2-3
帰って来た。
スタート地点前でプルーフにウォーミングアップをさせながら、俺はそんな郷愁めいた思いを感じた。
手綱と鞍を通して感じる蹄が大地を踏みしめる感触。馬たちの「ブルルッ」という鼻息と、鼻孔をくすぐる足元の芝の青いにおい。そして、これから競い合うジョッキーたちの醸し出す張り詰めた空気。
自分の感覚ではダービーに乗ったのは数日前だが、不思議と長らくこのレースの世界から離れていたように感じる。あの時から色々なことが一気に起こり過ぎたせいかもしれない。このミッドランドという世界のことは未だによくわからず、不安がないと言えば嘘になるが、レースに集中すれば他のことは忘れられる。
周りにはこの競走に参加する人馬たちが計十五騎集まっていた。皆、一様に押し黙ってスタートの時を待っている。さすがのヴェロニカも本番を前にしているからか突っかかってくることもなく、おかげで静かなひと時を過ごすことができた。
ほどなく開催者と思われるタキシードを着た人物が現れ、スタートラインへの整列を指示した。
ジョッキー登録する際に学んだことだが、この世界のスタートのやり方は日本とはかなり異なっている。日本では電気で動くゲートという機械に馬を入れ、自動で扉が開くことによってレースが始まる方式なのだが、こちらではあらかじめ決められた番号が書かれた芝の上にユニコーンを立たせる形だ。これでは勝手に馬が走り出してしまいそうだが、それを防ぐために半透明の青白いオーロラのような幕がスタートラインに張られている。この幕が消えることによってスタートとなるわけだ。
どういう仕掛けになっているのか皆目見当がつかないが、きっと魔法で編まれた幕なのだろう。いかにもファンタジー世界らしい仕組みだが、理にはかなっている。
俺とプルーフの番号は八番だ。指定された位置に納まると、隣の七番にヴェロニカとブラックロータスが並んできた。
「ぶっちぎって差し上げますわ」
ヴェロニカは俺にしか聞こえないくらいの小声で挑発してきた。
「前にも言ったが、走るまで結果がわからないのがレースだ」
こちらもやり返したが、ヴェロニカは不敵に笑っただけですぐに前を向いて集中した。
強敵がすぐ隣にいるのはやりづらいが決まったことは仕方がない。自分も心を無にして精神統一する。
十五頭全てのユニコーンが指定場所に納まるとすぐに青白い幕がスっと消え、レースの開幕が告げられた。
直後、全馬が一斉に飛び出した。デビュー戦らしくほとんどの馬がもたつき気味のスタートになる中、一頭だけ滑らかに加速していくユニコーンがいた。
黒い雄大な馬格を誇るブラックロータスだ。
ブラックロータスは安定した走りであっさり先頭に立つと、緩やかに内に切り込みコースの内ラチ(内周の柵)沿いの進路を確保した。ヴェロニカが自慢する通り、優秀なユニコーンのようだ。
一方でプルーフは他の馬たちの中でも最も遅いスタートを切り、出遅れのような形で最後方を進んでいた。
スタートのタイミングがずれたわけではないのだが、少々加速が緩い感じだ。跨った時から感じてはいたが、プルーフはマイペースでのんびりとした性格のようなので、それが影響しているのかもしれない。
しかし、まだまだレースは始まったばかりであり、ここで悲観する必要はない。
今回のレースは左回りの千八〇〇メートル戦だ。この競馬場は一周千六〇〇メートルの周回コースなので、直線でスタートし、一周してから最後の直線を走り切ったところがゴールとなる。直線の長さは約三〇〇メートルあるから、第一コーナーまでの間にゆっくり内に入っていけば距離ロスを抑えられる。
俺はプルーフを無理に急かすことはせず、かといって手綱を緩めることもせず、他の馬たちから離されないような速度で最内に納まらせて第一コーナーを迎えた。
これまでの所、ユニコーンとサラブレッドにおけるレース内容の差異は特に感じていないが、おそらく終盤でそれを実感することになるのだろう。なぜならユニコーンには『タキオンブースト』と呼ばれる特殊能力があるからだ。
『タキオンブースト』は一言で言えば、魔力を使用した超加速だ。
ユニコーンは体内に魔力を有しているのだが、体力に加えてこの魔力を四肢に込めることで筋力を増強し、爆発的な推進力を得るという仕組みらしい。この『タキオンブースト』を行ったときに消費した魔力の残滓を角から放出するようになっており、その際に出る光の粒子が輝くことから『光の加速』とも呼ばれるそうだ。
『この子の脚は一瞬だが、凄まじいものを持っている』
