喰藤雪音4

 入院した翌日。退院の手続きを終えた私が病院の玄関を出ると、本当に春介が来ていた。スマホの画面を確認すると十一時四十三分。昼までまだ十五分以上もある。

 私が出てきたのに気づくと、いつもと変わらない屈託のない笑みを浮かべてこちらに歩いてくる。彼が歩くのに合わせて右手にぶら下がったコンビニの袋も一緒に揺れる。

「……早くない?」

「ちょうどいい時間のバスが無くてさ、ちょっと早めに来たんだよ。何か食べる? 雪音が好きそうなのも買ってきたけど」

「何があるの?」

「うーんと、たまごサンドと明太子おにぎりとクリームパン。あとはお茶かな」

「たまごサンドが良いかな。あぁ、此処じゃなくて椿の所で食べよう。近いし」

「ん、そうだね。昨日のこともあるし、ついでに寄ろうか」

 言って、私達は歩き始める。けれど、直ぐに春介は口を開いた。

「ねぇ雪音。もう動いて大丈夫なの?」

「激しい運動をしなければ大丈夫だって、病院の先生や椿も言ってたから大丈夫。心配なら傷口見る?」

「え、いや……それは、やめとく」

「そっか」

 冗談で言うと、春介は困り気味に私から目を逸らした。何を想像したのかは本人に聞きたいところだけど、それは可哀想なのでやめておいてあげよう。

 その代わりに冗談だよ、と言うと今度は一転して拗ねた表情になる。

「む、そんなことを言ってると、たまごサンドあげないよ?」

「それは困る。ごめんね、春介」

 今日はまだ朝から何も食べていない。そのうえでお昼までなしになってしまうと、思わず春介を食べてしまうかもしれない。物理的に。私としてもそれは困る。

「春介は美味しいのかな?」

「え、なに、僕食べられるの?」

「食べられる時は足からが良い? 頭からが良い?」

「二択があまりにも物騒すぎる……。ご飯をあげるので許してくれませんか?」

「よろしい、心優しい雪音さんはそれで許してあげよう」

「はは~ありがたき幸せ~」

 下らないことを喋りながら、私達は歩き続ける。

 時間はそろそろ正午ぐらいだろうか。雲の合間から差し込む日差しは、春らしく暖かい。

 病院からは既にかなり離れていて、辺りにはスーパーやファミレスが見えるようになってきた。土曜の昼という事もあって、人通りはとても多い。

 でも、今日は我ながら機嫌がいい。理由は自分でも良くは分からないけど。

「雪音。椿さんからの依頼、続けるって本当?」

「うん。どうして?」

 素っ気なく返答すると、春介の足は止まってしまった。それに合わせて私も足を止める。

 人混みの中、私と春介の間に少しだけ距離が開く。川の流れを遮るように立ち止まる私達を、人々は迷惑そうに避けて歩いて行く。それに目を奪われると、春介の姿が見えなくなってしまいそうで。私は春介の方へと向き直った。

「だって、刺されたんだよ? また襲われるかもしれないのに、何で続けるのさ」

 悲しそうに問いを投げてくる春介に、私は少し考える。

 彼の問いに答えるのは簡単だ。彼の好きな正義感に訴えかけるような綺麗事を言えば誤魔化せる。でも、残念なことに私はそういうのが嫌いだ。だから、正直に言う事にした。

「刺されたからだよ。あの人は私を刺したのに、今日ものうのうと生きてるかもしれないでしょ? いや、あの時の様子からすると、ビクビクしながら生きてるかもね。人を刺しちゃったとか後悔してるかもしれない。でも、きっとその人は自分の罪を告白したりしない。そんな卑怯な異常者を私は許せない。だから続けるの」

