飢崎愛穂1

 パタンと閉じた玄関に背を預けると、自然と大きな溜息が出た。

 スカートのポケットからスマホを取り出すと、ついさっき登録したLINEの連絡先が一番上に出たままになっていた。

 既原春介。

 その四文字を見て思わず顔が綻んだ。真面目で良い人そうだなと、なんとなく思っていたけどLINEのアカウント名が実名な辺り、本当にそうらしい。

 見た感じ、多分一つか二つ年上だろうけど人見知りの私相手でも緊張させない雰囲気の人だった。

 雪音、と呼んでいたあの人とはどんな関係なんだろう。

 友達? それとも彼女? ……どっちでも良いか。

 どちらにしろ、既原さんはきっと優しい人だ。

 そんな人と、日曜日にデートをする。

「デートかぁ……」

 口に出してみると、心の底から実感が湧き上がる。

 同年代の人とお出かけなんて何時ぶりだろうか。

 ふと、子供の頃からの記憶を振り返ってみるけれど、残念なことにそんな思い出なんて一つもなかった。

 いや、そもそも私は家族と何処かへ出かけたことがあっただろうか。

 ……いや。そんな思い出、何処にもない。

 なんでだっけ、いや、なんでってなんで?

 なんで私だけそんな寂しい人生を送らなきゃいけないの?

 お父さんもお母さんもなんで喧嘩するの?

 『愛してる』って何?

 あぁ、ごめんなさい、怒らないで、もうしません。

 良い子になるから、だから——

「……痛い」

 気づけば、手首を噛んでいた。

 かなり力を込めて噛み千切ったのか、手首の肉は小さく抉れて、玄関に小さな血だまりを作っていた。

 綺麗にしなきゃ、お母さんに怒られる。

 もし怒られたら日曜日のデートに行けなくなる。

 そんなの、耐えられない。

 良い子にならなきゃ……。そうすれば、誰か私に優しくしてくれるから。


 ブブッ……。


 不意にスマホが鳴った。見れば、行きつけの病院からのメールだった。

 そういえば、そろそろ薬が無くなる。明後日の検診の時に貰わなきゃ。

 あれが無いと、良い子になれない。

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