
「こいつはローブに毛がつくのを嫌うんだ。だから仕方なくこの姿をとっている」
「商売が絡まないなら、うるさく言わないよ」
アネッサはメジャーをふわふわと魔法でもてあそびながら笑う。
「さあ、おいで。見習い魔法使い。あなたにぴったりのローブを作ってあげよう」
言われた場所に音羽が立つと、アネッサは何やら呪文を呟いた。すると、メジャーが意思を持ったように動きだし、音羽の周りを踊るように
「このメジャーはね、お客のサイズを覚えることができるんだ。すごいだろう?」
「へえ……」
「……よし、おいで」
メジャーは最後に音羽にじゃれつくようなしぐさを見せた後、アネッサの手元に戻っていった。
アネッサはメジャーをトランクにしまった。
「これで採寸は完了だ」
「あ、ありがとうございます」
「明後日までには出来上がると思うよ。まあ、楽しみにしているといい」
そう言ってアネッサはソファに座った。
「ところで壱護。今日の茶菓子は何だい?」
「まだ居座るのか」
セラが言うと、アネッサは「別にいいだろう」とあっけらかんと笑い、壱護はほのぼのと言った。
「今日はクッキーを用意しているよ」
「君のクッキーは最高なんだ。さっそく、いただこうか」
「ふてぶてしいやつめ……」
「何か言ったかい?」
魔法使いたちのそんなやり取りを見、自分も彼らの仲間に入るのかと思った音羽は、こぼれる笑みを押さえられなかった。
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