救保椿1

 ビルの中は朝日が差し込んでいるにしては冷たかった。ガラス張りの受付は藍色に染め上げられ壁も、床も、上の階に続くエスカレーターも海の底のように静かだ。

 辺りを一瞥した後、椿は本来動きもしないエスカレーターを昇り上の階へ進む。本当ならエレベーターで上がってやりたいところだが、生憎一つしかない。

 二階へと進んだ椿は、そのままフロアを通り抜け三階へと続くエスカレーターに脚をかけ、止めた。

「まさか、お前がここに来るとはね」

 物腰柔らかな男性の声がフロアに響く。

 椿は返答も寄越さず、無言で視線を上げる。計算されつくした勾配を描き三階へと続く機械的な階段。その一番上に、椿と同じく白衣を見に纏った男が立っていた。

「久しぶりだね椿。ようこそ私の城へ。歓迎するよ、我が妹」

 医師・救保蓮二は優し気な笑みを浮かべると、芝居がかった口調でそう言った。

「城、か。お前は医者だろう、一体いつから王になった?」

「王などになったつもりは無いよ、私はいつだって医者だ。いつだって私は人を救う事しか考えていない。三年前、お前に彼女の事を知らせたのもその一環だ」

 医師は眼下の椿を見つめながらそう答える。

 久しぶりの家族との再会を楽しんでいる蓮二とは違い、椿は感情を圧し殺して返答を重ねる。

「それなら今まで通り自分の病院で自分の医療を続ければいいだろう。個人の犠牲の上に成り立つ救済に一体何の意味がある? 私達の理念はいつからそんな安物になった?」

「私達の理念。救保の理念か。そんなものとっくに捨てたよ」

 彼の返答に椿は眉をひそめる。

「病める人、これ全てを救済する。あんな馬鹿げた理念を掲げて一体何になる。そもそも医療に救いなど初めからありはしない。あるのは掛け値なしの犠牲だけ。死者の骸を積み重ねることでしか成し遂げられない救いという名の犠牲だけだ」

 言葉を紡ぐ蓮二の顔には張り付けられていただけの表情は無く、そこには殺意を纏った理念があるだけだ。

 椿は両眼を細める。

「だが、犠牲になるのは彼女で最後だ。私は私の理念を持って、救保を否定する。悪意を知覚するあの体は、私が貰い受ける」

「犠牲という名の積み木の頂上が雪音という訳だ。そうか、そうなんだな。蓮二、お前雪音の体に自分の脳髄を移植する気か」

「そうだ。同じ姓を持って産まれたお前にならわかるだろう。いくら身体の不良を治療しても人は救われない。この先、どれだけ現代医療が進化したとしても万人を救うことはできない。何故か? そう、心を救わねば人は救われないからだ」

 同じ家に産まれた者として、同じ境遇を見つめてきた同志として、今までの親しみに満ちた態度を捨てて蓮二は椿に問う。

 人を救う事の不完全さ、救われない人の不完全さを。

「そのために私は彼女を完成させる。悪意を嗅覚でしか感じ取れない今のままでは彼女はあまりにも不完全過ぎる」

「飢崎愛穂と茜はそのための足掛かりだったという訳か。雪音と似て非なる存在をぶつけ、雪音本人に自分の異常性を自覚させた。いくら患者に症状の概要を教えたところで患者本人が理解できなければお前の治療とやらも徒労になるからな。だが、まさか茜にマインドコントロールまで施しているとは思わなかったよ。まったく、我が兄ながら悪趣味な奴だ」

 椿の皮肉に蓮二の表情は動かない。

「だがまぁ、今のお前がそのままという事は雪音は無事という事か。念の為に訊くが、素直に雪音を返すつもりはあるか?」

「言うまでも無い」

「だろうな。まったく、関わったばかりにいい迷惑だ」

「私も念のため訊いておこう。椿、協力する気はないか?」

 蓮二の問いに椿は肩竦めて返答する。断じて否、と。

 その姿勢に蓮二は初めて悲しそうな顔をする。

「周りの愚図達とは違ってお前は私と同じ救保だった。私は身体医療を、お前は精神医療を極めた。私達が揃っていれば救保の理念は形となっていた筈だ。なのに、お前は家を出た。何故だ椿、きっと私達は同じ結論に達すると思っていたのに」

 静かな怒りに満ちた相貌が椿を射抜く。

 それを椿は鼻で笑う。

「はっ、『きっと』だと? 悲壮家ペシミストかと思ったら随分と夢想家ロマンチストなんだな。一体いつから夢なんて見るようになった? 同意を求めるなんてお前らしくもない。それにね、私はお前と違って救保の理念を捨てちゃいない。そもそも、私があの子に近づいたのはお前の思惑に乗ったからじゃない。別の理由だ」

「ほう、ならば何のためだ?」

 懐から出した拳銃ががちゃり、と無機質な音を立てた。

 音は二つ。

 一つは椿。

 もう一つは、蓮二だった。

「——お前の思惑を打ち砕くためさ」

 その言葉が引き金だった。

 炸薬が破裂し、弾丸が空気を裂く。虚空ですれ違った二つの弾丸は一発は蓮二の頬を掠め、もう一発は椿の胸を穿った。

 両者の決着は酷くあっけないものだった。

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