既原春介3

 三月十三日。早朝から雪音の部屋を訪れてみたけれど、幾らチャイムを鳴らしてもスマホに連絡を入れても彼女からの反応は無かった。

 空は昨日とは違って痛いくらいの快晴。

 言い表せない不安を抱えながら診療所に向かう。時刻は午前七時。机に向かっている椿さん以外に人影はなく、雪音がいるかもしれないという希望はあっさり打ち砕かれた。

「おはようございます……」

「おはよう。その様子じゃあ、あまり寝られなかったようだね」

「……すいません」

「無理もないさ。もし寝たければそこのベッドを使うと良い」

 パソコンを睨みつけながら、椿さんは親指で診察用のベッドをさした。そこには、いつも座っている筈の友人の姿がない。

「——いえ、大丈夫です」

 逃げるようにベッドから目を背けた。雪音が居ないという事実を受け止めたくないから。

「春介君、昨日のことだがね」

 唐突に椿さんはそう話を切り出した。

「はぁ、何でしょう」

「千代田ビルについてだが、もう調べるのはよそう」

 それは予想だにしない言葉だった。

「それって、どういう……」

「言葉の意味そのままさ。あのビルは——」

 言いかけて、椿さんは眉をひそめた。

 朝からどうしたんだろうかと疑問に思うが、少し遠くから軽い足音が聞こえて直ぐに納得した。

 この診療所にしては珍しい、来客だ。それもこんな早朝から。

 診察室の入り口から退いて診察用のベッドの近くに椅子を持ち寄る。間もなくして、ドアが開かれた。けれど、開かれた先に人影は見えない。——いや、よく見ると僕の腰と同じ高さに小さな赤い頭があった。

「春介、お兄ちゃん……」

「茜ちゃん!?」

 診察室に入ってきたのは茜ちゃんだった。あまりのことに僕も椿さんも呆然とする。その間にも茜ちゃんはフラフラとした足取りで診察室に入ってくる。

 彼女の拙い足取りに心配になって、取り敢えず診察用のベッドに座らせる。

「茜ちゃん、大丈夫?」

「お兄ちゃん……。雪音お姉ちゃんが……。お姉ちゃんが、捕まっちゃった……」

「え……?」

 雪音が、捕まった……?

 拉致とか監禁とか、きっとそう言う意味なのだろうけど理解が追い付かない。

 一体誰が、何のために……。

「茜、雪音は一体誰に拉致されたんだい?」

「それは——わかんない……」

 明らかに何かを言いかけて、茜ちゃんは言い淀んだ。物忘れだとか、ど忘れだとか、そういったものじゃなく誰かに言うのを止められているような、違和感のある途切れ方だ。

 椿さんもそれを分かっているのか、刺す様な目で茜ちゃんを見つめる。

「茜、君はどうして此処に帰ってきた?」

「先生、それはあんまりな——」

「静かに、大事なことだ」

「帰らなきゃって思って……」

「それは何故?」

 椿さんの質問に茜ちゃんの動揺はより激しいものになる。

「だって、帰らなきゃ怒られるから……」

「誰に?」

 茜ちゃんの息が浅くなった。落ち着きが無くなって、視線があちこちに泳いで、何かの禁断症状のようにも見えてきた。そんな状態になっても椿さんは質問をやめない。

 いい加減、我慢の限界が来そうだった。

「先——」

 ——生と言いかけてやめてしまった。茜ちゃんが落ち着きを取り戻したからだ。

 視線と一緒に忙しなく動いていた手は彼女の髪に付けられている薄紫のリボンに触れて、固まっていた。そしてしばらくリボンを触った後、彼女はふと何かを思い出したかのように、

