既原春介6
千代田ビルの件から一週間。ようやっと病院のベッドから立ち上がれるようになった僕は、隣にある雪音の病室を訪れた。
椿さんの診療所と似ても似つかないドアを引く。
ガラガラという音を立てて開かれたドアの先、程よく日差しが差し込む病室に彼女は居た。
下着姿で。
音もない、静止画のような空気が僕たちの間に流れる。
「……早く閉めて入って」
雪音は不満気ながらも冷静にそう言った。
「んえ!? あ、あぁ、ごめん!」
咄嗟にドアを閉めて後ろを向く。けれど、こんなことをするなら病室の外で待っていた方がよかった。
しまった、ちゃんとノックをしていれば……。
「別に初めて見る訳でもないでしょ? 私が怪我した時は散々見てたじゃん」
「そ、そうだけど、それとこれは話が別って言うか。ともかく、早く服着て!」
「普通、慌てるのは私の方だと思うけどね」
至極冷静に返答しながら雪音は服を着ていく。その度に衣擦れの音が聞こえて、居心地がどんどん悪くなっていく。
「いいよ」
待ち焦がれていた言葉に、ホッと息をつく。振り返るとカーキー色の上着まで着た雪音がベッドに座りながら鬱陶し気に自分の髪を整えていた。
「それで、何の用?」
「いや、雪音は今日で退院だから顔を見に来ようかなって」
「そ、暇人だね」
「実際暇だからね」
今日で退院する雪音とは違って、僕は後一日この病院に居なければならない。入院費とか色々心配ではあるけど、その辺は椿さんがどうにかしてくれるらしい。
その代わりに、退院したら存分に扱き使うとも言われているのでちょっぴり不安だ。
雪音の顔を見に来たのも、その不安を解消するためでもある。
「あ、そうだ春介に言っとかなきゃいけないことがあったんだ」
「うん、なに?」
「私、今日で椿の所辞めるから」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
聞き間違えたのかと思い、自分の耳と頭を本気で疑う。けれど、雪音の表情がそうではないことを語っていた。
「椿に言って春介に言わないのは不公平だからさ、今のうちに言っておこうかと思って」
「何で……?」
「私は、私が思っているよりも人でなしだったから」
感情に乏しい表情のまま、雪音はあくまで淡々と続ける。
「春介、人を殺したことはある?」
「そんなの、ある訳ないだろ……」
「私はある」
息が止まるかと思った。
「春介を撃ったあの男。救保蓮二って言うんだけど、名前の通り椿の家族なんだよね。千代田ビルのことは椿が根回しをしてるから公になってないけど、あの男を殺したのは私。椿は怒りもしないって言ってたし、表向きは私も無罪だけど、それじゃあ罪っていうのはどうやって償えば良いんだろうね」
雪音の問いに、僕は何も答えられない。そもそも話の内容も理解ができない。
雪音が人を殺したなんて、信じたくもなかった。
「冗談、だよね……?」
辛うじて出たのは、そんな質問だった。
あはは、なんて引きつった笑いを零す僕を雪音は黙って見つめる。次第に笑い声も出なくなって、やっぱり僕は黙りこくった。
何で、とは聞けない。多分、雪音の殺意の引き金を引いたのは僕だ。
「もしかして、私が殺したのは自分のせいだとか思ってる?」
相変わらず、雪音は察しが良い。
「……春介が撃たれてあの男に殺意を抱いたのは本当。でもね、そこにどんな理由があっても殺意を振りかざしたのは私自身の意志。だから、春介は悪くない」
その慰めに、僕は何も意味を見出せなかった。
「話は終わり」
言って、雪音はベッドから立ち上がる。そのまま淀みのない足取りで病室のドアに手を掛ける。
言わなきゃいけない。ここで彼女を引き留める言葉を僕は言わなきゃいけない。
