既原春介2

 一夜明けて三月十二日の午前。

 春休みもそろそろ折り返しになりつつあるこの頃、僕と雪音は昨日茜ちゃんの身に起きたことを解明すべく診療所に集まっていた。

 昨日の夜から突如降り続いている雨のせいで、診察室内は蛍光灯が付いているのにどことなく重苦しい空気になっている。けれど、そんな億劫な雰囲気を気にしているのは僕くらいのもので女性陣にとっては朝の占いと同じくらいどうでも良いらしい。

 雨音が響く診察室で、僕は薬の期限と在庫をチェックしながらエクセル表を埋めていた。廃棄するものと新たに発注するものをリストアップしている途中ふと、パソコンの画面から目を逸らす。

 丸二日休んだのが功をそうしたのか、全快した椿さんは窓際にある所長の机で資料と茜ちゃんを交互に見つめて眉をひそめている。

 反対に患者用のベッドに座っている雪音は、退屈気味な茜ちゃんを膝に乗せて一緒にぼんやりと外を眺めていた。ここ数日であの二人の距離感は傍から見れば仲の良い姉妹と呼べるくらいには縮まっている。雪音の交友関係を知る身としては、彼女が僕と椿さん以外の誰かと関係を深めるのは嬉しく思う。

 きっと、そんなことを言えば「保護者面するのやめて」とか言われるんだろうけど。

「ふむ……」

 納得がいかない、と言いたげな呟きを漏らして椿さんは依然眉をひそめたまま腕を組む。

「何か分かった?」

「心拍、脈拍、血圧、体温を見た限り肉体的な問題ではないだろう。心拍数が平均よりも多いのは少し気がかりだが、二日前に計ったときと大差ないということはこれがその子の平均値という事だな。ビルから帰ってからも食欲が無くなるなどの症状もないとなると、精神的なものだろうね」

「精神的……何か怖いものを見たとかですか?」

「怖いものというのは抽象的すぎるな。まさか昼間から本物の幽霊を見た訳でもあるまい。正確に言い換えるなら、この子の脳が“それ”についての情報を理解するのを拒むほどのものを見た、という事になる」

 なんだか、すごく難しい言い回しをされてしまった。

 脳が勝手に理解を拒むほどのものって、それはつまり怖いものってことにならないんだろうか。実際、茜ちゃんは暗がりを怖がっていた。

 ……いや、違う。拒むってことはつまりは拒絶するってことだ。もっと子供らしい言い方をするなら嫌がるってことになる。

「脳が理解を嫌がるもの。人はそれをトラウマと呼ぶ」

 僕が結論を出すより早く、椿さんが答えを出す。

 言いたいことを先に言われて項垂れてしまいそうになるけど、雪音も椿さんもいつもこういう風なので今更何か言うことはできない。

「あのビルに茜にとってのトラウマがある。椿はそう思ってるの?」

「そこまではまだ分からない。あのビルに関しては私もある程度は調べているが、その子との関連性がありそうな情報は今のところない。暗がりにトラウマがあるのなら君の家に泊まった時にも何かしらの症状が出るはずだ」

「つまり、何も分からないことが分かったってことか……」

「待て待て、その結論は些か早計だ。そもそも——」

「私は簡潔な結論が知りたいの。小難しい屁理屈はいらないよ」

 椿さんの反論をバッサリと切り捨てる雪音を見て、思わず苦笑いが零れる。でも、茜ちゃんがここに来て今日で三日目。そろそろニュースで取り上げられたりしても良い頃だが、子供が行方不明になっているなんて話題はテレビやネットでも広まっていない。

 件の神隠しについても三日前の事件を最後にピタリと止んでしまっている。事件が止むこと自体は良い事の筈なのに、どうにも腑に落ちない。だから、結論を急ぎたくなる雪音の気持ちも分からないでもないのだ。

「先生、例の神隠しって茜ちゃんが最後なんですか?」

「今のところはね。昨晩から調べてはいるが、轢き逃げに強盗に爆破予告とどれも関連性の無いものばかり……。いや、一つだけ妙な事件があったな」

 言うと、椿さんは自前のパソコンを操作して僕たちに画面を見せる。

「事件といってもネットにも纏められないような小さなものだがね、担当だった刑事から面白い話を聞けたんだ。昨日の午後十一時頃、例のビル——千代田ビルで不法侵入者を見つけたという報告が警察に入ったそうだ」