「雪音、それは……」

「ねぇ、春介から見たらどっちが異常者に見える? 犯人の方? 私?」

 さっきよりも酷い困り方をする春介に、私は近寄って感情のまま質問を続ける。

「もしかしたら私、その人のこと殺しちゃうかも」

「バカなこと言わないでくれ。雪音はそんなことしないよ。絶対」

「へぇ、凄いね。私の事そこまで信じられるんだ」

「当たり前だろ。だって、友達だし」

 そう言うと、彼はまた歩き出す。すれ違う直前に見えた彼の顔は何とも言えない表情をしていて、どうやら怒らせてしまったらしい。

 よく見ると、歩き方も少し乱暴になっている。なのに、私は未だにご機嫌だった。

 理由は、やっぱりわからないけど。

 暫く彼の背中を見つめた私は、追いかけるように脚を動かした。

「ごめんね春介、変なこと言って」

「いいよ。今に始まった事じゃないから」

「それもごめん。大丈夫、さっきのも冗談だから」

 半分は、という頭に着くはずだった言葉を飲み込みながら言うと、春介は大きく息をついて、

「……やっぱりたまごサンドは無しで良い?」

 やっぱり、拗ねたようにそう言った。


 ****


 診療所には今日も患者は来ていなかった。途中、我慢できなくて食べてしまったたまごサンドのゴミを受付の近くに置いてあるゴミ箱に捨てつつ私達は椿の個室へと向かう。

 診察室が並んだ廊下の一番奥にある右の部屋のドアを引くと、思ったとおり椿が暇そうに椅子をキイキイ鳴らしていた。

「やぁ、退院おめでとう雪音」

「どーも。今日も暇そうだね椿」

「こんにちは先生。おにぎり余ってるんですけど、食べますか?」

「ふむ、具は?」

「明太子です」

「いただこう。丁度お昼にしようと思っていたところだ」

 春介からおにぎりを貰った椿は、しかしそれをすぐに食べることはなく一旦机に置く。おにぎりと交換で出てきたのは、味気のない資料だった。読まなくてもなんとなく内容は分かる。けれど、それでは満足してくれないのか、彼女は分厚い資料の束を私に押し付けてくる。

 私はそれを流れ作業で春介に押し付けた。

「え、読まないの雪音」

「だって、中身はあの飢崎って子のことと、あの子が通ってる高校のことでしょ。読まなくても内容は大体察しは付くもん」

「流石、察しが良いね雪音は。ではその資料は春介君にあげよう。君も知っていて損は無い筈だ」

「はぁ、わかりました……」

 資料を押し付けられた春介は、どこか納得のいかない表情のまま診察用のベッドに座る。椿の反論を寄せ付けない態度に押し負けて面倒事に巻き込まれる彼の様子は、ここ二年ですっかり見慣れたものになってしまった。

 私も、そんな春介に合わせるように診察用のベッドに座る。なんとなく、授業中の先生と生徒みたいな構図になる。

「さて、結論から言って雪音を刺した犯人はわかったよ」

「本当ですか!?」

「あぁ、資料にも書いてあるが、やはり雪音の言っていた通り青峰高校の生徒で間違いなさそうだ」

「青峰って有名な進学校じゃないですか!」

「春介、一々うるさい」

 椿の言葉に一回ずつ驚く春介の脇腹を肘で軽くつつく。

 青峰高校。確か、正式名称は青峰大学付属高等学校だったかな。都内どころか、全国的に有名な進学校だ。文武両道を謳い文句に、勉強面でもスポーツ面でも全国レベルで時折テレビでもその名前を見る。

 そんな高校で、人を刺した人が現れた。でも、そんなことよくある話だ。

「昨日の内に高校には連絡を取ったけど、やはり警察沙汰にはしないでくれと言われたよ。ぶっちゃけ私としてはどっちでもいいんだが……。どうする雪音、被害届は出すかい?」

「私もどっちでも良い。でも、警察が絡んでくると依頼は難しくなりそうだね」

「同感だ。昨日は警察の友人に頼んで帰ってもらったが、またすぐに連絡が来るだろう。まぁ、被害届を出すにしろ出さないにしろ、実際に会って話をしてみてからでも悪くないはずだ。聞きたいこともあるしね」

 取り敢えずの結論が出て、椿はおにぎりの封に手を掛ける。けれど隣に居る春介はまだ話を飲み込めていないのか、そろりと手を挙げた。

「……あの、すみません先生。雪音を刺した犯人って例の連続殺傷事件と関係あるんですか?」

「関係はあるよ。ただ、殺傷事件の犯人ではないな」

「なんで、そう思うんですか?」

「資料の二十ページを見たまえ、襲われた人の傷口をまとめてある」

 椿はおにぎりを齧りながら春介の持っている資料を指さした。

 傷口、という不吉な言葉を聞いて春介は恐る恐るページを捲る。

 私も気になって横目で資料に張り付けられた画像を見ると、切り傷と何かに食い千切られたような傷口が鮮明映し出されたページがはっきりと見えた。

 切り傷の方はいたって普通の傷だ。カッターナイフか、包丁か、ありふれた刃物で切り付けられてできたものだろう。けれど、食い千切られた傷の方は異常だ。犬や熊と言った動物に噛み千切られた跡とは違う。その歯型は、人間のものだ。

