第3話 旧校舎
音羽の通う学校はつい最近、改修工事が行われたばかりだった。どこもかしこも新しく、生徒たちは快適に過ごしていたが、音羽は少し物足りないと思っていた。
もちろん、設備が新しいのは喜ばしいことであった。しかし以前の古い校舎は趣があって、夕暮れ時はどこか物悲しく、木の香りと古い本のような香りが立ち込めてなんだか好きだったのだ。
しかし一部、旧校舎が残されているところがあった。生徒はおろか教師すらも滅多に寄り付かない場所で、改修の必要がないと判断されたのか、そのままになっていたのだ。音羽は時折、教師やほかの生徒たちの目を盗んでそこにやってきていた。
残された木製の椅子と机の埃を落とし、音羽は座り込む。室内は思いのほかきれいで、かつてはきれいに手入れされていたであろう空の本棚があり、フィラメントが切れて使い物にならなくなった電球の代わりに、ひびも入っていない透明なガラス窓から差し込む穏やかな春の日差しが室内を照らし出している。
「一体どういうことなのかしら」
祖父からもらった手紙を丹念に読みなおし、陽に透かしてみる。しかし何も起こらない。明日になれば分かるとはいえ、気になることに変わりはなかった。
「午後三時……ってことはおやつの時間よね。もしかして、特別なお菓子でも準備してくれているのかも。それじゃあ、今日はその準備ってところかしら」
音羽は楽しげに笑った。教室で見せる少し大人びた様子とは違って、純粋な子どもの笑みだった。
「何が食べられるのかなぁ。ホールケーキ? 私が知らないお菓子ってことギシもあり得るわよね……」
頬杖をつき窓の外を眺めながらあれこれと音羽が考えていると、ギシッと床板がきしむ音とともに「おい」と鋭い声が飛んできた。
驚いた音羽が振り返った先には、長身の少年が立っていた。
制服を着ているので教師ではなく生徒であることはすぐに分かった。学年ごとに色が分かれている上履きの色は音羽と同じ赤。すらりとした体形で、絹のような髪は光が当たれば柔らかく金色に輝いて見えた。瞳はべっこう色で、色素の薄い肌の上で琥珀のようにきらめいている。
「こんなところで何してる」
今、少年はその顔をしかめ、吐き捨てるように音羽に声をかけた。
「何って……ただ座ってぼーっとしてるだけだけど?」
音羽は音羽で、やってきた彼が教師ではなかったことに少々安堵していたが、同時に、少年のその態度にムッとしているようだった。発した言葉にも表情にもとげがある。
少年はまさしく不審者を見る目を音羽に向けた。
「お前は誰だ」
「なあに? 名前を聞くなら先に名乗るのが礼儀ってものじゃない」
「怪しい人間に名乗るつもりはない」
同学年だろうに、怪しいとは何事だ。と、音羽は思ったが、口では別のことを言った。
「それなら私だって失礼な人に名乗る筋合いはないわ」
お互いににらみ合ったまま、それから少しの間があった。
その空白に耐えかねて先に口を開いたのは少年の方だった。面倒くさそうな表情で腕を組む。
「手に持っているものは何だ」
「あら」音羽は面白そうに笑って手紙を制服のポケットにしまい「また質問? ずいぶん私に興味があるのね。でもこれこそあなたには関係ないものよ」と言った。
その様子を見て少年は天を仰ぐと、一つ息をついた。
「……ちっ、もういい」
少年は一歩、音羽の方に近づいた。
「ただ、これだけは聞かせろ。お前、どうやってここに入った」
「それじゃあ、その質問に答える代わりに、私にも二つ質問をさせて頂戴」
音羽は立ち上がって少年をまっすぐ見据え、二本指を立てて突き付ける。少年は眉間にしわを寄せ、聞き返した。
「なぜ、二つ」
「今の質問に答えれば、私は二つ質問に答えたことになるわ。だったら、同じ数だけあなたも答えてもらわなきゃ、不公平ってものでしょう」
少年はそれを聞いて、実に面倒くさそうな表情を音羽に向けた。そしてしばらくの間の後、深いため息をつき「……分かった」と低くうめいた。
音羽はその答えを聞いてにっこりと笑った。
「ありがとう。それじゃあ、まず一つ目。あなたこそ、ここにきて何をしようとしていたの?」
「本を読みに来ただけだ」
見れば少年の手には確かに何冊かの本が握られていた。そのどれもが古びていたが、たった一冊だけ真新しい皮張りの本があった。その存在も気になったが、音羽は別のことを尋ねた。
「それじゃあもう一つ。あなたはどこから入ってきたの?」
「……名前は聞かないのか」
「私も聞かれたけど答えていないもの。それに、あなた同級生でしょう。聞かなくてもじきに分かるわ」
「俺は、向こうの扉から入ってきた」
少年が指さした先には確かに出入り口があった。もとは廊下がつながっていたのであろうが、解体に伴ってなぜか立派な扉が設けられていたのだ。
「あら、私もあそこから入ったわ。ここの扉、立派な割にいつも鍵が開いているんだもの」
いつも鍵が開いている。その答えに少年は少し興味を示したが、すぐに元の不機嫌顔に戻った。
「これで私も質問に答えたことになるわね。それじゃあ、私はおいとまするわ。どうやらお邪魔みたいだから」
音羽はにやりと笑って言うと、少年の横をすり抜け、扉へと向かう。少年は音羽を視線だけで見送ると、さっきまで音羽が据わっていた場所に座った。音羽は扉に手をかけると、一度振り返って少年の顔をしっかり記憶に刻むように見つめ、そうしてやっと旧校舎の外に出た。
音羽が立ち去って少しして、扉がもう一度開く音がした。少年はいぶかしげに本から視線を上げるが、やってきた人物を見て、すぐに表情をやわらげた。
「やっほー、
「子ども扱い止めてください、
風観と呼ばれたさきほどの少年の前に立つのは、ずいぶん小柄な少年だった。学年は風観より一つ上らしく、二年生の学年カラーである青色の上履きを履いていた。制服は大胆に着崩している。オレンジ色に近い、明るい茶色の髪にぱっちりとした瞳も相まって、ずいぶん幼く見えた。
「また難しそうなところを読んでるねぇ」
近くから椅子を引っ張ってきて、天は風観の向かいに座る。
「お前、十分視えるだろうに」
「より視えるようになれば、それに越したことはないので」
「真面目だねえ」
天は頬杖をつき、ぼんやりと空間を眺めた。そしてふと思い出したように口を開く。
「そういえばさっき、こっち側から来る女の子とすれ違ったんだけど。何か知らない?」
そう聞かれた風観は先ほどまでの穏やかな表情から一転して、実に不機嫌そうな顔になった。それを見て天が笑う。
「その様子じゃ、何か知ってるみたいだね」
「……扉に鍵が開いていなかったから、入ったと言っていました」
「おぉ」
次がれた風観の言葉に、天は少し驚いたようだった。
「それはそれは……楽しみだねえ」
そして、興味深そうに笑って「仲間が増えるのかな?」とつぶやけば、風観は不本意ながらもその言葉に同意を示した。
「じきに分かると思いますが……おそらくは」
「嬉しくないの?」
「はい」
迷いなく答えた風観に、天は笑った。そしてなだめるような視線を向けると続けた。
「面白い子かもよ?」
「生意気でした」
「賢いかも」
「それは……どうでしょうね」
自分がそんな話題に上がっているともつゆ知らず、音羽は祖父からの手紙に思いをはせていた。
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