既原春介2
「雪音!」
「シッ、静かに」
「先生、雪音は!?」
「落ち着きたまえ、重度の貧血だがそれだけだ。命に別状はないよ」
椿さんの言葉に、安堵からか張り詰めていた糸がぷっつりと切れて病室の床にへたり込む。走ったせいで上がる息を押さえながら白いベッドに視線を向けると、病衣に着替えた雪音が穏やかに寝息を立てていた。それを見て、自然と二回目の溜息が籠れる。
バイトが終わって、自宅で荷物を解きながら欠伸をしていると、いきなり椿さんから、
『雪音が刺された。悪いが病院の住所を送るから直ぐに来てくれ』
たった二言、電話越しにそう言われた。
送られてきた病院の住所は、不幸なことに僕の家から遠かった。電車に乗って、バスに乗って、走ってここに辿り着いた時には時計の短針は既に午後三時を指していた。
つまり僕が診療所を出て、まだ三時間ほどしか経っていない。その間に雪音は刺されたのだ。
「私の責任だな。軽率だったよ、雪音なら大丈夫だと根拠もなく思ってしまっていた」
「……そもそも、何で雪音は刺されたんですか?」
「私の知人から例の殺傷事件の犯人を捜してくれって依頼を受けてね、その調査を雪音に頼んだんだ。まさか、別れてたったの二時間で犯人と接触するとは思いもしなかったよ」
「犯人って、雪音を刺した人と殺傷事件の犯人が同一人物ってことですか……?」
「さぁね。そこに関しては雪音から話を聞かないと分からないね」
さっさと結論付けて溜息を漏らす椿さんは、近場の椅子を手に取って僕の方に寄せる。有難くそれに座らせてもらったところでまた新たな疑問が浮かんだ。
「そういえば、救急車を呼んでくれたのって誰なんですか?」
「あぁ、それなら——ほら」
雪音から視線を外すと、椿さんは病室の壁を目線で指した。それを追いかけるように目を向けると、病室の壁に背を預けるように立っている女の子と目が合った。
高校生だろうか、彼女が着ている緑色のブレザーは都内でも有名な進学校の制服だ。
染めているのか地毛なのか、ボブカットに整えられた茶髪の子だった。瞳はしきりに僕と椿さんと雪音を行き交って、大人しそうな顔には目に見えて緊張が浮かんでいる。
そこまで気づいて、あっ、と声が出た。
「ごめん、今まで気づかなくて……。君が雪音を助けてくれた子、でいいのかな?」
「は、はいっ! 私、その人が倒れてた住宅街に住んでて、部活帰りだったんです!」
女の子は不安そうに胸元で腕を組んで、慌て気味に答えてくれた。
彼女の足下には学生鞄の他に、もう一つ紺色の鞄が転がっていて見た感じ本当に部活帰りだったようだ。
状況がどうであれ、彼女のおかげで雪音は一命を取りとめたんだからお礼はきちんというべきだろう。
「そうだったんだ。僕が言うのもなんだけど。ありがとう。君のおかげで友達が助かったよ」
「い、いいいいいいえ、こちらこそ!?」
「あー、えっと。良ければ何か飲む? お礼にはもの足りないかもしれないけど、そこの自販機で買ってくるよ?」
「おきゅ、お気になさらず! えぇ、大丈夫です!」
「うん、何か買ってくるね」
「春介君、ついでに私のも買ってきてくれ。コーヒーで良い」
「えぇ……。まぁ、いいですけど」
この人は本当にどこまでも周りの人間の扱いが雑だ。
****
とりあえず、受付の近くにあった自販機で飲み物を四本買った。
彼女の好みは分からなかったから、当り障りのないものばかりになってしまったけど、そもそもが病院の自販機。おでんのような変わり種なんてそうそう置いていない。
両手に飲み物を抱えて雪音の病室に戻ると、僕が座っていた椅子にはボブカットの女の子が座っていて、しどろもどろながらも椿さんとお喋りをしていた。
「戻りました。コーヒーこれしかなかったんですけど、いいですか?」
「あぁ、缶コーヒーなんてどれもたいして差が無いから大丈夫だよ」
「そういう敵を作りかねない発言は控えてください、先生……。はい、とりあえず色々買ってきたんだけど、君はどれが良い?」
「あ、えっと、それじゃあお茶で」
少女は緑茶を受け取るとプシュッ、とプルタブを開いて勢いよく飲み始めた。そのまま一息に半分くらい飲み干してから大きく息をつく。どうやらさっきに比べて幾らか緊張はマシになったらしい。
「落ち着いた?」
「はい。あの、ありがとうございます」
「気にしないで、さっきも言ったけどお礼を言いたいのはこっちの方だから。あ、そういえば自己紹介がまだだったね。僕は、既原春介。既存の既に原っぱの原で既原」
「あ、
よろしくおねがいします、とぎこちなく言うと彼女——飢崎さんは顔を伏せて緑茶の缶を両手で握りこんだ。
