既原春介7
春風が僕たちの間を吹き抜ける。
椿さんの資料を握りしめて辿り着いた場所は、草木に囲まれた穏やかな場所だった。此処にある人工物なんてアスファルトの道路と電柱くらいのもので、民家一つありはしない。
雪音の実家だというその場所にも一切の人工物は無く、背の低い草の中で眠るようにして雪音は居た。
僕が追い付いた時、雪音は丁度死のうとしていた。
棺の中に納まるように、白い怪物に心も体も差し出して自分という人間を殺そうとしていた。それを恐ろしいとも思ったし、悲しいとも思った。でも、そんな感情よりも雪音に逢えたことの安心が僕の中では勝った。
此処に居るはずのない僕を見て驚く雪音とは反対に、僕が笑っていたのはきっとそう言う理由だからだろう。
「雪音、迎えに来たよ」
いつも通りの口調でそう言うと、殺意に満ちた目で睨まれる。
雪音は僕の手に握られている資料を一瞥すると、目つきを変えずに立ち上がりながら口を開く。
「何で来たの?」
それは単純ながら複雑な質問だ。
僕の返答を待たず雪音は続ける。
「もしかして私を止めに来た? それとも、見送りに来てくれたの?」
「止めに来たに決まってるだろう」
その返答に雪音の殺意はより大きなものになる。
「へぇ、一体どんな理由で? 春介のことだから自殺はいけませんとでも言うのかな? 別に何を言っても良いけど、何を言われても私は私を殺す」
「そんなことは、言わない」
「じゃあ何?」
察しの良い雪音にしては珍しく、次々と質問が飛んでくる。僕なりに言葉を選んで答えているつもりだけど、今のところ彼女の意向に沿えた返答はできていないらしい。
それでいい。
今の君が欲しがる返答なんか何一つしてやるもんか。
「君が心配だったから、ここまで来た」
刹那、怪物が僕に襲い掛かる。目に見えない程の速度で飛び掛かってきた怪物は僕の真横を掠めると、後ろに轢かれたアスファルトの道路をスナック菓子みたく粉々に砕いた。
「友人のよしみで一度だけ見逃してあげる。今直ぐ帰って」
殺意と怒りが入り混じった視線が僕を射抜く。
こんなに感情を露にするなんて、今日の雪音はなんだが変だ。
雪音は気分屋ではあるけれど、今の彼女はあまりにも感情的過ぎる。
「私のことが心配だから、私を止めに来た? ふざけないで。私は春介を殺そうと思えばすぐにでも——」
「あぁ、そうか」
つい、雪音の言葉を遮ってしまった。
何でこんなにも感情的なのか、どうして態々怪物を使って牽制したのか、それらが分かってしまったから雪音の話も聞かずに勝手に自分だけで納得してしまった。
「……何?」
「雪音。君、さっきから焦ってるだろ」
「焦る? 私が?」
「僕の言い分があまりにも的を射っているから、反論できないから会話をぶつ切りにしてるんだろ? だからさっきから質問をしては暴力的な言葉で僕を脅す。口に出すのが恐くて仕方ないんだろ?」
僕の言い分に雪音はやはり言い返さない。いや、言い返せない。
自分の本音をはき違えている彼女は、吐き捨てる言葉すらも持ち合わせていないから。
「雪音。自分を殺して罪を償うなんて、そんな償い方は間違っている」
空気が凍った音がした。
今日は晴れていて、眩しいくらいの日差しが照り付けている筈なのに、体を吹き抜ける風は冬のように冷たかった。
時間がゆっくりだ。一秒が三秒くらいに引き延ばされたような感覚に苛まれる。
そんな空気がここら一帯に張りつめているのは、偏に雪音が原因だ。
怒りと殺意に燃え滾っていた視線が、今は氷のように冷え切っている。そう、今の雪音は誰の目から見ても明らかなほどに怒っていた。
包み隠すことも、誤魔化すことも無い、純粋な怒り。
それは、友人である僕も始めてみる顔だった。
雪音は一度だけ大きく息を吐き出すと、やはり刺すような視線を僕に寄越す。
「そっか、私も春介が理解できた……。そんなに死に急ぎたいなら、望み通り殺してあげる」
清々しい程の冷たい殺意。
それを受けて、僕は雪音に向かって一歩を踏み出した。
「春介——私は私を食い殺す」
「雪音——僕は君を連れ帰る」
それは、互いにとって絶対に譲れないものだった。
****
怪物が荒れ狂う。
さっきまでアスファルトに埋まっていた怪物は、雪音の殺意に応えて気が狂ったような速度で僕に襲い掛かった。
本来なら避けられる筈のないそれを、僕は必死に避け続けた。
避ける度に体が傷ついた。
腕、脚、肩、顔。
たちまち全身傷だらけになった。
「ほら、何か反撃しなきゃ死ぬよ」
雪音はそんな僕を無関心に見つめていた。両手を上着のポケットに入れたまま、ただ作業的に僕を殺そうとしている。
今の雪音にとって僕は、道端に転がっている石ころとそう大差がないのかもしれない。
石ころは反撃の手段を持たない、ただ蹴り飛ばされて転がるのが道理だ。
必然、痛みで態勢を崩した僕は真正面から襲い掛かってくる怪物を避けきれず、吹き飛ばされた。
「がっ、ぁ……!?」
背中からアスファルトに叩き付けられて息が詰まる。
日ごろから鍛えていない体は、それだけで瀕死を訴えてくる。
諦める訳にはいかない、でも、前に進もうとする心とは真逆に体は痛みに屈してしまっていた。
「呆れた、本当に体一つで来たんだ。私相手なら話し合いで決着が付くとか思ってたんだろうけど、一つ良いことを教えてあげる。話し合いって言うのはね、相手と同じ土俵に立って初めて成立するんだよ。春介じゃあ、殺し合いっていう土俵には絶対に立てない」
