既原春介1

 椿さんが季節外れの風邪を引いて二日目。

 来なくていい、という連絡を受けた僕はそれでも椿さんの事が心配で診療所に顔を出しに来た。道中のコンビニで冷えピタと栄養食とスポーツドリンクを買い込んで診察室を開けると、案の定昨日よりも酷い有様の椿さんがベッドに寝転がっていた。

「なんだ、来なくて良いと言っただろう……」

「すいません、少し心配だったので」

 言いながら床に捨てられているゴミや衣服を片す。薬のゴミが散らばっているあたり、既に錠剤は飲んだらしい。しかし、散乱しているゴミの中に食べ物の空がないということは昨日からまともなものを口にしていないのだろう。

「風邪、そんなに酷いんですか?」

「いいや、私は昔から一度風邪を引くと長いんだ。ただの夏風邪でも三日は寝込んでいたよ。そんなことよりも雪音の方を気にかけた方が良いんじゃないかい?」

「此処を片付けたら雪音の所にも行きますよ、茜ちゃんの事も気がかりですし。スポドリとか買ってきたので此処に置いておきますね」

 ベッドの近くにある丸椅子にコンビニ袋を置いて掃除の続きをする。一応普段からこまめに掃除はしてくださいね、と声は掛けているのだけど生返事が帰ってくるだけでこの診察室は散らかっているのが基本になってしまっている。

 時折思うけど、この人今までどうやって生きてきたんだろう。

 雪音が心配で始めたこのバイトだが、考えてみれば僕が椿さんについて知っていることと言えば名前と職業くらいで経歴については全く知らない。興味がないと言えば嘘になる。けれど、無理に詮索する気もないので僕が救保椿という人物を知る機会は多分来ない。

 そんな思考に夢中になっていたのが良くなかったのか、頭上がお留守になっていた僕は目先のゴミを取ろうとして椿さんのデスクに思い切り頭をぶつけた。

「いっ~~~~~!?」

 頭蓋に響く重い音。当然だが、椿さんのデスクは本人曰く最も効率化された惨状になっているので上に乗っかっていた紙束や小物が衝撃によって雪崩を起こした。

 自然、診察室は僕が来る前よりも酷い有様になり果てる。

「全く、何をしているんだい」

「す、すいません。デスクの下のゴミを取ろうとして……」

 痛む頭を擦りながら、取り敢えず落ちてきたものを拾い集める。例の神隠しについての資料だろうか、分かる範囲で項目ごとに整理しながら邪魔にならないようにデスクに積み上げる。

 根本的なものは何も解決していないけど、それは未来の誰かがどうにかしてくれるはずだと今は信じておく。

 足元に舞った最後の一枚を手に取る時、一つの写真立てが目に入った。一緒に落ちたのだろうが、幸いなことに写真立てには傷は無く中にある写真も無事だった。外国の風景だろうか、大きな洋館の玄関を背景に四人の人物が仲睦まじく並んでいる。

 赤い短髪に厳格そうな男性。その人に寄り添うように腕を絡めて微笑んでいる黒髪の女性。そして、赤髪の女の子と黒髪の男の子が無邪気に笑っている。

「椿さん、この写真」

「ん、ああ、私の幼少期の写真だよ。家族の顔を思い出せなくなってきてね、資料室から引っ張り出したのさ。私の人生において、たった一つの汚点だよ」

「汚点、ですか」

 すっかり乾いた冷えピタを変えながら椿さんは眠気交じりに語り始める。

「折角だ、昔話をしてあげよう。いつだったかな。兄が高校の入学を控えていたころだったから、かれこれ十年ほど前か。自分でもすっかり忘れていたと思っていたが、こうやって話始めると色々と思い出してしまうね」

 椿さんは眠たげな表情のまま、感傷に浸るように喋っている。まさか、こんなところで椿さんの過去を知ることになるとは思いもしなかった。風邪を引くと素直になる人も居るけど、椿さんもその例に当てはまるらしい。