 それを見て、春介はそっと資料を閉じた。

「これが……どうしたんですか?」

「春介君。君、このまえ私が殺傷事件の話をした時になんて言ったか覚えているかい?」

「……えーと」

「犯人は人を襲っているのではなく、美味しそうな人を選んでいる。そう言っただろう?」

「あ、はい。そうでした。でも、それ雪音が言ったことをそのまま言っただけですよ」

「どちらでも構わないよ、大事なのはその言葉の意味だ。皮肉なことにね、その意見は的を射るまではいかなくとも掠めてはいたんだ」

「え……」

「この事件の犯人は二人いるのさ。人間を襲っている犯人と、美味しそうな人間を食べている犯人がね」

 言いながら椿はおにぎりを頬張る。

 何ともありきたりでつまらない結論だ。何度も見返したサスペンスドラマよりもつまらない。

 けれど、その結論を真っ先に出した張本人の興味はまだ冷めていないのか、さっさとおにぎりを飲み込むとまた話始めた。

「雪音、まだ終わった気になるのは早いよ。君を刺した犯人は分かったが、殺傷事件の方はまだ半分だ」

「あの飢崎って子、どうだったの?」

「ふむ、なら逆に聞いてみようか。どうだったと思う?」

 どこか意地悪な笑みを浮かべる雇い主に、私は嘆息を零した。

 どうだったと思う、なんて聞いてくる時点で答えは一つだけだ。

「至って普通の経歴しか出てこなかった」

「正解だ。飢崎愛穂、彼女は至って普通の女の子だよ。変わった点を挙げるなら両親が離婚しているぐらいかな。今は母親と二人で暮らしているらしいよ」

「どうかな。明日、高校で話を聞いた後にその子に直接会ってみるのが手っ取り早そうだね」

「あっ……」

 なんとなしに提案を投げると唐突に春介から声が出た。本人も意図していなかったであろう呟きに、私と椿は思わず彼に視線を集めてしまう。

「どうかしたかい、春介君」

「いや、あの……。実は僕、明日その飢崎さんと会う約束をしてまして……」

「え」

「はい?」

 今度は私達が間抜けな声を上げる番だった。

 聞き間違いかな、と一瞬本気で疑ってみたけど春介は冗談を言えるような性格じゃあない。この愚か者は本気で飢崎愛穂と会う約束を取り付けたのだ。

 それを理解した途端、私は今日一番の溜息を零して、椿は今年一番の笑いが出た。

「あっはっはっは! まさか事件の容疑者候補とデートの約束を取り付けるなんて、春介君、君は私達の予想を軽々と飛び越えてくれるなぁ!」

「椿、笑ってる場合じゃない。今すぐこの馬鹿をどうにかしないと依頼どころじゃない」

「ちょ、先生も雪音も酷いな……」

「うるさい馬鹿」

 どうせ、私を助けた事のお礼だとかを理由に約束を取り付けたのだろう。

「お人好し、馬鹿、女たらし」

「まぁまぁ雪音、良いじゃないか。春介君デートのついでだ、飢崎愛穂の近辺調査を頼むよ」

「だからデートじゃないですって、はぁ……。でも、昨日彼女の家まで行きましたけど変わった様子はありませんでしたよ」

「一目見ただけでは物事の本質を見抜くことはできないだろう? 君に雪音ほどの観察眼と直感があれば話は別だが、客観的に見て君にそんな能力は無い」

「う……。分かりました……」

 椿の直球な物言いにズバッと切り捨てられる春介。けど、可哀想とは思わない。

 私も椿に同感だ。この呆れるほどのお人好しは人を疑う事を覚えようとしない。いや、何時まで経っても覚えられないのだ。

 上辺だけの優しさを無条件に信じて、誰も傷つけずに平和に日々を過ごす。

 私のような「普通」という枠組みから外れた人間であろうと、椿のような狡猾で腹の底を見せないような人間であろうと、春介は簡単に信じてしまう。

 本当、馬鹿だ。

 そんな憤りが顔に出てしまっていたのだろうか、いつの間にか隣に居るお人好しが申し訳なさそうに私の顔を覗き込んでいた。

「……なに」

「その……ごめん」

