既原春介5
約束の五分が経った。
人気の無い、仄暗いビルの中へ足を踏み入れる。ここに来るのはもう三度目だというのに、物音どころか生き物の気配すらもないこの空気にはなれそうにない。
椿さんは、上の階に居るんだろうか。あの人が昇ったであろうエスカレーターの先には陽の光が一切届いておらず、暗闇だけが漂っていた。
昨日とは違って、外は晴れている筈なのにここは海の中のように冷たい。恐怖と緊張感が支配する体が直ぐにでもここから出たいと訴えているようで、しかし、帰る訳にはいかなかった。
水の中を歩くような足取りでエレベーターに向かう。どう見ても電気が通っているようには見えないけれど、椿さんの推測を信じて『→』のボタンを押す。
うぃーーーん、という駆動音が聞こえた後、ほどなくしてドアが開く。
「動くんだ……」
思わず、目の前の現実を確かめるような呟きが漏れる。戸惑いはある。けれど、それ以上にホッとした。
エレベーターに乗り込み『B1』のボタンを押すと、当然のようにドアが閉まり鉄の箱は地下へと降りていく。
ドアが開いた先は灰色の世界だった。打ちっぱなしのコンクリートが壁と天井と床を成しているそこは、駐車場というよりコンクリート製の檻に見える。天井からぶら下がっている電球の頼りない光だけがここを照らしている。
その空間の奥、無骨な壁にもたれかかるように雪音は居た。
「雪音!」
気づけば、縋るように走っていた。
僕の声が聞こえたのか、雪音の元へ辿り着くより早く彼女は目を開いて、
——瞬間、殺されるかと思った。
電球一つで照らされた駐車場はお世辞にも明るいとは言い切れない。影が殆どを支配する灰色の空間で、雪音の目だけが青く輝いている。
脚が止まる。近寄ることもできず、呼吸の仕方も忘れた僕はただその場に立ち尽くす。
「春介……?」
呟くと、雪音はまた目を閉じた。その表情にはいつもの余裕はなく、今にも眠ってしまいそうだ。
「え、あ、雪音!?」
意識を失ってしまいそうな程に張り詰めた空気が無くなって、漸く雪音に近づけた。薄暗いせいで気づかなかったが、よく見れば彼女の右の脇腹辺りには大きな血のシミがあった。止血はされているだけど、どう見たって重症だ。
手早く雪音の両手にかけられている手錠を外そうと試みるけど、鎖がじゃらじゃらと鳴るだけでびくともしない。辺りを見渡しても鍵らしきものは見当たらない。
何か持って来ていないのか……。そう思い、服に付いているポケット全てに手を入れる。すると、胸ポケットに固い感触。取り出してみると手にはペンチが握られていた。
自分でも何でこんなものを持っていたのか分からない。診療所に置いてあったものを持っていたんだろうか。
鎖を斬るには向いていないだろうが、今はこれしかない。
ペンチで手錠の鎖を掴み、思い切り力を入れる。
手の握力が無くなりかけた頃、バツン、という派手な音を立てて鎖が斬れた。
「雪音、しっかり! 雪音!」
「うるさい……」
何度も揺らしているうちに、本気の罵倒が帰ってきた。
「何度も耳元で叫ばないで、頭に響く」
「ご、ごめん、心配で……。大丈夫なの?」
「これが大丈夫に見えるなら今すぐ医者に行った方がいい」
「あはは……」
なんだか、思っていたよりも大丈夫そうだ。それが分かってしまうと体から一気に力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
雪音も今すぐ起き上る気力がないのか、寝転がったままだ。
「今回ばかりは本当に心配したよ」
「へぇ、いつもは心配してないんだ」
「あぁ、いや、そういう意味じゃなくて。いつも心配してるけど、今回のは特に心配したって意味で……」
「ごめん、冗談。大丈夫、ちゃんと伝わってるから」
意地の悪い冗談に少しだけムッとする。それが見えているのか、反対に雪音はフッと笑う。
「まさか、一人で来たの?」
「椿さんも一緒、今は別行動してるけどね。茜ちゃんも診療所で寝てるよ」
「そ、良かった」
表情の変化は乏しいけど、雪音は本当に安心している様だった。それは本当に安心しきった、そう、死ぬ直前の人がやりたいことをすべて成し遂げたような満足気な表情だった。
不思議と、胸騒ぎがした。
「雪音——?」
次に瞬きをすれば今そこに居るはずの雪音がどこか遠くに行ってしまいそうで、つい手を伸ばす。けれど、それより先にエレベーターのドアが開いた。
薄暗い灰色の世界の一部が白い人工の光で染められる。逆光のせいで誰が降りてきたのかまでは分からない。
椿さんが降りてきたのか……?
「先生……?」
「残念だが、君が想像している先生ではないよ」
聞き慣れない男の声。それと同時に密室に轟いた炸裂音。胸への衝撃。
何が起きたの理解ができなかった。気づけば僕は天井を見上げていた。
耳が可笑しい。何も聞こえない。
そうだ、雪音は……?
「——!」
首だけを動かすと、さっきまで寝転がっていた筈の雪音の顔が真横にあった。何か必死に叫んでいるけど、何も聞こえない。
「——き、ね」
意識がなくなる直前に漏れた言葉は、言葉にすらならなかった。
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