既原春介5

 腕から垂れた血が、アスファルトに小さなシミを作る。切り付けられた左腕はジクジクと焼けるように痛んで、そのせいで全身からは汗が滲み出てくる。

 呼吸は浅くなって、心臓の鼓動も五月蠅くなって、思考が巡るよりも先に体が危険から逃れることを選んだ。

「逃がしませんよ」

 冷たい声と共に、またナイフが振るわれる。獲物の首を跳ね飛ばさんとする一閃は、偶然よろけたおかげで背中を掠めるだけで済んだ。

 けれど、切り付けられた痛みのせいで、足がもつれてアスファルトに倒れこんでしまう。

 日影の裏路地。

 ほんの数メートルも進めば大通りに出られる。そうすれば助けを呼べるはずなのに、そのたった数メートルがあまりにも遠すぎる。

「既原さん、どうして逃げるんですか?」

 後ろから悲しそうな声が聞こえる。痛みに震えながらうつ伏せから仰向けになると、喉元にナイフを突きつけられた。

 僕が飢崎さんだと思っている少女が僕に跨る。

 少しでも手を伸ばせば触れられる距離。

 彼女の眼は未だに悲しそうに歪んでいた。

 拒まれたくない。でも、きっと拒まれる。

 そんな感情が渦巻いている瞳に映っている自分の顔は、今にも吐き出しそうなくらい酷い顔だった。

 だからだろう。喉物に突き付けられたナイフの切っ先が皮膚に押し当てられる。

「既原さん、何か言ってくださいよ」

「っ……どうして、こんなことをするの?」

 不意に漏れた質問に、捕食者の少女は小さく息を呑んだ。

「分からないんです……。自分でも何でこんなことをしてるのか……。なんで人を食べるのが好きになっちゃったのか分からないんです」

 さっきまでの殺気が嘘みたいに萎んだ。

 心に渦巻く感情を絞り出すような声はとても儚くて、ほんの一瞬だけ僕は恐怖を忘れてしまった。

「私が食べた人達、良い人たちばっかりだったんです。学校の先輩だったり、部活の先生だったり、コンビニの店員さんだったり、ホームレスの人だったり、皆、私に優しくしてくれたんです。そう、私、誰かに優しくされたかったんですよ。お父さんもお母さんも、私に優しくしてくれないんです。私は二人のことが大好きなのに。二人のこと、できるだけ困らせないようにしてたのに、お父さんは出て行って、お母さんは仕事ばかりで私の事なんてどうでも良いと思ってるんです……っ!」

 それは、孤独な少女の独白だった。

「誰に相談してもまるで相手にされませんでした。皆して私の事を親不孝者だとか、恩知らずだとか、考えすぎだとか、いい加減な言葉で切り捨てて……。だから、その時決めたんです。私に優しくしてくれる人を食べちゃおうって。愛情を食べれば、私も愛情を感じられるかもしれないって思って……。馬鹿ですよね。矛盾してますよね。なんで、私、自分を傷つけた人達のことを食べなかったんでしょうね。あの人達が居なくなれば、私は誰かに愛されたかもしれないのに。ねぇ既原さん——助けてください」

 彼女の言い分は、往々にして子供のようだった。感情も言葉も在り方もなにもかもが不安定で、崩壊寸前だった。

 でも「助けてください」という言葉がずっと頭の中で渦を巻いて、染み込んでいく。

 突き付けられたナイフも、切り付けられた痛みも僕の意識から消え失せた。

 ただ、目の前で泣いている女の子が可哀想に思えてきて、助けてあげたくなって、手を伸ばした。

「馬鹿」

 けれど、伸ばした手は冷たい声に遮られた。

 気づけば目の前が真っ白に染まっていた。一瞬、僕の意識が吹き飛んでしまったのかと思ったけど、視界を埋め尽くす「白」はまるで生き物みたいに蠢いていて、さっきまで僕に跨っていた飢崎さんを丸呑みにしていた。