「ふん、良いよ。春介の女の趣味に口を出すつもりは無いし。精々デートを楽しんで来れば?」

「いや、だからそれは誤解だって。デートなんて椿さんが勝手に言ってるだけだから」

「おや、年頃の男女が仲良く出かけるのならデートじゃないか?」

「先生は黙っててください、話がこじれます! それに、僕は彼女のことを恋愛対象としては見てませんよ!」

「だ、そうだよ雪音。良かったね彼を取られたわけではないようだよ」

「椿、うるさい」

 何が良かったね、だ。春介が誰と出かけようが私の知った事じゃない。

 何処へなりと行けばいい。

「雪音。代わりと言っては何だけど来週、都内の駅前に新しくクレープ店ができるんだ。君、甘いの好きだろ?」

「とか言って、本当は自分が食べたいくせに……」

「あはは、バレたか……。いいよ、付き合ってくれたら何でも一品奢る」

「何でも?」

「何でも」

「……ふーん」

 短く鼻息を漏らして春介から目を背けると、後ろから小さな笑いが二つほど聞こえる。

「良かったね春介君、お許しが出たみたいだよ」

「みたいですね」

「二人とも、うるさい」

 私は別に最初から怒っていた訳じゃない。

 そう、機嫌が悪かったのだ。


 ****


 三月四日。私と椿は早速青峰高校の関係者にアポを取って、私を刺したであろう犯人に会いに来た。

 椿の運転でここまできたけど、彼女は車の中で身だしなみの最終チェックをしている。

 約束の十一時まであと十分程度あるし、余裕はありそう。

 彼女の準備が終わるまでの間、私は駐車場からぼうっと校舎を観察することにした。

 全国的に有名な高校という事もあって、下手な大学よりも敷地が広い。東側にある校舎は四階建てで、その後ろには体育館らしき建物が三個ほど見える。

 渡り廊下を渡った先の西側にも別の建物が見えるし、これが私が最近まで通っていた高校と同じ枠組みなのだから恐ろしい。けれど、それほどに広い校舎にもかかわらず、視界に映る生徒の数は余りにも少ない。ほんの少しだけ考えてみたけど、それもその筈。なにせ世間は春休みだ。おまけに今日は日曜日だし、そんな日に学校に来る物好きの方が珍しい。

 私がここの生徒だったとしても多分来ない。

「行こうか雪音」

「ん、わかった」

 準備ができた椿に空返事をしながら私達は職員玄関から校舎へと入る。

 昼間とはいえ、休日の校舎内は酷く静かだ。その中で一人の教師が私達を待っていた。

「救保椿さんですね、お待ちしておりました。担任の渡辺です」

 お決まりの挨拶をして、先生は私達を教室に案内する。

 教室の中は蛍光灯に照らされているのに不思議と薄暗い印象を受ける。綺麗に整頓された部屋の真ん中には生徒用の机が五つ集められていて長机のようになっていた。

 私達の対面には二人。制服を着た男の子とスーツに身を包んだ女性。

 男の子の方は、既に顔が真っ青で石像みたいに机を凝視している。けれど横目で私を一瞥すると真っ青だった顔は真っ白に変わっていく。見るからに気が弱そうだ。

 反対に女性の方は、気の強そうな印象だった。何に怒っているのかは定かではないが、不機嫌そうに私達を睨んでくる。

 私達が席に着くと女性は私達、特に私の方を見て睨みつけてきた。

 あぁ、面倒くさくなりそうだ。

「では。よろしいですか?」

「いいえ先生、よろしくありません。まずはお二人から謝罪を頂けませんと話し合いなどする気も起きませんわ」

 ほら、やっぱり。向こうから見れば私の方が悪者らしい。

 まさかの言動に先生すらも驚きの表情を零す。けれど、女性の言論は止まらない。

「救保さんと仰いましたか。謝罪をしてください」

「ふむ、何故でしょう?」

「何故? 何故ですって? 決まっているでしょう、そちらの雪音さんのせいで私の息子は迷惑してるんです。息子は今年国立を受験する予定なんです。貴女達のせいで受験に影響が出たらどう責任とるつもりですか!?」