 あのビルでの不法侵入。そう聞いて変な声が漏れそうになった。

「ん、どうした春介君?」

「い、いえ、何でもないです……」

「さては昨日、自分達があのビルに不法侵入したのがバレたとでも思ったかい? それについてなら私以外知る者はいないから安心したまえよ」

「そ、そうですか……」

「続けるぞ。その不法侵入者だが、見つけたのは近くの警備会社に勤める社員だ。支社に帰る途中で既に廃ビルになっている筈の千代田ビルに入っていく人物を見かけたそうだ。勿論、警備員はその人物に職務質問をしたが、ビルを使っていた製薬会社の関係者ということで警察からの厳重注意程度で片が付いた」

「変な話だね。もう潰れた企業の関係者なんて部外者と同等でしょ」

「私もそう思って、実際に侵入者と会った警備員にも話を聞いたよ。刑事と全く同じ話をするんで無駄骨になってしまったがね」

「じゃあその不法侵入者は警備会社や警察とつながりがある人物ってことですか?」

「そこまではまだ分からない。憶測ならいくらでも並べられるが、そんなものに意味はない。茜のことにしろ、不法侵入の件にしろ、詳しく知りたいならあのビルについて調べるしかないだろう」

 話に一段落を付けて、椿さんは机の隅に置いてあるケトルからお茶を注ぐ。

 結局、話は振出しに戻ってしまった。あのビルについて調べない限り茜ちゃんの問題は一向に解決しないらしい。

「そこでだ春介君。今日この後は暇かい?」

「え、あぁ、はい。薬のリストも後十分くらいで出来るのでそれが終わったら今日はもう暇ですね」

「そうかそうか、それは良かった」

 えらく上機嫌な椿さんの笑みを見て、なんとなく嫌な予感がした。

「……先生、もしかして千代田ビルに行こうとしてます?」

「おや、君にしては中々察しが良いじゃないか。本当は茜も一緒に来るのが一番ではあるが、トラウマがある以上無理強いはできない。かと言って、此処に彼女一人を置いてけぼりにして行くのも可哀想だろう? なら、私と君の二人で調査した方がいい。幸いにも茜は雪音に懐いている様だしね」

 マグカップに口を付けながら微笑を浮かべる椿さんの視線の先では、茜ちゃんが雪音の腕の中ですやすやと寝息を立てていた。小難しい話ばかりで退屈してしまったのだろう。あどけない寝顔に僕も雪音も思わず頬が緩む。