「救保、蓮二……」

 そう呟いた。

 それが限界だったのか、僕が口から漏れた言葉の意味を理解するよりも早く茜ちゃんは診察用のベッドに倒れ伏した。

「茜ちゃん!」

 慌てて彼女の容態を確認する。幸いなことに突発的な発作などではなく、ただ疲れて眠っているだけのようだ。そのことに安堵しつつ寝やすい体勢に変えてあげる。

 しかし茜ちゃんの容態にホッとしている反面、浮かび上がってきた新たな疑問を必死になって考えている自分も居る。

「先生、今の話って……」

「あぁ、雪音が拉致監禁されたという解釈で間違いないよ。それも、犯人は私の兄ときたもんだ」

 今までで一番大きなため息をつきながら額を押さえる。

 救保という名字で薄々察してはいたけれど、やはり椿さんの身内らしい。

 でもそんなことは既に僕の中では些細なことになっていた。

 雪音が、拉致された。

 それが分かった以上、じっとなんかしていられない。

「待て、何処に行く気だ」

 診察室の入り口に手を掛けた僕を椿さんは鋭く呼び止める。

 振り返った僕は自分でも気づかないうちに彼女を睨んでいた。それくらい切羽詰まっていた。

「何処って決まってるでしょう。雪音を助けに行くんですよ」

「だから何処に行く気だ、と聞いたんだ。場所に見当はついているのか? 見当が付いていたとしてそこはただの一般人が容易に立ち入れるような場所なのかい? 何処から入る? 君たち二人が無事に帰ってくる方法はあるのか?」

「そ、れは……」

 次々と投げ掛けられる質問の嵐に昂っていた感情が燻り始める。そんな僕を見て、椿さんはまた溜息をついた。

 今度のは呆れかえって漏れてしまったやつだ。

「君は雪音のことになると無鉄砲になるね。まぁ、そんな君だからバイトとして雇ったんだが」

「それ、どういう意味ですか?」

「なに、気にするほどの事じゃない。こんな雑談よりも今は雪音のことだ」

 言って、椿さんは自分の机からA4サイズの封筒を取り出して僕に手渡した。封筒は色んなところでよく見る茶封筒だが、表には何も書かれていない。そのくせ、裏返しにしてみるとそこにはきちんと千代田ビルを使っていた企業の名前と社長らしき人物の名前が書かれていた。

「中に入っている紙を見給え」

 不思議に思いながらも、言われるがままに封筒の中身を取り出してみる。

 中から出てきたのは一枚の紙で、一番上には譲渡書と書かれている。

「あの会社、本当は潰れたんじゃなくて誰かに譲渡されてたんですか?」

「あぁ、譲渡した後に譲渡された奴が潰したんだろうさ。昨日ビル内を散策していたら社長室でそれを見つけてね。中身を見て驚いたよ。何せあのビルの譲渡先が私の兄、つまりは救保蓮二だったんだ」

「じゃあ雪音が拉致されているのは千代田ビルってことですか?」

「十中八九はね。ただ、あの男は昔から何をするには陰湿な奴だ。だから雪音の隠し場所にはあいつなりに趣向を凝らしているだろう。例えば、地下駐車場とかね」

「え、でも昨日見取り図を見ながら探しましたけど地下駐車場なんてありませんでしたよ?」

「それについては調べがついている。千代田ビルは割と最近にリフォームをされていてね、地下駐車場はその時に付属されたものだ。工事を担当した人物から話を聞いたが、当時はあの見取り図通りにリフォームを行う予定だったらしい。けれど、途中クライアントからの要望が入ってね入口の場所を変えてくれと言われたらしい。けれど、その工事中に会社がつぶれて、結局工事は中断。外から地下駐車場が発見できなかった理由はそれだ」

 話を聞く限り、あの見取り図に載っていた地下駐車場とやらは今ではただの入り口のない密室になっているようだ。

「え、それじゃあ結局地下駐車場への入り口ってないんですか……?」

「いーや、エレベーターからの入り口は繋がっているらしい。だから雪音を助けるならそこからの侵入になるね」

 成程、それならよかった……。と納得しかけて、また疑問が浮かんだ。

「千代田ビルって廃ビルですよね?」

「そうだが、エレベーターに関しては例外だろう。確かに救保蓮二は私が太鼓判を押すほどの異常者だが、別に魔法使いという訳じゃない」

 自分の身内に対する言葉とは思えないようなことを言って、椿さんは診察室のドアに手を掛けた。

「どうした、助けに行くんだろう?」

 ドアを開けっぱなしに、こちらに振り返った椿さんの顔にはいつも通りの不敵な笑みが浮かべられていた。

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