喰藤雪音2

 話し声とドアが閉まる音がしたので、仕方なく起きることにした。

 頭はまだボーっとするけど、何となく惰眠を貪る気にはなれない。それに、蛍光灯の灯りのせいで目がはっきりしてしまった。

 そうやって無理やり理由付けをしないと行動を起こさないあたり、ほんと我ながら面倒くさい生き物だと思う。

 診察用のベットから体を起こすと、いつの間にか被っていた毛布がはらりと落ちた。多分、春介が掛けてくれたのだろう。

「二度目のおはようだね雪音。といってももうお昼だけど」

「ん、ふぁ……。今何時……?」

「十二時十七分。お昼にはちょうど良い時間だね」

 なんだかんだで四時間は眠ったらしい。

「……春介は?」

「彼ならたった今帰ったよ。今日はこれ以上患者も来ないだろうし、事務仕事だけしてもらった。今ならまだ追い付けると思うよ」

「いい、私も帰るから」

「あぁ、それについてはちょっと待ってくれ。君に頼みたい仕事がある」

「殺傷事件のことでしょ、絶対嫌」

「そうか、それじゃあ君に払う給料は私の酒代になっても良い訳だ」

「この飲んだくれ……。ていうかいつも思うけど、椿ってどうやってお金稼いでるの?」

「前にも言ったろ、私の友人は善意が服を着て歩いている人ばかりだと。彼らに頼めば君らの給料くらい融通してくれるよ」

「この人でなし」

「そして、珍しいことにこの仕事はその友人たちの一人からの依頼でね。この手の仕事はあんまり受けたくないんだが、ツケを引き合いに出されては断れなかったよ」

「本当にろくでなしじゃん」

 きっと椿の言う友人達とは、彼女にどうしようもない弱みを握られた人達のことだ。

 私の嘆息を背に受けながら、彼女は自分の机から資料の束を寄越す。本当に嫌なので受け取らずに資料を暫く睨みつけると、無理やり私の顔に紙の束を押し付けた。

 こうなってしまったらもう断れない。

「はぁ……わかった。わかったから、それやめて」

「ふふっ、私は君のそういうところが可愛いと思っているよ」

「どーも」

 イラつき半分で資料をふんだくる。でも、読む気なんてさらさらない。単にこれで顔をツンツンされるのが鬱陶しかっただけ。

 椿もそれを分かっていたのか、何でもない風に語りだす。

「依頼の内容は事件の犯人の調査だ。依頼主は犯人に心当たりがあるようだが、その人物の名前までは分からないと言われたよ。十中八九、隠しているね。話の内容からしても警察に突き出したくはないらしい。可能ならば保護をしてくれと言われたよ」

「もし抵抗されたら?」

「抵抗の度合いにもよるが、こちらの命に関わるようなら容赦は要らない、とさ」

「そ、じゃあ頑張って保護するね」

「あぁ、私としても友人が一般人を手に掛けるのは御免だ」

 冷たくなった紅茶のペットボトルの蓋を開けながら、椿は続ける。

「その資料はここに来た患者から聞いた話をまとめたものでね。調べた結果、例の殺傷事件と関連性があった。流石に犯人の名前までは分からなかったが、君なら問題ないだろう」

「また私任せ?」

「私と一緒に監視カメラの映像や証言を集めて地道に探すかい? 私はそれでも構わないけど、君の嗅覚の方が頼りになる」

 にべもない反論。このヤブ医者は人が嫌いなことを嫌いだと知ってて正論をぶつけてくる。それも心底楽しそうにやるのだから余計に質が悪い。

 本当、椿のこういうところは嫌いだ。

「事件が起きた場所は資料にまとめてあるから、興味があれば見てみると良い」

「いらない。私なら問題ないって言ったのは椿でしょ。それに、この人は間違いなく異常者。ならきっと、匂いで分かるよ」

 資料をベッドに投げ捨てて、軽く身だしなみを整える。

 付き合い始めて四年目だけど、未だにこんな仕事に何の意味があるのか理解できない。殺傷事件の調査なんて警察や探偵に任せれば良い。犯人の思惑がどうであれ、私みたいな一般人には遠い世界の話だ。