マリアがくれたアドバイスは、プルーフの『タキオンブースト』が強力である一方、持続力がないということを意味しているのだろう。そうなると脚を使うタイミングは第四コーナーから立ち上がった最後の直線しかない。それまでにプルーフに負荷をかけず、先頭を射程圏内に入れる必要がある。
そんな作戦を頭の片隅で組み立てながら騎乗しているうちに、レースは中盤に差し掛かり、第二コーナーを抜けて向こう正面の直線に入っていった。
先頭は相変わらずヴェロニカとブラックロータスだ。悠然とした走りで直線を突き進む。彼らから一馬身(馬の体一頭分)離れた二番手集団に八頭が固まり、そこから二馬身ほどの差で後方集団の五頭が続き、最後にプルーフという状態だ。馬群が一団となっている展開だから殿からでも差し切れる可能性は十分にある。
向こう正面でも隊列は変わらず、第三コーナーまで淡々とした流れで過ぎていったが、第四コーナーに入るあたりでレースが大きく動いた。
「さあ、行きますわよ!」
よく通るヴェロニカの声が前の方から聞こえてきた直後、先を往くブラックロータスが一気に加速した。
『タキオンブースト』を使ったのだ。
ブラックロータスの走りが見違えるように変わる。今までも十分速かったが、より力強く、鋭い動きになった。それと同時に角から青白い光の粒が放たれ風に乗って流れてくる。
このコースは最後の直線が短いから、早めにスパートをかけるのはセオリーだが、先頭でコーナーを走りながら、というのは相当な自信がないとできない。下手をすれば直線半ばで失速する恐れがあるからだ。それでも、大きな角を持つブラックロータスだからこそヴェロニカは仕掛けたのだろう。
魔力を消費する際に角から残滓を放出するという構造になっている関係上、ユニコーンの角の大きさはその個体が秘める魔力量に比例すると考えられている。魔力量が多ければ長く『タキオンブースト』を持続できるということになる。パレードリングで角の大きさが重要視されるのはそのためだ。
ブラックロータスはぐんぐんと加速し、二番手集団を引き離していく。それを見て他のジョッキーたちも負けじと『タキオンブースト』を使い始める。青白い粒子が一気にコースにあふれ、まるで星の海の中を進んでいるかのような幻想的な光景だ。
そんな中、俺は唯一『タキオンブースト』を温存していた。
ブラックロータスとプルーフでは角の大きさが違いすぎる。ここで仕掛けてはゴールまで魔力が持たないだろう。それに今加速しすぎるとコーナーを曲がり切れず大きく外に膨れる可能性がある。ここはマリアの言葉とプルーフの能力を信じて最後の直線にかけるしかない。
こちらの覚悟とは裏腹に、耳の動きから察されるプルーフの様子はのほほんとしたものだった。まだまだ余力があるのか、ただ幼過ぎてレースを理解できていないだけなのかはわからないが意外と大物なのかもしれない。
俺は内心で苦笑しながら、最後の直線に備えてプルーフをコースの外側へと誘導した。『タキオンブースト』を使った時に他馬を避けて速度を落とすリスクを避けるためだ。
その間にもブラックロータス以下他の馬たちはゴールに向かって近づいて行く。プルーフがコーナーを曲がり切り、直線に向いた時には先頭との差は十五馬身以上あった。
普通に考えれば絶望的な距離だ。ここから勝てたら奇跡に近い。それでもここまで来た以上、後は突き進むだけだ。
「行くぞ!」
プルーフにも自分自身にも向けて気合の言葉を吐きながら、俺は乗馬鞭(ステッキ)を入れた。
次の瞬間、芦毛のユニコーンは異次元の走りを見せた。
ドン、という音が聞こえそうなほど、プルーフのギアが跳ね上がり、一気に加速し始める。手綱を通して伝わってくる強烈に大地を蹴る振動。その衝撃によって抉られ弾け飛ぶ芝の土の塊。それと同時にみるみる増していくスピードは今まで経験したことのない領域のものだった。普通のサラブレッドのスパートとは比べ物にならない。あまりの急加速にこちらも体を持っていかれそうになったが、何とか根性で姿勢を維持した。
そして不思議なことにプルーフの角から放たれる魔力の残滓は金色に輝いていた。なぜ他のユニコーンのような青白い粒子ではないのか理由はわからないが、彼らより遥かに速い速度が出ていることと関係しているのかもしれない。
黄金の風と化したプルーフは一瞬で十三頭のユニコーンを抜き去り、先頭を走るブラックロータスに向かってぐんぐんと迫っていく。
これなら届くか……!?