 雪音もそんな茜ちゃんを大事そうに抱えているあたり、此処を動く気はなさそうだ。

 さっきに比べて随分あっさりと話がまとまった。

「出発は十五分後にしよう。雪音、その子を頼んだよ」

「勿論。お土産よろしくね」

「あはは……」


 ****


 茜ちゃんを雪音に任せ、僕と椿さんは直接千代田ビルを見に行くことになった。

 椿さんの愛車である真っ赤なスポーツカー(椿さん曰くZN86)に乗って診療所から離れる事ニ十分弱。椿さんはビルに一番近いコインパーキングに車を止めた。

「外見は至って普通だね」

「あの~先生、雪音にも言ったんですけどこれって不法侵入じゃあ……」

「ん? あぁ、それなら心配ないよ。警察には私の知り合いが沢山いるからね、仮に通報されたとしても其処まで大事にはならないさ」

「いや、犯罪者になるのはごめんですけど!?」

「仕方がないだろう、どれだけ調べてもビルの保有者とはコンタクトが取れなかったんだ。参ったものだよ、警察の知り合いにまで聞いたというのにきっちり口止めされていた」

「だったら帰りましょうよ!」

「その場合、茜が悲しむことになるがそれでもいいのかい?」

「うっ……」

 そう言われると、思わず怯んでしまう。それが良くなかったのか椿さんの顔には見るからに危険な笑顔が満面に浮かべられた。

 あぁ、これ以上は喋るほどに自分の首を絞めることになるなと察してしまった僕は溜息をつきながら両手を上げる。

「うむ。じゃあ行こうか」

 ご機嫌そうに椿さんは運転席のドアを開けた。それに続いて僕も外に出る。

 生憎の雨空の下、既に廃墟となっている千代田ビルには当然ながら蛍光灯の一つも点いておらず不気味な雰囲気を滲みだしながら聳え立っていた。

 昨日も来たはずなのに、なんだか全く別の場所のように思える。けれど、椿さんにとってはそんなことは些細なことのようでビルの外観には一瞥もくれず玄関まで足早に歩く。

 電気の通っていない自動ドアの前まで来ると、椿さんはおもむろにドアに手を掛けた。

 ビルの中はやはり暗かった。曇天も相まって無人の受付には昨日よりもより暗闇が広がっていて、不気味という言葉をありありと体現している。それに、雨で湿気ているせいか厭に蒸せる。

 外とはまるで違う、別世界だここは。

「落ち着け春介君、ただの勘違いだ」

 耳元で囁かれた、しかし凛としている椿さんの言葉にハッとさせられる。

「落ち着いたかい?」

「はい、すみません……」

「いいさ、こんなお化け屋敷みたいな場所だ。緊張しないほうが失礼さ」

 適当なことを言いながら椿さんは辺りをしげしげと観察する。僕も気を取り直して、辺りを見回してみる。とはいえ目の届く範囲に変わったものは無く、動かなくなったエレベーターとエスカレータが埃を被って寂れているくらいだ。

「事務室は……三階か」

 壁に取り付けられた案内板を見て、椿さんが呟く。

「まだ残っている備品があったんですか?」

「あぁ、随分と雑な仕事をする会社だな。これじゃあまだここに誰かが残っていると言っているようなものじゃないか」

「やっぱり、神隠しを引き起こした犯人はこのビルを誰かに見つけて欲しかったんでしょうか」

「ほぉ、それは興味深い。だとすると私達が今日ここに来るのも犯人の思惑通りという訳だ」

「恐ろしいことを言わないでください」

「はは、冗談さ」

 乾いた笑いと共に椿さんはエスカレーターを上り、そのまま三階へと向かう。その足取りには欠片の警戒心も無く、ただ気分の赴くままに探索をしている様だった。

「……絶対冗談じゃない」

 口をついた愚痴は誰にも届かず暗闇に溶けた。

 ともかく、誘いに乗ってしまったからには椿さんを追いかけるしかない。覚悟を決めて、僕は上司の背中を追うことにした。

 三階に着くと、椿さんは真っ先に事務室を目指した。部屋の名前が書かれたプレートすら外されている部屋を事務室と呼ぶのは変な気がするけど、取り敢えずはそういう目的で使われていた部屋だ。

 普通なら何もかも運び出された後なのだから入ったところで得られるものはない。けれど、室内に入った僕達の目に映ったのは極々普遍的なオフィスだった。タイル状のカーペットも綺麗に整頓された事務机もきちんと揃っている。唯一思い通りだったのは部屋の電気が通っていないことくらいだ。

「全く、どこもかしこも真っ暗だな」

 不愉快だ、と愚痴りながら椿さんはスマホを操作してライトを点ける。仄暗い部屋の中では人工的な光はやけに眩しい。けれど、椿さんが愚痴るように電気がないのは途轍もなく不便だ。雨雲が広がる日中や方角的な問題があるとはいえ、光がなければ足元もおぼつかない。こんな状態じゃあ調査もままならない。