 女性の言動に思わず溜息が零れる。

 それが気に入らなかったのか、今度は私に向けて癇癪を起こす。

「貴女、今溜息をつきましたね!? 人の人生を無茶苦茶にしておいてどうしてそんな態度がとれるんですか!? 人の心というものを持ち合わせていないんですか!!」

「お母さま、落ち着いて——」

「これが落ち着いていられますか! 息子の成績は学年でもトップだという事は先生もご存じでしょう? そもそも、学校が息子のことをちゃんと見ていてくれたらこんなことにはならなかったはずです!」

 周りの話も聞かないで、母親は更にヒートアップしていく。なんというか、ここまで絵に描いたようなモンスターペアレントは初めて見た。母親の顔なんてもう覚えていないけど、そんな私でもこれを愛情と呼ぶには抵抗がある。けれど、この女性からすればこれは立派な愛情なんだろう。

 滑稽な話だ。

 一方通行な愛情は受け取る側からすれば凶器にしかならない。言葉が刃物になるように、感情だって刃物になるのだ。

 なるほど、これはこの男子が気弱な性格になる訳だ。愛情という刃物で心をズタズタに引き裂かれたのだから仕方がない。

 可哀想だとは思う。そんなに想われて、愛されて、さぞ窮屈な人生だろう。

 でも、それとこれは話が別だ。

「ねぇ、何で貴方は何も言わないの?」

 気になって聞いてみた。

 私の言葉に、私を刺した犯人は体を震わせた。

「これは私と貴方の問題じゃあないの? ならどうしてずっと黙ってるの?」

 続けて言うと、少年の母親は私を物凄い剣幕で喚き始めた。

「貴女、自分の責任を息子に擦り付けるんですか!?」

「刺された側の責任なんて知らないよ。それとも刺されたことを黙って泣き寝入りすることを責任って言うのかな。それなら貴女の言う通りだけど、それならそっちだって刺した側の責任として、自分が刺しましたって大声で言ってよ」

「そ、そういう問題じゃありません!」

「貴女にとってはそうだね。だって、貴女は私を刺してない。だから最初に言ったでしょ、これは私とその子との問題だって」

「っ、何なんですか貴女は!! 貴女が息子をたぶらかしたんでしょ!? そう、きっとそうよ!」

 そこから先はとてもじゃないが聞き取れなかった。理性を投げ捨て、感情のままに喚き散らす母親。その様子はまるで獣のようで、このまま放っておけば私に掴み掛ってきそうな形相だ。

