5-2
「素敵!」
一目見た途端にルナが目をキラキラさせた通り、ユーフェインの温泉街は圧巻だった。
高級感漂う旅館が軒を連ね、そこかしこから出た温泉の湯気が街に漂っており、絵巻物に描かれたかのような幻想的な風景を作り上げている。俺も日本でいくつかの温泉地を訪れたことがあるが、それらと比べても遜色のない素晴らしい景色だと感じた。
俺たちが泊まることになったのは、この温泉街の一番奥にあり最も長い歴史を誇る宿、由布楼(ユーフロウ)だ。由布楼は赤い瓦屋根が特徴的な三階建ての木造建築で、大きな寺のような外観をしていた。
門をくぐるとすぐに和服姿の仲居さんが出迎え、部屋へと案内してくれた。
一瞬、ルナと相部屋かもしれないという謎の妄想が脳内を駆け巡ったが、当然そんなことはなくルドルフと相部屋だった。部屋といってももはや一つの住居なのではないかというほどの広さで、四季を感じられる日本庭園風の中庭まで備えた豪華な造りだった。
プルーフも男の一人ということで、俺とルドルフの部屋の中庭と繋がっている大きな露天風呂付の厩舎に通された。プルーフは温泉が気に入ったらしく、すぐに湯につかり、気持ちよさそうに泳いでいた。
俺はそんな愛馬の様子を見ながらウェルカムドリンクとして出された抹茶とお茶菓子を楽しんだ。こうしていると日本に帰ってきたのではないかという錯覚に陥りそうだ。
部屋で少し落ち着いた後、ルドルフはロビーに併設されたバーに行くと告げると、さっさと出て行ってしまった。相変わらずのマイペースぶりだが彼らしい。一人残された形になった俺は、せっかくだから温泉を満喫しようと大浴場へ向かうことにした。
大浴場は大きな内湯と自然豊かな露天風呂が楽しめる立派なものだった。
まだ早い時間だからか他に人の姿はない。早速洗い場で体を洗い、内湯につかる。お湯は乳白色でぬるりとした肌触りで体に良さそうな感じがする。そう言えばルナが疲労回復に効果があると言っていた気がする。
内湯でほどよく体を温めたら、いよいよ露天風呂だ。戸を開けて外に出ると周りに植えられた淡い色の桜の花が美しく咲いていた。馴染みのある花を見て一層日本への郷愁を覚える。
「あぁー」
露天風呂につかると思わずおっさん臭い声が出た。
外の肌寒さと温かいお湯が相まって本当に心地よい。自分で選んだわけではないが、来てよかったなと思う。
俺がのんびりと露天風呂を満喫していると、風呂の中ほどにある大きな岩の向こうから突然パシャリという水音が聞こえた。
先客がいたのかと思ってそちらを振り向くと、岩陰から人がぬっと現れたところだった。
「おや。誰かと思えばフーマじゃないか」
そこにいたのは以前パレードリングで出会ったジョッキー、『北の天才』ことユーリ・ラフマニノフだった。
「久しぶりだね! また会えてうれしいよ」
ユーリは湯につかったままいそいそとこちらに近づいて来た。
お湯に濡れても変わらない端正な顔には、前に会った時と同じ爽やかな笑みを浮かべている。
「ああ。久しぶりだな」
俺からすればユーリは一回すれ違っただけの関係だ。それなのにこんなに親しげに接してくるユーリはやはり自分とは全く違うタイプの人間なのだろう。
「半年、いやそれ以上ぶりくらいかな。すぐにレースで再会できると思っていたけど、意外と同じレースに出ないものだね」
「そうだな。でもまあレースも大陸中で行われてるんだからそんなもんだろ」
こちらとしては別に再会したいわけでもなかったので適当に応じる。
「レース選択はトレーナーの采配次第だから、お互いの指揮官の方向性が違ったのかな。でも、僕はダービーを目指していればいずれ必ずフーマと出会うだろうと思ってたけどね。そして今日それが現実になったわけだ」
ユーリはそう言ってにこりと笑った。
サムズアップでもしそうな表情だが、何がそんなにうれしいのかよくわからない。
「……その言い方だと、やっぱりユーリもホットスプリングステークスに出るのか?」
俺は愚問とわかりつつも確認せずにはいられなかった。