「当時の私は反抗期の真っただ中でね、まるで親の仇を見るような目で家族を見ていたよ。今思えば我ながら変な視点だ」

「家族と仲が悪かったんですか?」

 スポーツドリンクを枕元に置いて、近場の適当な椅子をベッド脇に持ってきて座る。椿さんは早速スポーツドリンクを一口飲むと、また寝転がった。

「どうだろうね。私の知る限りだと両親は仲が良かったし、兄も両親と上手くやっていたと思う。問題は私自身にあったのさ。救保家の人間は代々決まった高校と大学に進学して、医者になることを義務付けられているんだ。救保という名前は医療の世界では特別な意味を持っているからね。当然、私と兄もその義務に従わなければならなかった。兄はそれを早い段階で受け入れたが、私にはそれがどうにも受け入れられなくてね、遂には家を飛び出すまでに至ったよ。まぁ、結局は今こうして医者をやっている訳だが」

「先生にもそんな思春期があったんですね」

「時折思うが、君は弱っている人間に対しては本音が出るんだね。良い性格をしているよ」

「誉め言葉として受け取っておきますね」

 珍しく口をついた皮肉を椿さんは愉しそうに笑う。

「いい機会だ、もう少し話そうか。そもそもの話だが、どうして救保家の人間は医者になることを義務付けられているのか分かるかい?」

「随分と正答率が低そうな質問ですね……」

「そうでもない、現に雪音には当てられてしまった。」

 それは多分、正解できた雪音が凄いんだと思います……。しかし、質問を振られたからには答えなくてはならない。

「うーん、医者が人を救う職業だからですかね?」

「当たらずとも遠からず、と言ったところだな。正解は私が救保だから、だ」

「頓智ですか……」

「いーや大真面目さ。もし私が救保の家に産まれていなければ私は医者にはなっていない。今頃、どこか遠い国で石油王にでもなっていただろうさ」

「……もしかして、石油王になりたくて家を飛び出したんですか?」

「君、私の事を馬鹿だと思っているだろう。いくら私でもそんな理由で家を飛び出したりしない。私が家を飛び出したのは何にも縛られたくなかったからさ。けれど、まだ十代前半の小娘が自由を得るのは難しい話だった。少し考えれば予想できていたのにね。外の世界で私は沢山の不自由を学んだよ。生きるには金が必要だという事、力が無ければ言葉を発する事すら許されない事、普通という枠組みを外れれば人間ではなくなる事。この世の不自由と理不尽の基礎を叩きこまれたよ。そんな私とは反対に兄は救保家の人間としての義務を全うしていた。救保の名前を背負うに相応しい知識を付け、人柄を持ち、けれど決して自己を失わなかった。自由なんて欠片も無い筈の環境で兄は最大限の自由を手に入れていた。私は、そんな兄が妬ましかった」

 なんてことのない風に言う椿さんだが、腕で目元を隠しているせいかその横顔には憂いが見えた。そんな顔をされてしまうと一体、どんな反応をするのが正解なのか分からなくなる。

「あぁ、すまない。少しばかり重苦しい話になってしまったね。私も偶には喋り過ぎるらしい」

「いえ、大丈夫です。そもそも聞いたのは僕ですから」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ。ついでに一つ小言を言っておこうか、あの子の時もそうだが君は少々抜けている部分があるからね。いいかい春介君、その写真の私の兄には絶対に近づくなよ」

 それだけ言うと椿さんはそのまま静かに寝息を立て始めた。あらかじめ飲んでいた薬が効いたのだろう。まだ少しだけ散らかった部屋を片付けて、邪魔にならないように診察室を後にする。

 昼間だというのに、診療所の廊下は蛍光灯が付いていないせいで薄暗い。仄かな闇の中でさっきの忠告を思い出す。ついでに言い損ねた反論も。

「近づくなって、難しいですよ椿さん。だって、多分僕はその人と知り合いです」

 十年前の写真に写った男の子の今の姿なんて想像できるはずもない。けれど、なぜか風化しかかった僕の記憶には何か引っかかるものがあった。

 そう——二年前、雪音が転校してきた頃の記憶に。

 そこにどんな関係があるのか、どんな意味合いがあるのか僕には分からない。

 何もかもが曖昧で、さっきまでの平穏な空気が濁っているような気がした。

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