 けれど、そんなのどうだっていい。

「雪音、本質で相手を殴りつけるのは君の悪い癖だ」

 言いながら、椿は少年の母親を宥める為に席を立った。

 悪癖と言われても、先に暴言を吐いてきたのは向こうなんだから仕方がないと思う。

 それに、椿だってよく春介を言い負かして虐めているんだから、彼女に言われる筋合いはない。

 まぁ、取り敢えず母親の方は気にしなくてもいいだろう。椿はああ見えても一応はカウンセラーだ、上手くやってくれる。

 さて、やっと話し合いができる。

「これで貴方の代わりに喋ってくれる母親は居なくなった。今度こそ話してくれる?」

 改めて聞くと、少年はやっぱり体を震わせた。視線は絶えず右往左往して、呼吸は荒くなる。さっきまで比較的マシだった顔色も今はすっかり真っ青だ。

 けれど、彼は拙いながらも口を開いた。

「……すいませんでした」

「それ、何に対しての謝罪?」

「貴女を、刺してしまったことへの……です……」

「私、謝って欲しいなんて言った覚えないけど」

「それでも、ごめんなさい……。これが僕なりの、刺した側としての責任です」

「そ」

 母親がアレだったから心配だったけど、少年の方は話ができる程度にはマシらしい。

 それなら好都合だ。

 私にも聞きたいことがある。というか、本来の目的はそっちだ。言い争いをしに来た訳じゃない。

「単刀直入に聞くね、何で私を刺したの?」

 聞くと、犯人の顔には滝のような汗が流れる。

 ん、聞き方を間違えたかな。

「責めたい訳じゃない。貴方の行動の理由を聞きたいだけ。私に怨みでもあった?」

「怨み、とかは無いです……。そもそも名前も知りませんし……」

 そうだ、思えば自己紹介もしていなかった。けど、今更する必要もないかな。

 私と椿が知りたいのは彼が依頼にどう関係してくるかだ。

「じゃあ、誰かに命令されてやったの?」

「そ、れは……」

 当てずっぽうに言うと、少年は露骨に動揺した。

 顔を伝う汗はさらに酷くなり、呼吸も浅くなる。今にも倒れそうだ。

「誰に命令されたの?」

「い、言いません。言ったら殺されるっ!」

 少年は遂に頭を抱えてしまった。

 悲鳴のような声を上げる彼を見て、母親が半狂乱で喚くが知った事じゃない。

 ふと、誰かのスマホが鳴った。やけに耳につく通知音は私の正面——少年の胸ポケットから聞こえる。

 それが分かると彼はひっ、と短く悲鳴を上げてスマホを放り投げた。

 床に転がったスマホを拾い上げて画面を見ると、広告の通知が出ているだけで誰かから連絡が来ている訳ではなかった。

 でも、なんとなく察しがついた。

「連絡が付くんだ、その犯人と」

 その一言でとうとう少年は恐慌状態に陥ってしまった。

「犯行現場を見たのかは知らないけど、わざわざ傷害事件を起こしてる赤の他人の連絡先なんて知ってるはずもないし、クラスメイトの人間かな。誰?」

「言ったら殺されるって言ったでしょう!? わかんないのかよぉ!」

「言わなくても最後は殺されるよ」

 言いながらスマホを投げ渡す。ただの電子機器だというのに、少年にはそれが恐ろしい凶器にでも見えたのか受け取りもせずに椅子から転げ落ちた。

 それでも、今の彼には痛みすらも感じる暇もないらしく、岩をひっくり返された虫みたいに教室の隅に逃げて頭と膝を抱えて震え始める。

「嫌だ……っ! 死にたくないぃ……」

 そう呟いて閉じこもる彼の腕を私は強引に引っ張り上げた。

「なら、せめて生き残れる可能性を選べば? 今ここで貴方を脅している犯人を正直に言えばその人は捕まるかもしれない。言わないなら誰も貴方を助けない。クラスメイトも先生も貴方のお母さんも、みんな貴方を見殺しにする」

 それでも、少年は顔を伏せたままだった。

 あぁ、いい加減腹が立つ。

 掴んでいた腕を離して、今度は胸倉を掴み上げる。

「自分の人生のなんだから自分で結論出してよ。何今まで自分は何も選んできませんでした、みたいな顔してるの。勘違いしないで、誰かに選んでもらう人生を選んだのは貴方でしょ。なら、自分の生死くらい自分で決めて」

「い、言います! 言いますから、助けてください!」

「良いよ。とは言っても、助けるのは私じゃなくて椿だけど」

「あー、そこは私なんだ」

「だって、適任でしょ?」

「まぁね。良いよ、協力しようじゃないか」

「だってさ、良かったね」

 他人事のように言うと、少年は毒気を抜かれたように口をパクパクさせる。そんな顔をされても私とっては本当に他人事なんだから仕方がない。

「それで、結局誰なの?」

「あ、えっと……。同じ部活の後輩の飢崎愛穂っていう女子です……」

「嘘……」

「ほ、本当です! 見たんです、塾の帰りにあの子が人を襲ってるところを! 刃物で人を斬りつけて、人の肉を喰らってたんです! 体中、顔まで血で真っ赤にして、まるでご馳走を食べるみたいに……。貴女を刺すように脅迫もされた! あいつ、化け物だったんだ!」

 そういう意味で言った訳ではないけど、少年にはそういう意味で聞こえたらしい。

 なんて、馬鹿だ……。

 飢崎愛穂の事を警戒していた筈なのに、注意しておけと言ったのに、私は心のどこかで無責任にも大丈夫だろうと思っていた。

 考えすぎだ、偶然だと、無意識に思っていた。

 近辺調査なんて春介に頼むまでもなかった。


 飢崎愛穂、彼女は——異常者だ。


「その子、今日何処かに行くとか聞いてない?」

「え……?」

「答えて、聞いてない?」

「聞いて、ないですけど……?」

「椿!」

「ダメだ、出ない。GPSを辿ろう」

「わかった」

 言いながら私達はそそくさと教室を後にする。

「ま、待ってください! 話し合いはどうするおつもりですか!?」

「先生、すまないが急用が入った。ただ、こちらは警察沙汰にするつもりは無いから、それだけは安心してくれ」

 椿が言い終わると同時に、私は教室のドアを勢いよく閉めた。

 頭の中を焦りが埋め尽くして、ガンガン鳴り響く。

 口の中は乾くし、嫌な汗が背中を伝う。

 あの馬鹿、死んだら一生恨んでやる。

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