ライバルとなるユニコーンダービーの出走有力馬を調べる中で、ユーリの名前も出てきていた。それも全戦全勝にしてトライアルポイント最多獲得の超有力馬、アダマンタイトのジョッキーとして。あのパレードリングで別れた後、ユーリは銀の森のエレナ・ディアーナ嬢を見事射止めていたのだ。
ユニコーンダービー出走に向けて今回のレースを落とせない俺たちにとって、ユーリとアダマンタイトの存在は大きな脅威となる。できればダービーまで彼らと当たりたくなかったのだが……。
「もちろんだよ。ホットスプリングステークスは招待制だからね」
「まあ……。そりゃそうか。この忙しい時期に観光のためには来ないよな」
「観光のためだけにでも十分来る価値のある場所だけど、僕もジョッキーだからね。当然、レースが第一さ」
「さすが天才ジョッキーは言うことが違うね。……まあでも、アダマンタイトはもはやダービー出走は確定だもんな。ここは次の本番に向けての叩き台って感じだろ?」
俺は世間話を装ってカマをかけてみた。
実際、トライアルポイントだけを考えればアダマンタイト陣営としては今回のレースに勝つ必要はない。ポイントが与えられる三着以内に入れなくてもボーダーラインを優に超えているからだ。本番のダービーに向けての試走、コンディションを整えるための出走ということも大いにあり得る。ウチのチームにとってはそうであることが望ましい。
「いや。僕らとしてはそういうつもりじゃないよ。このレースでも全力で勝ちにいく」
ユーリは真面目な顔できっぱりと言い切った。
上位を目指すどころか一着を獲りにいくという堂々たる宣言だ。
「な、なんでだよ? ポイントには余裕あるだろ?」
勝ちに行くレースをするにはそのためにユニコーンの身体をしっかり鍛え上げなければいけない。だがそれをすると無事トライアルで勝てても本番のときに調子落ちするリスクもある。本番に体調のピークを持っていくためにトライアルでは全力を出させない、というのは日本競馬でもよくある手法だ。
「僕らにとってはポイントの問題じゃないんだよ。アダマンタイトは間違いなく歴史に名を残す名馬になる。それくらい特別な存在だって、乗っているからこそわかるんだ。そんな彼の戦績に一つでも傷をつけたくないからね。僕らのチームは常に一着を確保できるよう万全を期している。今までもこれからもアダマンタイトに負けはないよ」
「……っ!」
何という自信だろう。正に王者の貫禄だ。
俺だってプルーフの力と可能性を信じている。だが今のユーリほどの自信は持てないし、事実すでに二回も負けてしまっている。
レースに向かう前の段階で何か大きな力の差を見せつけられた気がして俺は内心でおののいたが、それと同時にそのことを死ぬほど悔しく、情けなく思った。まだレースは始まってもいないというのに、気持ちで負けていては勝てるものも勝てない。
「はん!」
自分を奮い立たせるようにわざと大きな声を出す。
「なら残念だったな。今回俺たちと当たったのが運の尽きだ。言っておくがプルーフは今までお前らが戦ってきた相手とは違う。必ずダービーを勝つユニコーンだからな。しかもうちのチームは癖が強いやつばかりだが優秀なスタッフが揃ってる。温泉気分に浮かれて油断しないことだな」
かなりの虚勢だったが、俺は何とか余裕の笑みを作って応じて見せた。
「肝に銘じておくよ。まあ、元から君たちのチームが最大のライバルだとは思っていたけどね」
「何?」
意外な反応だった。
ヴェロニカが言っていた通り、芦毛のユニコーンはあまり血統が良くないとされているから、てっきりユーリもこちらを相手にしていないと思っていたのだが……。
「そんなにおかしいかい? 君たちに注目しているのは僕だけじゃないと思うけどね」
「そうなのか?」
「そうさ。なんて言っても君のチームはタレント揃いだからね。ルドルフ・ワーグナー氏は三十年前の魔界戦争の英雄だし、ヘカテ氏は大陸内ではまずお目にかかれなくなった希少なフェアリー族だ。マリア・パガニーニ氏は十五年前に史上最年少でユニコーンダービーを勝った元天才ジョッキーだしね」
「そうだったのか……」
