喰藤雪音6
少し離れたところから車のエンジン音が聞こえる。
どうやら、春介は無事に椿と合流できたらしい。そのことにホッと一息つきながら、目の前の怪物に目を向ける。
白い怪物に呑まれたはずの異常者は、さっきからあの中で息を潜めている。
あの怪物の中がどうなっているのかは知らないけど、きっと私の仕事はまだ終わっていない。
「……さっさと出てきたら?」
「良いんですか?」
返答と共に怪物が切り刻まれる。
路地にはバラバラになった私の髪が雪のように舞って、その中に飢崎愛穂は立っていた。
年頃の少女らしい笑顔に小振りのナイフを携えて楽しそうに。
「折角、最後の時間を楽しませてあげようかと思ってたのに……。こう見えて空気は読める方なんですよ?」
「それはどうも。さっきまで子供みたいに泣いてたのに、随分と元気そうだね」
「ふふっ、涙は女の武器ですよ。既原さんみたいな人には心に訴えかけるのが一番ですから」
「そ、思った通りに異常者だね」
切られた髪の具合を確かめながら呟くと、異常者の少女から笑顔が消えた。
「その呼び方、やめてください。私は異常者なんかじゃありません」
「よく言う……。好き好んで人を傷つけて人肉を貪る人間なんて異常者以外の何者でもないでしょ」
「違います。私は誰かに愛されたいだけです。大体、貴女こそどうなんですか。あんな怪物を出してきて、貴女こそまともじゃない。そう、異常者じゃないですか!」
私の言葉を飢崎はとことん否定する。
自分はまともだと、異常者ではないのだと言い聞かせるように。きっと、そうしないと自分を肯定できないから。
けれど、それこそが彼女が異常者たらしめている。
自分が普通ではないと分かっているのに、異常者ではないと本気で信じている。
なんて矛盾。
「いいや、私達は似た者同士だよ。愛穂」
「馴れ馴れしく名前を呼ばないでください。不愉快です」
苛立ち交じりに愛穂はナイフを構える。その鋭い刃先からは明確な悪意の匂いがして、それに誘われる様に私の中の怪物が口を開いた。
「——いけ」
怪物が愛穂を喰らう。その瞬間を目視はできなかった。
気が付けば、切り取られた画像のように怪物は少女を丸呑みにしている——ように見えた。
「早いですが、見えない程じゃありませんね」
声は上から聞こえた。
見上げれば、宙に身を躍らせた愛穂が落下の勢いそのままにナイフを振り下ろす直前だった。
落下地点から離れるように二歩だけ下がると、見惚れるような一閃に目の前の空間を断ち切られる。
異常者は止まらない。
着地の衝撃を感じさせない軽やかな足取りのまま二回、三回とナイフが振るわれる。
スペースの限られた狭い路地では、全て躱すことはできない。
頬や腕を刃物が掠めて、僅かに血が滲む。
「終わりです」
逆手に持ち替えられたナイフが私の首を目掛けて振るわれる。
咄嗟に右腕で受けた。
ずぶりと刃先が腕に埋まり、引き裂かれた痛みが私の全身を一瞬弛緩させる。
「——ッ!」
漏れそうになる声を飲み込んで、左腕を伸ばす。襟や袖でも掴めれば怪物からは逃げられない。しかし、伸ばした指先は愛穂のニットを掠めただけで、動きを止めるには至らない。
真上から降ってきた怪物を愛穂は弾けるように後ろに跳んで躱している。
けれど、ナイフは私の腕に突き刺さったまま。結果的とはいえ、武器を奪えた。
「ふふっ、どうやら私の方が強いみたいですね」
愛穂が呟く。
命のやり取りの最中だというのに、あの少女は子供のみたいに無垢な笑顔で愉しそうに笑っていた。
「でも、喰藤さんも中々ですよ。私が今まで食べてきた人達は、皆直ぐに慌てて逃げちゃってましたから。最初はそれでも良かったんですけど、何もない所でこけちゃったりして。私、歩いてたのにあっという間に追いついちゃったんです。知りませんでした。一方的に蹂躙するのも良いですが、本気で抵抗されるのってこんなに愉しいんですね」
愛穂の言葉を聞き流しながら、右腕に刺さったままのナイフを引き抜いて後ろに投げ捨てる。
出血が止まらない右腕は上手く力が入らない。多分、暫くは使い物にならない。
あぁ、でも。こんな不自由すらも今は愉しい。
「やっとらしくなってきたじゃん。狩りに飽きてたのはお互い様ってことだね」
「狩りなんてそんな。私はただ愛されたいだけですよ」
「そういうところだよ」
その愛情の正体が何なのか、きっと愛穂自身も分かっていない。だから彼女は『愉しい』という言葉で自分の本音を誤魔化している。
それはきっと春介のせい。
短い間でも、あのお人好しと過ごした時間が飢崎愛穂の異常性を縛ってしまっている。
自分はまだ、誰かに助けてもらえる位置に居ると思わせてしまった。
春介には悪いけど、あの子を助けられる人物は居ない。
春介も、私も、椿も、あの子の両親ですら本当の意味では助けられない。
だから——喰らうしかない。
「ねぇ喰藤さん、もっと私を愉しませてください。そうすればきっと私は愛情を手に入れることができるんです」