至極分かりきったことを言い聞かせるように、雪音は言葉を投げつける。
彼女の言う通り、僕じゃあ彼女の言う土俵には絶対に立てない。
僕は人殺しなんてしたことは無いし、これから先も人を憎く思うことはあれど殺す勇気なんて絶対に持てない。
最初から、殺し合いになれば殺されるなんて分かりきった事だった。
「だったら——」
痛みに屈した体に鞭を打って、起き上らせる。
アスファルトに数滴、赤いシミができる。
「雪音、その理屈は君にも言えることだ」
「……どういう意味?」
雪音の視線は相変わらず冷ややかだ。
「君の言う土俵に、僕は一瞬たりともたった覚えなんて無い。僕は此処に、君に逢いに来た。君だけに逢いに、君を連れ帰るためだけに此処に来たんだ。殺し合うつもりなんて初めから無いよ」
どうにか立ち上がった体は、再び怪物に突き飛ばされた。
今度は頭を打ったのか、体を起こそうとすると視界がぐにゃりと捻じれて地面に倒れてしまう。けれど、景色どころか、色もぼやけ始めた視界でも雪音の姿だけははっきり映った、
「相変わらず綺麗事ばっかり。春介のそういうところ、私はずっと嫌いだった」
今度は雪音の方から近づいてきた。
怪物が居るのに、どうして態々近づくのだろうか。そんな疑問が頭に浮かぶけれど、体は既に限界で口すらもまともに動いてくれない。
仰向けに倒れる僕を覗き込むように雪音は近くにしゃがみこんだ。
「何か言ってよ」
言いたいことは幾らであったはずなのに、口は動かず、頭も上手く働かない。
だから、目だけを動かして雪音の目を一心に見つめた。
不思議と彼女は悲しそうな目をしていた。
「そっか、ここまでやっても諦めないんだ……」
言葉は出ていない。
それでも雪音には僕の心の内が分かったらしい。
怪物がゆっくりと僕に迫り、今度こそ大口を開けた。
「じゃあね、春介」
あの時と同じ、また明日にでも会うようなサヨナラともに怪物によって視界が白一色に染め上げられる。
その視界の隅で、雪音は優しく笑みを浮かべていた。それはきっと、死者を弔うための笑みなのだろう。
けれど、不思議と恐怖はない。
理由は考えなくても分かりきっていた。だって——雪音は僕を殺さない。
怪物は、止まった。
「……ぇ?」
それは心の底からの疑問。
雪音の思考が一瞬止まる。
その隙に、僕は雪音を抱きしめた。
「ッ、何を!?」
突然抱きしめられた雪音は僕の腕の中で必死にもがく。しかし、両手を押さえるように抱きしめられた彼女に抜け出す術は無かった。
相変わらず、怪物は止まったままだ。
「見ろよ雪音。君は自分どころか僕すらも殺せない」
「違う、私は春介を殺そうとした! こんなのっ!」
雪音は殺意を込める。
怪物は動かない。
怒りで心を満たす。
怪物は動かない。
次第に、雪音の中の感情が萎んだ。
怪物は、消えてなくなった。
「何で、どうして、こうなるの……?」
困惑に満ちた雪音の声は、今にも泣きそうな子供みたいな声だった。
抱きしめる力を少しだけ弱める。
「だって、君は優しいから」
「そんなはずない! 優しい人間なら三人も殺したりしない、こんな異常者になんかになってない!」
「じゃあ、何で僕を殺さないの?」
「それは……」
雪音は答えを見つけられない。だから、代わりに僕が答えることにした。
「君は誰かを殺したかったんじゃなくて、自分を護りたかったんだろ?」
息を呑む音が聞こえた。
「誰も味方になってくれなかったから、君は自分を護るために悪意に敏感になった。殺意で心を固めた。そうすることでしか自分を護れなかったんだ」
どんな理由があっても人を殺すのはいけないことだ。
雪音はもう自分で罪を償えない。自己を、在り方を否定された少女には自分を裁けない。
この先、ずっと罪を背負って生きていくしかない。雪音が殺した三人の命を背負ったまま、償いながら生きていくしかない。
だから、雪音が始めて心の底から笑ってくれたときに誓った。
ずっと、君の隣にいる。
「でも、これからは違う、椿さんが居る、茜ちゃんがいる、僕が居る。一緒に君の隣で、君と一緒の罪を背負ってあげられる」
「私は、人殺しなのに……?」
今までの自分を責めるような、消え入りそうな声で雪音は言う。
「あぁ、それについては怒ってる。謝ったって、泣いたって許さない」
「……酷い、泣いても駄目なんだ」
「うん、絶対に駄目だ」
雪音はもう腕の中で暴れることもせず、僕の肩をそっと握りしめた。
僕たちを撫でる風は今度こそ暖かく、なんだか泣くには良い日な気がした。
「信じてくれるか分からないけどさ、本当は人殺しなんてしたくなかった」
「うん、信じるよ」
「私だって、普通に生きたかった。悪意なんて知りたくもなかった。殺意なんて要らなかった。ただ、皆と同じく普通の女の子になりたかった」
「うん」
「こんな風に、抱きしめてほしかった……」
声は湿って、最後の方は上手く聞き取れなかった。
でも、すすり泣く女の子を放ってはおけない。
僕はもう一度だけ雪音を抱きしめて、言った。
「雪音——君を、絶対に離さない」
瞬間、風が吹き荒れて言葉は攫われた。
僕たちに残されたのは、お互いの温度だけだった。
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