既原春介6

 裏路地から運び出された僕は、診療所で椿さんから治療を受けていた。

 傷口に染みる薬品に顔をしかめながらも一通りの治療を終えると、椿さんは医療道具を片付ける様子もなくふぅ、と一息ついた。

「雪音もそうだが、君も中々無茶をする」

「え?」

「飢崎愛穂の事だよ。君、あの子を助ける気だったんだろう?」

「な、なんで知ってるんですか!?」

 雪音には漏らしたけど、椿さんの車に乗ってからは特に変なことは言ってなかったと思う。

「君は考えていることが顔に出やすい。今だって雪音とあの子の事を気にかけているじゃないか」

 心の内を言い当てられて思わず椿さんから距離を取る。

 前々から雪音も椿さんもやけに僕の言いたいことを当ててくるなとは思っていたけど、まさか顔に出ていたなんて知りもしなかった。

「それを悪いとは言わないよ。善人であろうと悪人であろうと、法によって決められている以上はやり直す機会を与えられる。君の意見は至極真っ当な意見だよ——普通の状況に限ってね」

 含みのある言い方をして、椿さんは難しい顔をして窓へと視線をやる。

 何か、思う所でもあるのだろうか?

 でも、今はそれよりも。

「椿さん。警察を呼んで雪音を助けに行きましょう」

「春介君。残念だが、それはもう遅い。今頃はもう決着が付いてるよ」

「っ、でも!」

「その代わりと言っては何だが、君には今回の事件の真実を教えておこう」

 突然のことに、僕はそれ以上言葉が出なかった。

「飢崎愛穂の両親は離婚していると言ったのを覚えているかい?」

「えぇ、覚えています。それが唯一、飢崎さんの変わった点だとも言ってましたよね……」

「あぁ。問題はその離婚回数でね。二度も離婚している」

 それは思いもしなかった事実だった。

「一度目は死別による離婚だ。飢崎愛穂の実父は彼女が産まれる前に亡くなっている。そこから約七年もの間、母親は女手一つで娘を育てて再婚した。けれど、再婚から二年。今度は父親と母親の喧嘩が原因で離婚している。当時の担当医曰く、母親は鬱になって相当荒れたそうだよ。今でこそ立派に社会復帰を果たしているが、療養中は食事も睡眠もまともに取れなかったらしくてね、遂には愛していた筈の娘にすらも手をあげた」

「……そんなこと」

「当時のカルテも見せてもらった。娘である飢崎愛穂の背中には人に殴られてできた痣があったよ。きっかけはほんの些細なことだった。当時九歳だった愛穂が、元父親に買ってもらった玩具で楽しそうに遊んでいたのを偶然母親が見かけてしまった。母親も母親で精神的に限界が来ていたこともあった。どちらが悪いなんて第三者からは分からなかったんだ。だからこそだろうね、飢崎愛穂は幼いながらに自分のせいだと決めつけてしまった」

「誰にも、決めてもらえなかったから」

「あぁ……。ずっと自分を責めて、責めて、責め続けて。相手からどう思われているのかすら分からなくなるくらい責めて。そりゃあ愛情にも飢えるだろうね」

 それは、なんて悲しんだろう。

 自分を唯一愛してくれていた母親を傷つけてしまって、誰にも責めてもらえず、誰にも許してもらえない。

 ごめんなさい、という言葉がお互いにすれ違ってしまって、永遠に許されない罰を背負ってしまった。

「誰かに愛されれば、彼女も人を傷つけることなんて無かったのに」

「春介君、前提を間違えてはいけない。今の飢崎愛穂にどれだけ愛情を注いでも意味はない」

「どういう事ですか?」

「愛情を受けずに育った人間は、他人を信じることができないんだよ。我々は何かを信じることでしか感情を図れない。愛情であろうと憎悪であろうと、その対象を信じているからこそ生まれるものだ。そうでなければ我々に心なんてものは無かった。誰も何も信じられない者には人の心が分からない。飢崎愛穂は他者を喰らうという行為の最中だけ感情を理解できたんだ。他者を喰らっている間だけは他者を信じることができた。だから彼女は殺傷行為を通じて愛情を知ろうとした」

「それ、治す事ってできるんですか?」

「心の治療というより感性の修正になるだろうけどね。ただ、医者として言わせてもらえるのなら、本人に治す気があるのなら治るだろう。必要なのは彼女が自分自身を信じる事さ。けれど、彼女の場合はそれに加えて薬の方にも手を加えなければいけないね」

「薬……?」

「飢崎愛穂は母親から暴行を受けた後、定期的に医者から精神安定剤と食欲増進剤を貰っていたんだ。後者は普通のビタミン剤だったが、精神安定剤の方からごく少量のLSDが出てきた」

「なんですか、それ……?」

「日本では麻薬に指定されている成分だよ、主に幻覚剤、向精神薬として知られているね」

「麻薬!?」

 予想もしていなかった返答に変な声が出てしまった。

 なんで、そんなものが……。

「記録を見た限り、LSDの服用が始まったのは殺傷事件が起きた次の日からだ。LSDには被暗示性を高める効果があると聞く。精神病を患った患者に服用させて、幻覚を見させながらセッションをするんだ。そうすることで自分の無意識を探求させて、自分の精神構造を自覚させる。まぁ、催眠療法のようなものだと思ってくれればいい。幸いにも依存性は少ないが、暫くはフラッシュバックに悩まされることになる」

「その薬を処方した医者は何でそんなことを……」

 その呟きに、椿さんは大きく溜息を零した。

「春介君。今回の依頼主はね、飢崎愛穂の元父親なんだ。彼は母親よりも早い段階で娘の異常な異食症に気づいていたんだろう。だから、今回の事件の話を聞いて、それが元娘の仕業だと感づいた。彼は治す気でいたんだ。別れたとはいえ、一度は愛した娘の為に麻薬まで手に入れて治療を施そうとした。でも、気の毒だがそんな思いも彼女には届かない」

「誰も、信じられないから……」

「そうだ。だから、彼女を本当に救うには今の彼女を壊すしかない」

 あまりの言い分に、思わず立ち上がってしまった。

 この人はなんで、そんなことを平然と言い切れるんだ。

「冷静に考えてみたまえ。事態をこのまま放置しておけば彼女は人を喰らい続ける異常者として一生を過ごすことになる。LSDによる治療でも飢崎愛穂の異常性を完治させることはできない。異常者か、廃人か、今の彼女にはその二択しかないんだ。ほら、あらゆる面で彼女には救いがない。雪音もおそらく、そのことに気づいている。だからこそ、あの子は君に助けると約束したんだよ」

「っ……、ちっくしょう!!」

 誰に対してかも分からないまま、そう叫んでいた。

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