このままじゃあ雪音は本当に何処かに行ってしまう。
けれど、言葉はついぞ出てこなかった。
「じゃあね、春介」
まるで、明日にでも会う約束をしているようなサヨナラを言う雪音。
ドアの向こうに消えていく彼女の背中を、僕はただ見つめることしかできなかった。
****
翌日、三月二十一日。無事に退院した僕はその足で診療所までやってきた。
電気の点いていない受付を抜け、形だけの診察室が並んだ廊下を進み、椿さんのいる部屋のドアを開けた。
「おはよう」
既に昼は過ぎたというのに、椿さんの挨拶は起き抜けのそれだった。
珍しく、椿さんは机に向かわず診察用のベッドに座ってぼうっと外を眺めていた。その隣には茜ちゃんも居る。
「こんにちは……」
「春介お兄ちゃんこんにちは!」
「うん、こんにちは茜ちゃん」
できる限り笑顔で言ったつもりだけど、上手く笑えているのか自分でも分からない。
「……その様子では雪音から話は聞いたか」
この人は目を逸らしたいこと、ダイレクトに言ってくる。
一晩経っても、僕は未だに雪音の言っていることが信じられないでいた。ここに来たのも、もしかしたら雪音がいるかもしれないと思ったからだ。
けれど、雪音は居ない。
その現実を認めるように、僕ははい、とだけ零す。
見かねた椿さんが座りたまえ、と椅子を寄越してくれた。
「すまない茜。少し春介君と二人きりで話がしたい。お詫びと言っては何だが、コンビニで好きなおやつでも買ってくると良い。あぁ、そうだコーヒーを買ってきてくれないかい?」
「うん!」
先生は茜ちゃんに千円渡すと、診察室の入り口まで送り届けた。
いってきまーす、と元気に飛び出していく茜ちゃんに手を振って見送る。
小さな背中がすっかり見えなくなると、診察室には痛いくらいの静寂が溢れかえった。
「その後、雪音から連絡はあったかい?」
椿さんはベッドに座りながらそう聞いてくる。
僕は首を横に振った。
「いえ、LINEも電話もありませんでした。何回か電話してみましたけど、やっぱり……」
「そうか……。単刀直入に言うよ。春介君、雪音は諦めろ」
「ッ、先生!」
思わず立ち上がってしまった。
諦めろだなんて。そんなこと、したくない。
「居場所が分からないだとか、そういう次元の問題じゃあない。たとえ雪音の居場所を割り出して追いつけたとしても、雪音はもう私達の元へ戻りはしないだろう」
「そんなこと、どうして言い切れるんですか」
「では聞くが、雪音はどうして私達のもとを去ったと思う?」
「それは……」
それは、考えた事がなかった。けれど、考えてみても結論はでない。
「偉そうなことを言ったが、私だって雪音の全てを知っている訳ではない。だから今から言う事も私の勝手な推測だ。私はね、春介君。雪音は一人で死ぬ気だと思っている」
「ふざけないでくださいッ!!」
「ふざけてなどいない、私は至って真面目だ」
「じゃあ、一体どんな理由があって雪音はそんなことを思ってるんですか!?」
「すべての事の発端は雪音の両親だ。一応聞くが、雪音から両親について聞いたことはあるかい?」
「いえ……」
「だろうね。なにせ、今の今まで彼女は自分の事を忘れてしまっていたからね」
椿さんはそう言うと、机に置いてあったカップを二つ取ると両方ともにお茶を注いで、そのうちの一つを僕に手渡す。
「今は、違うんですか?」
「あぁ、今の雪音は蓮二の手によって全てを思い出している筈だ。自分がどのように産まれ、どのように育って、どういった経緯であの怪物を産み出してしまったのか」
怪物……。飢崎さんの時に見えたあの白い生き物の事だろう。
雪音曰く、あの怪物は悪意を喰らうらしい。正直なところ、その辺りのオカルトチックな話はよく分からない。