 私は、普通に暮らしたい。

「そう面倒くさがらないでくれ。これも、君の治療の一環さ」

「それ、ずっと言ってるけどいつ終わるの?」

「さぁね、君次第さ。君の心の奥にある腫瘍がいつ取れるのかなんて誰にも分からないよ」

「人を重病人みたいに言って……」

「私からすれば君はどんな患者よりも重病人だよ。君だって、一生その怪物と過ごす気は無いだろう? だから、まぁ、張り切って治してくれ」

「……気分次第かな」

 医者の言葉を受け流して、私は診察室のドアに手を掛けた。


 ****


 診療所を出た後、特に用事もなかったので仕方なく仕事をこなすことにした。とはいえ、椿が作った資料は置いてきているから散歩のついでだ。

 三年前、病院を退院してからというもの散歩の頻度が激的に増えた。元から趣味らしい趣味も無かったのもあるが、私自身どうもこうやって当ても無く彷徨うのが好きらしい。

 糸の切れた風船みたいに、ふらふらと歩く。

 お昼時ということもあり、街は多くの人が出歩いていた。大半は昼休み中のサラリーマンで、中には春休み中の学生もいる。何とも日常的な光景だった。

 真昼の込み入った歩道をできるだけ端に寄って歩くと、色んな人とすれ違った。すれ違うと、色んな匂いがした。

 香水、整髪料、柔軟剤、汗。そして、それに交じった人の匂い。

 人は自分でも気づかないうちに匂いを出している。体臭だとかの生理的なものじゃなく、その人の心の匂い。

 心の匂いは大きく分けて二つと思う。善意の匂いと悪意の匂い。

 善意の匂いは私には分からない。私に分かるのは悪意だけ。

 椿が私を病人扱いするのは、多分この体質のせいだ。人の心の内、悪意だけを拾い上げる私の嗅覚は医者からすれば病気に見えるらしい。

 私も私でこの体質は嫌いだ。こんなモノを持っていたって得する事なんて何一つない。こんなモノが無くたって、この世に悪意を持たない人間が居ないなんて誰もが知っていることだ。

 悪人はもとより、善人だってそうだ。心に悪意を持たない人間は、自分の善意にすら気づけない。黒が無ければ白が分からなくなるように、悪意と善意は表裏一体なのだから。

 ふと、嗅いだことのない匂いとすれ違った。それに足を止めて振り返るが、匂いは直ぐに紛れて分からなくなる。

「あぁ、居た」

 既に感じない匂いを記憶に刷り込んで、私は来た道を引き返すように歩き出す。

 人混みに流されないように、もう一度あの匂いを探るように。

 椿の言っていた通り、私の感覚も存外馬鹿にできない。

 でも、それと同時に湧き上がる疑問。


 ——異常者の匂いが分かる一般人は、果たして一般人と呼べるのか。


 その答えは、後で椿の言う私の心に巣食う腫瘍にでも聞いてみよう。

 今はただ、焦りにも似た不安と高揚感に身を任せて歩くだけ。


 ****


 日が傾いた。

 大通りに蔓延っていた人の群れはすっかり消え失せ、私の周りは幾ばくか風通しが良くなった。

「見失ったかな……」

 匂いを追いかけて二時間ほど歩いた気がする。けれど、最初にすれ違って以来あの匂いはもう他の匂いに紛れてしまった。悪意にだけは敏感に反応する私の嗅覚でも、これ以上の追跡は無理だろう。

 いつの間にか迷い込んでいた住宅街沿いの脇道を引き返す。

 正面から吹く風はさっきまでとはまた違う匂いを運んでくる。

 正確にはあの時、私は悪意の匂いを嗅いでいない。匂いがしなかったから態々追いかけたのだ。

 私の嗅覚に引っかからないという事は、その人には一欠けらの悪意も無いという事。

 そんなの、人間としておかしい。

 自分の善意に気づけない人間は案外多くいる。良い例を出すなら春介が近いかもしれない。

 彼は自分の行いに一々善悪を付けたりはしない。無自覚に良い事をして、無自覚に周りから評価される。

 でも、自分の悪意に気づけない人間は殆ど居ない。悪意という言葉の意味を知らない子供ならともかく、ある程度成長すれば人は善悪の区別はつくようになる。それができない人間は得てして世間から浮いて、異常者扱いされる。

 さっきの匂いの主はその例に当てはまらない例外だ。上手く隠しているのか、本当に無自覚なのかは知らないけど、悪意の匂いが全くしなかった。

 でも、きっと匂いの主はそのことを気にもしていないだろう。

 だって、私の鼻の奥には今も血の臭いがこびりついている。あれだけ濃い匂いだ、私以外にも近くに居た人は嗅いだかもしれない。

 それを追えば犯人の顔くらいは分かるかと思ったけど、犬みたいに上手くはいかないようだ。

 正体不明の不安も、獲物を追うような高揚感も既に心から消え去った。

 今日はもう帰ろうか、と脇道から出る一歩前。

 強烈な悪意が私の後ろから匂った。

 振り向くと同時に腹部に軽い衝撃。それに押される様に二歩、三歩と脇道から外れると腹部から全身を焦がすような熱が走った。

「——ぃ、」

 目で確認するよりも早く、脳が知覚する。

 私、刺されたんだ。

 自覚すると、熱は痛みとなって膝を曲げさせる。日向のアスファルトに座り込む私を誰かが見下ろしていた。

 でも、それはなぜか焦っているようで息遣いが私よりも激しい。

 それが気になって顔を上げると、掠れた悲鳴と共に住宅街の脇道へと走っていく誰かが見えた。

 どこかの高校の制服を着た、男子だろうか。

 そこまで分かって、体は勝手にアスファルトに倒れこんだ。

 あぁ、そうだった。暢気に観察ばかりしていたけど、私、刺されたんだ……。

 視線を動かすと、脇腹あたりに刺さっているナイフが見えた。それを伝って地面に広がる血だまりはどんどん大きくなって、その分私の体からは温度が抜けていく。

「大丈夫ですか!?」

 誰かの声が聞こえる。でも、それを確認するよりも早く私の意識は切れてしまった。

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