喰藤雪音7
ぼごん、と鈍い音が響いた。
悪意の匂いはもうしない。けれど、アスファルトやコンクリートに染みついた血の匂いは暫くこびり付いたままだろう。
だというのに、振り返った先の大通りでは何もなかったかのように日常が広がっていた。
常識が飽和したこの世界では、裏路地の小さな非常識なんて直ぐに飲み込まれて消えてしまう。
これじゃあ、どっちが可笑しいのか分からない。
そのことに溜息をつきながら薄く切れた喉を触ると、掠れた傷口がジクリと痛んだ。
血は出ていないし、どうやら死ぬ事はなさそうだ。
さて、と視線を前にやる。
日陰に覆われ、虚ろな闇が広がる路地の奥で飢崎愛穂は倒れていた。頭を打ったのだろう、額を鮮血に染めながら彼女は逃げるように這っていた。
私は、痛む体を壁で支えながら愛穂を追った。案外、直ぐに追いついた。
「ひっ……!」
死神を見るような目で見られた。さっきまで嬉々として人を切り刻んでいたのに、自分が追い詰められると一端に被害者面。
なんて卑怯。
「やだ……来ないで、ください」
顔をよく見るためにもう一歩距離を詰めると何か固いものを踏んだ。
視線を落とすと、さっきまで愛穂の手に握られていたナイフが私の靴に踏まれていた。
これ以上体を動かすのも怠いけど、あれを拾って刺すくらいのことはできる。
「私を、殺すつもりですか……?」
黙ってナイフを見つめる私を見て、愛穂はそんなことを言う。
何も答えないでいると、彼女は更に影に逃げる。
「な、んで……。私はただ、誰かに優しくされたかっただけ……愛されたかっただけなのに」
もう何度聞いたか分からないその言葉を私は小さく笑い飛ばした。
「愛されたかった、ね。ねぇ、聞きそびれてたから聞くんだけどさ。愛穂にとっての愛情って何?」
「、ぇ……?」
「誰かに好きになってもらうこと? 誰かに優しくされること?」
私の質問に愛穂は言葉を詰まらせる。
きっと、彼女の中にその答えはない。そもそも、あればこんなこともしないだろうし。
「どっちも愛情には違いない。でもね、どれだけ他者から愛情を受け取っても自分が自分を愛せてないなら、意味はない」
愛穂の顔が驚愕に染まる。
過去に何があったのかまでは知らないし、興味もない。
でも、他人から貰ったものはどこまでいっても貰い物に過ぎない。いくら貰い物で自分を満たそうとしたところで、貰う側に不良があれば無用の長物だ。割れたコップに水を注いでもコップが満たされる事がないのと同じこと。
「愛穂が何に悩んでるのか知らないけどさ。誰かに愛されたいなら、まずは自分を愛すれば良かったんだよ」
それが、私と飢崎愛穂の最後の会話だった。
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