「やっと見つけた。随分と変わったデートだね春介」

 カツカツと鳴る足音に振り返ると、上着のポケットに手を入れながら歩いてくる雪音と目が合った。

 埃とチリに塗れた地面で仰向けになっている僕を見下ろす彼女の顔は、いつものように表情に乏しい。けれど、心配はしてくれていたようで僕の容態を一瞥すると、小さく息をついて少しだけ口角を吊り上げる。

「人の趣味に口を出す気はあんまりないけど、せっかくのデートにこういう場所を選ぶのは友人としてやめてほしいかも」

「待って、逆だから。僕が連れ込まれた側だから」

「良いよ無理に否定しなくて、人の趣味って色々だからさ」

「いや、だから違うから。お願いだから、僕に変な設定付け加えないでくれ!」

「良かった。意外と元気そうだね」

「……もう少し、別の方法で確かめてくれない?」

「ダメ。面白いから」

 フランクな口調とは裏腹に雪音は怒っていた。飢崎さんに対してか、僕に対してか、多分両方だと思う。

 その証拠に、彼女の瞳は怪物に呑まれた飢崎さんを睨んでいる。

 止めなきゃダメだ。

「待って雪音、飢崎さんを——」

「悪いけど助ける気はないよ。私は春介を助けるついでに仕事をしに来ただけ。保護をする気はあるけど、それ以外の事はどうでもいい」

 察しの良さは相変わらず。

 言いたいことを食い気味に否定されてしまう。でも、引き下がれなかった。

「雪音、恩には報いるべきだよ」

 言うと、射殺すような視線が僕の目を真っ直ぐ射抜く。

 彼女にしては珍しい、露骨に怒っている。

 これ以上何か言えば、あの白い怪物が僕に襲い掛かってくるんじゃないかと思ってしまう。

 自慢じゃあないけど、僕自身、腕っぷしは雪音に負ける自信がある。力尽くで黙らされてしまえばそれまでだ。

 だけど、雪音はきっとそれをしない。それだけは確信があった。

「たとえ殺傷事件の犯人だったとしても、飢崎さんのおかげで雪音が助かったのは紛れもない事実だ」

「だから、あの子を助けろって?」

「恩を受けたら返す。人としては普通の事だと思うよ」

「その恩返しの相手が、人を襲って人肉を喰らうような異常者だったとしても?」

「それでも僕は、助けを求めている人を助けたい」

 その言葉を境界に、僕たちの会話はぱったりと途切れた。

 白い怪物と連続殺傷事件の犯人が居合わせる異様な裏路地で、僕と雪音はただ向き合ってお互いを見つめている。

 未だ怒りが消えない雪音は、飢崎さんを飲み込んでいる白い怪物の方を見ると呆れたようにため息をついた。

「はぁ……。分かった、折れてあげる」

「雪音……!」

「でも、春介が此処に居ても邪魔なだけだから早く椿の所に行って。出口で待ってるから」

「うん。ありがとう」

「……ねぇ、春介」

 背中から聞こえる声に、歩き出そうとした足が止まる。

 雪音にしてはこれまた珍しい、何処か不安そうな声に思わず振り返る。でも、雪音の顔は見えない。

 彼女は僕に背中を向けている。

「駅前のクレープを奢ってくれるって言う約束、まだ生きてる?」

「ん、そりゃあ覚えてるし、勿論まだ有効だよ」

「そっか……」

 と、短く呟いて雪音が振り向く。その時見えた彼女の顔は僅かに笑っていて、こんな状況にもかかわらずつい見惚れてしまった。

「じゃあ、頑張ろうかな」

 そう言って、また雪音は僕に背中を向ける。さっきまで滲み出ていた怒気はすっかり消え失せて、吹っ切れた様にも見える。

 大丈夫そう、だね。

 心の不安が無くなったことを噛み締めて、僕は大通りで待つ椿さんの車へと歩いた。

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