マリアが元ジョッキーだというのには正直驚いた。そんなことは一度も本人の口から聞いたことがない。しかも史上最年少でダービー制覇とは……。ユーリの言う通り確かに天才と呼ばれるだろう。
「そして、オーナーがあのルナ嬢。彼女も大陸の一部では有名人だ」
「……お前もルナの過去のこと、知っているのか?」
「僕の出身は北部。ムドレスト共和国だよ。そう言えば伝わるかな?」
「……ルナのことを憎んでいるのか?」
「そんな怖い顔しないでくれ。僕は別に怨みを持っていたりはしないよ。複雑な気持ちではあるけどね」
「そうか……」
「まあ、そんなわけで君たちチームプルーフは巷じゃ結構話題なのさ。そうじゃなきゃ今回のレースにだって招待されていないと思うよ」
「……ふーん」
今までレースに精一杯だったから、自分たちがこの世界の住人たちからどう思われているのかを気にしたことはなかった。ユーリの言葉を信じるなら、好意的かどうかはわからないが興味は持たれているようだ。
「つまり芦毛のユニコーンなのに有名人がたくさん関わっている珍妙なチームって感じなのか」
俺は皮肉くったが、ユーリは真面目な顔で返してきた。
「世間ではそう評価する人も少なからずいるかもしれないけど、僕個人としてはプルーフの潜在能力にも注目しているよ」
「え?」
「僕の出身はムドレストだって言ったろ? 当然、かつて最強と言われた『偉大なる銀(グレート・シルバー)』の伝説を聞いて育ってる。『エクセリオン』は今でも北部ユニコーンレース界の誇りなんだ。その血を引くプルーフがどんなレースをするのか、っていうのは一ファンとしては気になるところさ」
「プルーフが『エクセリオン』の血を引いていることも知っているとはな。意外とリサーチしてるじゃないか」
「北部の人間なら血統表を見ればすぐ気づくよ。それに元々僕がダスクシティのパレードリングに参加したのはプルーフとルナ嬢との契約を検討するためだったからね」
「何!?」
全く予想していなかった言葉が飛び出してきた。それではあの時俺がアダマンタイトのことを勧めなかったら、ルナと契約していたのはユーリだったかもしれないのか。
「僕の中ではそれだけ『エクセリオン』は憧れの存在ってことさ。でも、そこでアダマンタイトに出会うんだから不思議だよね。今ではアダマンタイトは『エクセリオン』にも劣らない、新しい伝説を作っていけるユニコーンだって信じているけどね。だから例えプルーフが相手だろうと容赦はしないよ」
そう言ってユーリは不敵に微笑んだ。
それは初めて見たユーリの勝負師としての顔だった。
「はん! こっちだって遠慮はしないぜ。伝説の血の力を見せつけてやるよ」
「言ってくれるね。明後日のレースがより楽しみになってきたよ。……ところでフーマ。ちょっと暑くなってきてないかい? よかったらそろそろ風呂を出て一緒にバーでよく冷えたカクテルでも飲もう」
ユーリは風呂につかりながら、手ぬぐいで額の汗を拭う仕草をした。
話に花が咲いていつの間にか長風呂になっていたようだ。
待てよ……?
明らかに暑そうな表情のユーリを見て、俺の中でいたずら心が急に鎌首をもたげた。
ひょっとしてこれはユーリに一泡吹かせるチャンスかもしれない。正直なところ日本で生まれ育った俺にとってはもう少し風呂につかっていられるくらいの余裕がある。こんなところで勝負しても仕方ないが、完全無欠のこの男に何か一つでも勝って自信をつけておきたい。
「そうか? 俺はまだまだ暑くないけどな。俺の故郷では毎日風呂に入るのが当たり前なんでね。ユーリは風呂ってものに慣れてないんだから仕方ないさ。でもまあ、未来の史上最強馬のジョッキーでも弱点があるもんなんだな」
「む」
明らかな挑発にユーリは珍しく眉をひそめた。
「僕もまだ大丈夫だよ。君が風呂に慣れているというのは知らなかったから気遣ってみただけさ。お互いもう少しこの素晴らしい露天風呂を満喫しようか」
「いいね。じゃあどうせだから、どっちが長くつかっていられるか勝負といこう。先に風呂から出た方が負けだ」
「……いいよ。勝負しよう」
よし! かかった!