愛穂は僅かに手についた私の血を舐めながら言う。
よほど美味しいのか、たった一滴の血に顔が蕩けてしまっている。
さっきまでの純粋な少女の笑顔はどこにもない。狂気に満ちた笑顔だった。
そこから漂う厭な匂い。
あぁ、やっと異常者としての飢崎愛穂を実感できた。
「いいよ——今の貴女なら喰らってあげる」
****
悪意の匂いが一層濃くなる。
異常者としての才覚を現し始めた愛穂は、本能を剝き出しに飛び掛かってくる。
十メートルも離れていない距離を詰めるのに、そう時間は必要ない。
正面からやり合えばやられるのは、さっき思い知らされた。だから、後ろに下がりながら無造作に右手を横薙ぎに振るう。
腕から溢れた鮮血が愛穂の視界を潰して、勢いが殺される。
その隙を逃さぬように怪物は顎を開き、彼女を喰らう。
怪物はそのまま路地の壁に自分ごと愛穂を叩きつけ、引きずった。名前も知らない建物の壁が破壊され、破片と一緒に一人と一匹が落ちてくる。
普通の人間なら致命傷だろう。
「——酷いじゃないですか。あんな事されちゃあ死んじゃいますよ?」
返答は当然のように返ってきた。そのことに驚きはしない。でも、可笑しなことに声は後ろから聞こえてきた。
途端、遅れて匂う悪意。けれど、振り向くより早く羽交い絞めにされる。
「ふふっ、捕まえました♪」
「そんなこと——でっ!?」
右脚を刺されて苦悶の声が漏れる。
視線を落とすと、小振りのナイフが太ももに突き立てられていた。それがさっき愛穂から奪って後ろに投げ捨てたものだと気づいた時には、私は膝を折っていた。
「勝負ありですね」
ナイフから手を離した愛穂は、顔に付いた乾き気味の血を拭ってにっこり微笑む。
あぁ、ダメだ。もうこの子から悪意の匂いを感じない。
なるほど、今のこの子から見れば私は『自分を愛してくれる人』ではなくただの捕食対象という訳だ。
獲物を喰らう獣には悪意が無い。だから、怪物も出てこない。
「もうあの怪物は出さないんですか?」
「さぁ……今は出てきたくないみたい。アレ、気まぐれだからさ」
「へぇ、そうなんですか。じゃあ——いただきます」
お預けをくらっていた子供が念願のおやつを食べるように、愛穂は私に手を掛けた。
まずは右腕から溢れている血を味わうように口を付けて、啜る。
「ッ、く」
「痛いですか? 大丈夫です。直ぐに慣れますよって、あら……?」
服の中に入れられた手が腹部で止まった。二日前に刺された傷に巻かれた包帯の上を何度も撫でられて、鈍い痛みが伝わってくる。
「喰藤さんったら、こんな素敵なものを隠してたんですね。似た者同士って言い始めたのは喰藤さんなのに、水臭いですね」
包帯に滲んだ血を、愛穂は愛おしそうに指に纏わせる。真紅に染まった指先は、僅かに差し込む光のせいで飴細工みたいに鈍く光っていた。
愛穂はそれを口に含んで吟味する。
「女性を食べるのは初めてですけど、とっても美味しいです。今まで食べてきた誰よりも貴女は極上です」
「どう、も………ッ!」
「でも、貴女との時間も愉しいですが、既原さんも美味しそうですよね。誰にでも優しくて、誰にでも愛情を振りまいてくれる。きっと、私の事だって愛してくれますよね?」
誰に対してか分からない疑問を呟きながら、愛穂は太腿に刺さっていたナイフを引き抜いて優しく私の喉に当てる。
金属の冷たさと血の匂いが体の芯を軋ませて、息を呑む。
「安心してください。貴女の分まで私が愛されてあげますから」
耳元を擽る囁きと共に、ナイフがより強く喉に押し当てられる。
もうすぐ殺されるんだという喪失感と、命を握られている絶望感が、皮膚を通して全身に浸透した。
でも——それだけだ。
「——ほんと、馬鹿みたい」
退屈な罵倒に、今まさに引かれようとしてた凶器が止まる。
「夢を見るのは結構だけど、流石に夢見すぎ。春介なら貴女を愛してくれるだなんて、そんな幻想有り得ない」
「……なんで、そんなことわかるんですか」
「拠り所にしたのはこっちが先。あいつ、あぁ見えて結構好き嫌いが激しいタイプなの。言いたい事もはっきり言うしね。お人好しだから誰にでも優しいけど、誰か一人を一途に愛せるような肝の据わってる人間じゃない。それに、貴女だって誰かに愛されるのは得意かもしれないけど、誰かを愛することはできない。だから断言できる——貴女は春介からは愛されない」
「——殺す」
その一言が決め手だった。
『愛されたい』から人を傷つけるのではなく『傷つけたい』から人を傷つける。
その行為は、悪意からくるものだ。
悪意を持って凶器を振りかざす異常者を、怪物は逃さない。
喉に押し当てられたナイフが引かれるより早く、白い怪物は異常者を喰らう。
クジラに襲われた小魚のように上空に打ち上げられた愛穂は、そのまま抵抗もできずに怪物の餌となった。
彼女の手から零れたナイフが、路地のアスファルトに打ち付けられて甲高い金属音を響かせた。
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