「すいません。私、その、人見知りで。知らない人と上手く喋れなくて……」
「ゆっくりでいいよ。それで、二人で何の話してたんですか先生?」
「この子が雪音を見つけた状況を詳しく聞いていたんだ。だが、残念ながら犯人は見ていないらしい」
「……すいません」
「大丈夫、仕方ないよ。人が刺されてるところに居合わせるなんて想像もしてなかったろうし、もしかしたら君も襲われていたかもしれない。君は悪くないよ」
「はい……」
精一杯励ましたつもりだったけど、それでも飢崎さんはしゅんとしてしまった。こういう子は気にするな、と言われても自分が納得するまでは気にし続けるタイプだ。
彼女のおかげで雪音が助かったのは事実なんだから、そこを上手く受け止めてほしい。
でも、それはそれとしてだ。
「先生、今回の依頼は……」
「あぁ、これ以上君達を危険に巻き込むことはできない。依頼主には私から話しておくよ。然るべきところに出すべきだとね」
「わかりま——」
「待って」
今まで三人しかいなかった会話に、突如四人目が現れた。
声が聞こえた方へ目をやると、さっきまで眠っていた筈の雪音が僕たちの方を見ていた。
「雪音、気がついた!?」
「声が大きい……」
「大きくもなるよ。雪音こそ、お腹を刺されて何でそんなに冷静なの」
「さぁ、頭に昇るほど血が無いからじゃない?」
「確かに貧血らしいけど、そんな適当な……」
人の心配をよそに、雪音はあっさりと体を起こす。痛む腹部に顔をしかめるけど、それだけ。体を起こした彼女は、壁を背もたれにして横目で飢崎さんを一瞥した。
「……この子は?」
「君を助けてくれた恩人だよ。この子が救急車を呼んでくれなかったら君、本当に死んでたかもしれないんだぞ」
「そっか、ありがとう」
「い、いえ。お気になさらず」
なんてことのない会話。だけど、雪音は一瞬だけ飢崎さんを睨んだ。
あまりに短い時間だったせいで偶々そう見えただけかもしれないけど、そんな疑問を口にする間もなく椿さんが口を開いた。
「さて雪音、待ってくれというからには何か理由があるのかい?」
「うん、せっかく手掛かりと接触できたから断るのはもったいないかなって思って」
椿さんの疑問に、雪音は平静と答えた。
その一言は少なからずこの場の空気を緊張させる。
「……というと?」
「私を刺した人、顔は見てないけど高校生みたいだったよ。丁度その子が着てるのと同じ制服だった」
緊張の度合いが一気に増して、飢崎さんの表情が驚きに染まった。
無理もない。自分の知り合いが人を刺したかもしれないなんて驚きもするだろうし、それ以上に怖い筈だ。
そんな彼女の表情を横目で見ながら、椿さんは雪音への質問を続ける。
「間違いないかい?」
「うん、間違えてたら今月の給料なしでいいよ」
「ほぉ、そこまで自信があるときたか。なら、私の方でも調べてみよう。高校の所在さえ分かれば後は芋づる式だろう。雪音は一見大丈夫だが、今日はここに入院するように。春介君は飢崎ちゃんを送ってやってくれ。交通費は後で払うよ」
「分かりました」
「そんな、悪いです!」
勢いよく立ち上がる飢崎さんを横目に、椿さんは構わないよ、と缶コーヒーを飲み干して空き缶を投げ捨てる。
「何度も言うが、君は私の友人の恩人だ。そんな人を無下に扱うのは私としても心苦しい。大人しく受け取っておきたまえ」
有無を言わせない椿さんの言動に、飢崎さんはやはり顔を伏せながらはい、と呟いた。
言葉使いこそ乱暴気味だけど、この人にも人並みの情はあるんだなと思ってしまう。普段が普段故に、こういう椿さんは何だか新鮮だ。
「春介君、何か言いたげだね?」
「い、いいえ、何でもないです。僕、飢崎さんを送ってきますね!」
「あぁ、くれぐれもよろしく頼むよ」
「じゃあ行こうか飢崎さん。丁度バスに間に合うからから、それに乗ろうか」
「は、はい! ありがとうございます」
お礼を言うと、飢崎さんはパタパタと自分の荷物を持った。こういう時さりげなく持ってあげるのか正解なんだろうかと考えてみるけど、多分どれだけ考えても答えは出ないだろう。
彼女を先に病室から出して雪音の方へ振り返ると、なにやら怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。
それが飼い主を取られた猫のように見えてしまって、苦笑いが零れる。
「じゃあ、雪音。また明日昼頃に迎えに来るよ。何か欲しいものがあったら連絡して」
「はいはい、じゃあね」
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