俺は内心でにんまりした。さっきまであんなに暑そうな様子だったユーリだ。五分も持たないだろう。この競技(?)ならこいつを負かすことができる。
しかし、俺はすぐにその見通しが甘かったことを思い知らされた。
すぐに音をあげると思っていたユーリは予想に反し、凄まじい粘りを見せて来た。顔も含めた白い肌が真っ赤になっているのにも関わらず、唇を一文字に結んで耐え忍んでいる。
これが天才ジョッキーの根性というものだろうか。こんなところで意地を張るのが天才とは思えないが、こちらから仕掛けた以上こちらも簡単に負けを認められない。
そうこうする内に陽が傾いてきた。既に勝負し始めてから三十分以上経っているのではないだろうか。俺の方もそろそろ倒れるのはないかと思えるほど限界に近づいている。
「……かなり頑張るじゃないか。ユーリ」
「フーマもなかなかやるものだね」
お互い顔を見合わせてにやりと笑う。
極めて静かな戦いだが、まるで殴り合った後かのような男の青春の一ページだ。
「さすがにここら辺で切り上げて引き分けにするか。湯あたりして本番のレースに支障をきたしたら本末転倒だ」
「……オーケー。引き分けにしよう」
俺の提案にユーリは素直に頷いた。やはり相当辛かったらしい。
二人同時に湯から上がり、露天風呂に併設されたベンチに腰掛けて涼む。
満開に花開いている桜には、見慣れない鮮やかな色の鳥が止まり、高い声で鳴きながら枝から枝へと飛び移っている。穏やかな夕陽に照らされた庭は春の風情に包まれていた。
「……驚いたよ。フーマは熱さに強いんだね」
「言ったろ。俺の故郷じゃ毎日風呂に入るんだ。それにこういう温泉もそこら中にある」
「そうか。僕の故郷では温泉じゃなくてサウナがあってね。サウナでの我慢対決ならもっと自信あるんだけどな」
こいつまだ言うか……。
「へえ。この旅館にもサウナ施設あるらしいけどな」
「え? そうなのかい?」
ルナがサウナに入りたいからという理由でこの宿にしたはずなので間違いないはずだ。ここのサウナは男女入れ替え制だが、確か十六時からは男性利用の時間帯だと言っていた。風呂つかり対決で時間を消費した分、ちょうどいいタイミングになっている。
「じゃあサウナで決着をつけるっていうのはどうかな?」
ユーリはにこりと笑って提案してきた。
随分自信あり気な表情だが、俺もここで引くような性分ではない。
「望むところだ。言っておくが俺もサウナには慣れてるぞ」
日本の競馬場にはジョッキーがレース前日に心身を整えるための調整ルームという施設があり、そこにサウナも入っているのだ。俺も体重調整のためによく利用していた。
「ならいい勝負になりそうだね。しっかり給水してから挑むとしよう」
二人は一度更衣室に戻り、たっぷり水分を補給すると、内湯の横にあったサウナと書かれた扉を開けた。
「ん? 外に繋がっているぞこのドア」
「あそこにあるのがサウナじゃないかな」
ユーリが指差した方を見ると、三十メートルほど先に木造の小屋が建っていた。
「ムドレストだとあんな感じのサウナ小屋がよくあるんだ」
「なるほどな」
言われてみると小屋の屋根には煙突があり、湯気らしきものが立ち上っている。
「じゃあ、お先に失礼!」
ユーリは突然そう言い捨てると、用意されていた草履をつっかけて玉砂利が敷き詰められた通路を走り出した。
「な、おい!」
「これも勝負のうちさ!」
子供かよ、と思いつつ、勝負と言われると勝ちたくなる。
俺もすぐさま後を追ったが、結果的にはそんなに焦る必要はなかった。ユーリは思った以上に足が遅く、あっさりと追い抜いてしまったからだ。
「へん! お前自身の足は大したことないな」
「言わせておけば!」
ユーリは突然草履を脱いで裸足で走り出した。さっきより遥かに速くなったものの、結局中盤のリードが大きく、俺は余裕で小屋に辿り着いた。
「この勝負は俺の勝ちだな」
俺はユーリを振り返りながら小屋の扉に手をかけ、スッと開けた。
「ん? あれ、ちょっと待った、フーマ!」
突然立ち止まったユーリを不思議に思いながら中を覗くと、小屋の中のバスタオルで頭を拭いている人物と目が合った。
「!!!」
風呂だから当然なのだが相手は裸だった。しかし俺の想定と大きく異なり、その胸が淡く膨らんでいたのだ。
しかも、その人物は銀髪に青い瞳のエルフの少女――ルナだった。
あまりの事態に二人は時が止まったかのように固まったが、先に我に返ったのはルナの方だった。
「キャアァッッーーーーー!!」
耳をつんざくような悲鳴を上げながら手にしたバスタオルをこちらに向かって投げつける。
続いてシャンプーやらコンディショナーやら様々なアメニティが雨のように乱れ飛んでくる。
「イタっ! ご、ごめん! アタッ! わ、悪気はないんだ!」
この状況にすっかり混乱してしまった俺は彼女の姿を見ないように目を覆いながら弁明したが、小屋の扉を閉めることを忘れていた。そしてそのことが致命的となる。
「フ、フーマのエッチ! スケベ!! 変態っ!!」
好きな女の子から絶対に言われたくない言葉に打ちのめされた瞬間、俺の額に木の桶が直撃した。
「スコーン!」という軽快な音が小屋に響き渡る。
俺は仰向けに倒れ込みながら、朦朧とした頭でイイ音するなぁと思いつつ気を失った。
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