喰藤雪音4

 ……肌寒い。

 固く、無機質な冷たさを感じて閉じていた瞼を開けた。

「生き、てる……」

 辛うじて零れた言葉は、暗示となって薄れていた感覚を体に取り戻させていく。

 眠りから覚めてコンクリートの床に寝転がったまま、辺りを見回す。

 灯り一つ、窓一つ無い灰色の箱みたいな場所だった。朝なのか夜なのかも分からない。

 ただひたすらに暗闇と灰色に塗りつぶされた密室。

 私はそこに倒れている。

 両手には手錠がかけられていて、血が抜けているせいか体に力が入らない。

 怪物によって抉られた脇腹の傷も次第に痛まなくなり、意識も消えていく。

「お目覚めですか?」

 朦朧とする意識の中、誰かが私に語り掛ける。

 それは、男の人に見えた。一瞬、春介かとも思ったけどあいつはこんな気持ち悪い喋り方はしない。

 誰、と聞く暇もなく男は懐から小さな注射器を取り出して私の首にあてがう。

「あっ」

 鋭い痛みに思わず声が出る。けれど、私の感覚はそれを最後にぐちゃぐちゃにされた。

 痛みも寒さも消えていく。

 朦朧としていた意識で眺めていた風景もぐにゃりとねじ曲がって、立っているのか眠っているのかもあやふやなる。

「さぁ、己の過去を喰らうのです。そうすることで貴女は完成する」

 暗い闇の渦に飲み込まれる直前に聞こえたのは、そんな予言じみた行ってらっしゃいだった。


 ****


「見て、雪音ったらもう歩けるようになったのよ!」

「おぉ、凄いじゃないか! さすが俺の娘!」

 興奮を隠せていない二つの声。その声に挟まれてニコニコ笑っている子供。

 どこの家庭でも見られるであろう、ごく普通の光景を私は遠くから見つめていた。

 それは、間違いなく喰藤雪音の過去だった。けれど、既に失っている筈の光景を見せつけられても何かのバラエティー番組で見られる温かいホームビデオを見させられている気分だったにしかなれない。

 何処までも他人事。

 夫婦と赤子が住んでいるのは安っぽいワンルームのアパートだった。室内はお世辞にも綺麗とは言えず、壁や天井にはいくつかシミや傷が見える。窓から見える景色から察するに都心から外れている、しかし賑やかな場所だ。

 振り返って、もう一度両親の顔を見る。

 ごく普通のサラリーマンをしていたのに、ある日突然外国人の母親と求婚した父親とそんな父親と体の関係を持って結婚した母親。

 今まで忘れていた筈なのに、何故だか覚えている。多分、この光景を見せつけられているからだろう。

「あら、寝ちゃったわ」

「あぁ、幸せだな」

 私を除け者にして雪音の日常は流れていく。

 裕福な暮らしとは縁遠い生活にもかかわらず、両親も雪音も幸せそうだ。


 ホームビデオがブレる。


「ねぇ、ちょっと飲みすぎなんじゃない?」

「うるせぇ! クソ、何で俺がクビなんだ。あいつの方がよっぽど……。くそ、あの野郎!」

 次の風景は酷く荒れていた。酒に溺れた父親とそれを宥める母親。雪音はそんな風景を母親の背中から見つめていた。背丈が伸びているあたり、この頃の雪音は小学生くらいだろうか。

「なんだ雪音、お前まで俺を嗤うのか!?」

「やめて、雪音には手を出さないで!」

「俺がこんな目に遭うのもお前らのせいだ! 何で一回お前と寝たあの日から全部トチ狂ったんだ! お前らのせいだ、お前なんぞ、産まれてこなきゃよかったんだ!!」

 金切り声をあげながら父親は雪音に飛び掛かる。母親は彼女を護ろうとしたけれど、力任せに振られた父親の拳が側頭部に当たりその場に倒れこんだ。

 おそらく、それが父親の中のタガが外れてしまった瞬間だった。

 母親の背中に隠れていた雪音は父親にあっさりと捕まってしまい、あらん限りの暴力を受けた。……男のヒステリーっていうのはヤクザみたいに支配的なんだと初めて知った。

 なんて、どうでもいい真実だろう。

 雪音は必死になって謝る。何も悪いことなどしていない筈なのに、暴風雨のように降り注ぐ悪意にただ謝ることしかできないでいる。きっと、父親の顔を見る余裕もなかっただろう。

 傍観者の私ですら、この光景に胸がざわつく。

 ——本当にそれだけ?

