喰藤雪音6
懐かしい風が私の頬を撫でる。
診療所を出た私は、取り戻した記憶を頼りに自分の家まで戻っていた。いつも、何の連絡も寄越さない友人二人がやってくるアパートではなく、本当の意味での私の家。
私の実家。
私が——異常者となった場所。
私が初めて人を殺したその場所は、都心から大きく外れていて辺りには建物一つ見えない寂れた所だった。
本来家が建っていなければいけない場所にすら、何もない。ただ、背丈の低い草が風で揺れているだけだ。
年月によって緑化が進んだ土地は春の陽気に誘われて酷く穏やかで、居心地がいい。
眺めるのをやめて、草に埋もれるように寝転がる。チクリとした微弱な痛みが所々に伝わって、所々が痒くなる。それを我慢して空を見上げれば、視界には青と白しか映らなくなった。
日差しも、気温も申し分ない。文字通り、死ぬには良い日だ。
きっと、何の後悔も憂いも無く死ねるだろう。椿にも、茜にも、春介にだって邪魔されない。
今の私は、誰よりも自由だった。
「……馬鹿馬鹿しい」
自分で自分を罵倒する。
過去の償いをするためだけにここに来ておいて、自由だなんて自分で言ってて笑ってしまう。過去を取り戻したというのに、私はまだ過去に執着して縛られている。
なんてマヌケだろう。冗談にするにも馬鹿らしい。
久しぶりに独りになったからどうか、なんだか今日は思考が可笑しい。
まぁ、いいか。どうせすぐに死ぬんだから。
「殺して」
呟くと、怪物は簡単に姿を現した。目も鼻もない、ただ口の白い怪物。
それを一撫ですると、怪物は喉を鳴らした。
悪意に振り回された頃と違って、今の怪物は私の命令に従順だ。私を殺せと命じれば、直ぐにでも私を殺すだろう。
自分の額と怪物の額を重ねて、ありったけの殺意を抱く。
「——死ね、
最大限の憎悪を込めて、怪物に命令を下す。
口が開かれて、私の視界は白一色に塗りつぶされる。
不思議なことに恐怖は無かった。父親から振るわれた暴力はあんなにも怖かったのに、自分を殺すのはこんなにも清々しい。
「さようなら」
誰にでも無く、そう呟いて私は目を閉じた。
……。
…………。
………………。
なのに、どれだけ時間が経っても怪物は私を喰らわない。
「なんで……?」
子供のような疑問が口をついた。
殺意はあった筈なのに、死ぬ事に恐怖も無かったのに、どうして私は死んでいないんだろう。
そんな疑問が渦を巻き始めた時、不意に誰かの足音が聞こえた。
落ち着ているのに、何処か焦っている足取りのまま音の主は私に近づく。
一体誰が……。
思わず体を起こした。起こしてから、後悔した。
「雪音、迎えに来たよ」
よりにもよって、今一番会いたくなかった奴——既原春介が普段通りの屈託のない笑みを浮かべてそこに居た。
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