 仕方なしに自分のスマホのライトを点けて、椿さんとは反対側から調べてみることにする。

 白い光に照らされたカーペットはゆっくり歩くだけでも埃が舞う。よく見れば、机の上も遠目からなら整えられたように見えるが、近くで見れば埃で白くなっている。

 物色するか悩んで、ふと椿さんの方を見ると当然のようにデスクの引き出しとか資料が並べられている棚とか、とにかく残っている備品全てに手を付けていた。

 雇用主に対してこんなことを思うのは失礼かもしれないけど、この人の中では空き巣も不法侵入も犯罪ではないらしい。

 警察とかに居るであろう椿さんの友人たちに口利きすれば何とかなんだろうけど……。

 今更ながら、付いてきたことを後悔し始めた。

「お、来たまえ春介君。良いものを見つけた」

 思考の海を漂っている間に、椿さんが何か見つけたらしい。お宝を見つけた子供のような表情の椿さんは見つけたものを一番広いデスクの上に広げる。

 広げられたそれは千代田ビルの見取り図のようだった。

「これ、見取り図ですよね」

「あぁ、正真正銘見取り図だね」

 一体、これのどこが面白いものなのだろうか……。

「そう怪訝そうな顔をするな。面白いものと言うのはね、ここの事だ」

 椿さんが指をさしたのはこの建物の一番下、つまりは一階だ。

 ますます分からなくなってきた。

「違う違う、よく見給え。そこは地下一階だ」

「え、この建物って地下があるんですか? 外観を見た感じ無さそうでしたけど」

「私も同意見だ。この見取り図では地下駐車場となっているが、外には其処に繋がるような入口らしきものは見当たらなかった。どこかに隠し通路があるのか、それともただのミスなのか確かめてみようじゃないか」

「分かりました。何処から行くんですか?」

「あーちょっと待ってくれ。地下には君一人で行ってくれ。私は上の階を散策してみたい。折角二人いることだし、手分けをした方が効率的だろう?」

 それは……そうかもしれない。

「そうだな、一時間後に此処で落ち合おう」

 じゃあな、と言って椿さんはさっさと事務室を後にした。クリーム色のドアに消えていく背中を呆然と見送って、一人なってしまったと思い至る。パタン、とドアが閉じた音が無人のオフィスに虚しく響く。

 取り残された僕はデスクに広げられたままの見取り図を手に、昼間なのか夜なのか判別の付かない小さな世界を探索することにした。


 ****


 来た道を引き返し一階まで戻る頃には、窓ガラスを叩く雨音は小雨ほどのものになっていた。椿さんと合流する頃には止んでいるだろう。

 外の風景を尻目に、薄暗い通路をスマホのライトで照らしながら進んでいく。しかし、事務室で見つけた見取り図を頼りに進んだ先には来客用のトイレしかなく、引き返してみても他に通路は無かった。

 どうやら、この見取り図を描いた人のミスらしい。

 参ったな、椿さんとの待ち合わせまでまだ三十分以上もある。連絡をして今すぐ合流してもいいだろうが、何かに没頭している椿さんが電話に出る可能性は低い。

 仮に電話に出たとしても「何だ、君は案外怖がりなんだな」とか言われるに決まってる。

 ——ブブッ……。

「おわぁ!?」

 唐突に手に持っているスマホが鳴り始めた。

 まるで心を読まれたような絶妙なタイミングの着信に驚いて、両手でスマホをお手玉してしまう。

 右、左、右。最後に真上に跳ねたスマホをどうにか掴んで誰からの着信かも見ずに出る。

「はい、既原です!」

『知ってる』

 僕の上ずった声に返答したのは、とても聞き覚えのある声——椿さんの声だった。

「あれ、先生……?」

『逆に聞くが、どうして私以外だと思った? 画面に名前が出ていただろう……。あぁ、そうか驚いてそこまで気が回らなかったのか。君、意外と怖がりなんだな』

 どうしてこの人は人が嫌がるところを最も嫌がるタイミングで的確にしてくるんだろう。しかも、思ったこととほとんど同じことを言われたし……。

「いえ、大丈夫です……」

『そうか? まぁ何でもいい、今どこに居る?』

「一階のトイレです。見取り図を頼りに地下駐車場を探してたんですけど見つかりませんでした。多分、製作者のミスですよこれ」

『あぁ、それはもういい。予定より早いがもう帰ろう。ここには長居しないほうがいい』

「はぁ、分かりました」

 直ぐに降りるよ、と言ってから椿さんは電話を切った。

 違和感がある……。

 いったん調べ始めたら満足するまで調べ上げる椿さんが、調査を打ち切るなんて変だ。

 言葉にできないモヤモヤした心を抱えながら、受付のカウンターに背を預ける。

 空を見上げると、思っていたよりも早く雨は上がっていた。

 時刻はそろそろ四時になる。


 ****


 診療所に帰ると、雪音は茜ちゃんと一緒に出掛けているようで診察室には誰もいなかった。

 念のため電話をしてみるけど案の定、雪音は出なかった。一応、『いつ帰ってくる?』とLINEにメッセージを残しておく。

 ほどなくして雪音から『今から』とメッセージが帰ってくる。けれど——その日、雪音は帰ってこなかった。

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