 疑問は汗となって、頬を伝った。


 映像がまたブレる。


「大変だったな、雪音」

「えぇ、あの子ったら昔から考えなしで周りを巻き込むから……。でももう大丈夫よ。これからはおばあちゃん達と一緒に暮らすのよ」

 今度はまた温かな風景に戻った。

 体中に包帯を巻いた雪音が、老夫婦と一緒に食事をしている。それを見て、朧気だった記憶の一部が呼び起こされた。

 この家も、あの人達も、私は覚えている。

「うぇ、ひっく……」

 嗚咽が聞こえて振り返ると、食事中にもかかわらず雪音は泣いていた。そんな彼女を老夫婦は優しく抱きしめる。

 そこに純粋な優しさしかない筈なのに、胸のざわめきは余計に大きくなり焦りとなる。理由なんて考えなくても思い当たる。

 だって、あの人達は三年前にこの家の下敷きになって亡くなっている。

 嫌な予感がする……。

 私の心配をよそに、日常は流れていく。

 雪音は中学生になった。父親から受けた傷も治り、普通の学生生活を謳歌しているように見える。毎朝律義に老夫婦に挨拶をして、元気に学校へと走っていく。学校では親しい友人と賑やかな時間を過ごし、家に帰れば老夫婦と和やかな夜を過ごす。

 ありきたりで、普遍的で、欠伸が出るほど退屈なシアワセ。きっと、こんな日常が続けば雪音はきっと普通の人生を過ごしていただろう。

 少なくとも、私みたいな健常者と異常者の境界を彷徨う半端者にはなっていなかったはずだ。……いや、私はもうその半端者ですらない。

 予感が、確信に変わっていく。

 その日は生憎の雨だった。けれど学校から帰ってきた雪音の顔は期待に満ちていて、その手には一枚の紙とパンフレットが握られていた。

「お爺ちゃん、お婆ちゃん。私、この高校に行きたい!」

 雪音が握っていたのは高校の進路希望とパンフレットだった。居間の机に広げられたものを見る限り、服飾系の専門学校らしかった。

 思わずへぇ……と声が漏れる。当然、雪音や老夫婦は反応を返さない。

 パンフレットを手に取った老夫婦はパラパラと捲ると直ぐに机の上に投げ捨てた。

「こんなお遊びみたいな高校、ダメに決まってるだろう」

 口を開いたのは祖父だった。

「そうよ、私達だって老後があるんだし、もっと良いところにいけないの?」

 祖母も似たような事を口にする。

 期待をあっさり裏切られた雪音は呆然と老夫婦を見つめて、口を開きかける。

「待ってよ、私の好きにさせてくれるって——」

「そんな昔の事を掘り返すな。大体、こんな学校に行って何になる。もっとちゃんとした所に就職できるところを選びなさい。こんなしょうもない所に行くのは馬鹿のやることだ」

「お願い雪音、言う事を聞いてちょうだい。お爺さんだって、雪音の為を想って言ってるのよ?」

「な、んで……」

「黙って言う事を聞きなさい。なにせ——お前は私達の子だ」

 その日から雪音の日常は灰色に染まった。

 老夫婦と話す日は目に見えて少なくなり、学校でも物静かになった。家に帰っても今までのような和やかな時間は訪れない。会話のない食卓に無機質な時間が流れる日が続く。

 雨はまだ止まない。

 その日も雪音は帰ると直ぐに自分の部屋に閉じこもった。電気も点けず、薄暗い部屋の中で雪音はベッドに寝転がっていた。その後ろ姿には覇気がない。

 やがて痺れを切らした祖父が雪音のドアを叩き、部屋は騒がしくなる。何度も何度も響く重々しいノック音に雪音もついに我慢の限界が来て口論に発展する。

 怒鳴りつける祖父の声と、感情的な雪音の声。

 喉が潰れるんじゃないかと思えるほどの声を出しながら雪音は祖父にくってかかる。それは、自分の今までの人生に対する憤りだった。

 よほど激しい口論だったのだろう、いつの間にか祖母までもが雪音を宥める為に口論の場に立っていた。

 雪音の目には、きっと敵が二人になったように見えたのだろう。優しい言葉を使う祖母の手を雪音は振り払った。それを見た祖父が、とうとう雪音に手を挙げた。

 よほど強い力だったのか打ち所が悪かったのか、雪音は窓ガラスに頭を打ち付けて血を流す。

 祖母の短い悲鳴。祖父のしまったという顔。けれど、もう雪音にはそれが見えない。

 二人の顔は黒い靄に覆われ、貌がない。何もないただ黒いだけの貌——それは父親の貌とよく似ていた。

「やめて……っ!」

 初めて私は雪音に手を伸ばした。これから見せつけられるであろう光景を見たくなかったから。けれど、当然ながらの伸ばした手は雪音に触れることなく直後——怪物が姿を現した。

「■■■■■■■■!!」

 得体の知れない怪物の声。もしかしたら、それは雪音の絶叫だったかもしれない。

 ぐしゃり、という嫌な音とともに怪物は二人を喰らう。悪意を喰らい、家族を喰らい、黒を喰らい、自分を喰らった。

 そんな地獄で雪音は笑っていた。下半身を亡くした二人の前で、血塗れになりながら、悪魔のように嗤っていた。

 あぁ、そうか。

 私は——異常者だ。

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