「雪音は、あの怪物は悪意を喰らうと言っていたが、私の見解は別だ」
「別……?」
「あの怪物の本質は、雪音の殺意に呼応するものだと私は思っている」
「雪音の、殺意……?」
「あぁ。さっきの両親の話に戻ろうか、雪音の両親は所謂デキ婚だ。父親が母親と体の関係を持ち、互いの両親の反対を押し切って婚約まで踏み切った。始めはよかった。だが雪音が小学生になったとき、父親がリストラに遭い家族に暴力を振るうようになった。当然、娘だった雪音にも振るわれた」
話を聞いて、愕然とした。
頭が話の内容を理解することを拒否しているようで、酷い頭痛がする。
「続けるぞ。父親の暴力が原因で両親は離婚。雪音は父親側の親戚に引き取られて養子となった。これで悲劇が終わっていれば、まだめでたしめでたしで終われていただろう。今度は雪音が中学生の時だ。内容までは分からないが、雪音と親戚の間で口論が起こった。口論は激しくなり、その途中で親戚は雪音に手を挙げた」
「それが、引き金ですか……」
「そうだ。恐らくそこで始めて雪音の中で殺意が芽生え、それに呼応して怪物が産まれた。怪物が親戚夫婦を喰らい、家は倒壊。その後病院に運ばれた頃に出会ったのが、私達が良く知る雪音だ」
話し終わると、椿さんは入れてあったお茶を一息に飲み干した。
僕は、とてもそんな気分にはなれない。今まで何も知らなかったくせに、雪音のことを知った気になっていたのが悔しくて仕方がなかった。
——罪っていうのはどうやって償えば良いんだろうね。
不意に、雪音の言っていたことを思い出した。その答えは今でも出ない。
でも、その償い方は間違っている。
それだけは、自分の中で結論を出せた。
「——君は優しいね」
椅子に蹲る僕に、椿さんはそう言った。
「君は否定するかもしれないが、君と雪音は赤の他人だ。なのに君はその他人の痛みを本気で理解しようとしてしまう。ただの同情ではない。きっと、君と雪音は同じ場所が痛むんだろう。それは誰にでもできる事じゃない。君にとって雪音が特別であったように、雪音にとっても君は特別だったんだ」
言いながら、椿さんは顔を上げた僕の胸元を指さした。
そこには雪音と全く同じ位置に付いた一発の銃痕がある。
「だから、君にだけは教えておこう」
椿さんはもう一度立ち上がると、今度は一枚の資料を手渡してきた。
「これは……?」
「雪音の実家があった場所だ。雪音のスマホのGPSが最後に確認された場所がそこの近くだった。行けば逢えるだろう」
資料を受け取り、すっかり温くなったお茶を飲み干した。
居ても立っても居られなくなって、お礼も言わずに診察室のドアに手を掛けた。
瞬間、ドアは勝手に開いて飛び出してきたモノとぶつかりそうになる。
「うわぁ!?」
「お兄ちゃん、何してるの?」
入ってきたのは茜ちゃんだった。驚いている僕とは正反対に、彼女はとても冷静だ。けれど、その表情にはどことなく呆れが混じっているようで、そんなところが雪音と似てきたな思ってしまう。
「春介お兄ちゃん、出掛けるの?」
「うん、ちょっと用事を思い出してね。すぐ戻るよ」
「……雪音お姉ちゃんも一緒?」
不安げな表情で僕を見上げる茜ちゃん。
何も言っていない筈だけど、この子にもただ事ではないことが雰囲気で伝わっているらしい。
結論は、既に自分の中で出ていた。
「——絶対に一緒に帰ってくる」
「本当?」
「うん、約束するよ」
笑ってそう伝えると、茜ちゃんも笑ってくれた。
「行ってきます」
「あぁ。もし雪音に逢えたら、こう伝えてくれ。退職届は貰っていない、とね」
そんな行ってらっしゃいを背中に受けながら、僕は診療所を後にした。
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