ゴールまで残り百メートル。すでにブラックロータスとの差は五馬身まで縮まっている。
猛追してくる異様な気配を感じたのか、ヴェロニカがちらりとこちらを振り返った。
その琥珀色の目は驚愕に大きく見開かれたが、すぐに体勢を立て直し、愛馬にステッキを入れる。ジョッキーの指示に応えてブラックロータスもスピードを上げてくる。
それでもまだプルーフの脚の方が速い。
残り五十メートル。
「ぁっーー!」
俺は声にならない声を上げながら必死でプルーフを鼓舞した。
残り三十メートル。
あれだけあった差はもう半馬身だ。この勢いならぎりぎりかわし切れる。
届けっ!!
残り十メートル。
ついにブラックロータスに並ぶ。
行ける!!
そう勝利を確信しかけた時、あと残りわずか五メートルというところでプルーフは急に失速した。
角から出ていた黄金の粒子が消え、普通のスピードに戻っていく。
ギリギリで『タキオンブースト』が切れたのだ。
そんな……。
その隙にブラックロータスはゴールに飛び込み一着をもぎ取った。プルーフもそのすぐ後に続き、半馬身差の二着は確保したが、結局勝つまでには至らなかった。
届かなかったか……。
いいタイミングで追い出せたと思ったのだが、最後に息切れしたところを見るともうワンテンポ仕掛けを待った方が良かったのかもしれない。もしくはもう少し前のポジションでレースを進めるべきだったか。着差が着差だけに自分の騎乗内容が悔やまれる。
「ブルッ! ブルッ!」
魔力を使い果たしたプルーフは相当疲れたのか大きく鼻を鳴らしていた。
「……よく頑張ったな。おつかれさん」
俺は愛馬の首筋をポンポンと叩いてねぎらった。
プルーフを勝たせてやることはできなかったが、彼は能力を十分発揮してくれた。あのブラックロータスを脅かしたのだから上々だろう。
ただ、勝利という結果を出せなかった以上、俺はもうプルーフに乗ることはないかもしれない。実際に乗ってみて彼の可能性を大いに感じたからこそ、ここで降ろされるのは実に残念だ。他のユニコーンに乗ったことはないが、プルーフは間違いなく特別な才能を持っている。これから見せてくれる景色を彼の背中で感じてみたい、そう思わせてくれる存在だ。ジョッキーとして失格だとしてもできれば何かしらの形で彼に関わり続けられたらと思う。
そんな物思いに耽っていると、背後からすっかりお馴染みになった高飛車な声が聞こえてきた。
「あなた……。いえ、そのユニコーンは一体何者ですの?」
振り返るとヴェロニカがすごい形相でこちらを睨んでいる。勝ったのは彼女の方だというのに随分と不機嫌そうだ。ぶっちぎる、という宣言が果たせなかったのがそれほど悔しいのだろうか。
「さあな。俺もわからないよ。でもやっぱり走らせてみないと分からないこともあるってことじゃないのか」
「……本当にあなたはいつもわたくしを苛立たせてくれますわね。いいですわ。そのユニコーンが何者であれ、何度でも叩き潰して差し上げます。ではまた、わたくしが勝利するレースでお会いしましょう。ご機嫌よう」
ヴェロニカはそう言い残すと悠々と去っていた。
相変わらず厄介なやつだが、彼女はこれからも何度もプルーフの前に立ちはだかるのだろう。次に戦う時は負けないよう成長させなければならない。
プルーフをクールダウンさせながら装鞍所に戻ると真っ先にルナが出迎えてくれた。
「フーマ、プルちゃんおかえり! 二人共怪我無くて良かったよぉ」
そう言うルナの笑顔は純真で、本当に結果よりも自分たちの無事を願ってくれていたのだなと実感できた。
「……済まない。大口を叩いておいて結果を出せなかった」
俺は下馬して頭を下げた。
競馬の世界では一着と二着の間に大きな差がある。勝った馬は後世に名を残すことができるが二着はそうではない。だから賞金は貰えても二着と三着以下の間にはあまり差はなく、一着のみが価値を持つのだ。つまり結果を出すということは一着を勝ち取ることを意味している。
それがわかっていてなお、俺は諦めきれなった。
「負けておいて情けない話だが、もう一度チャンスを与えてもらえないだろうか。乗ってみて改めて思ったんだ。プルーフと一緒ならダービーを獲れるって。だからこの通りだ」
もう一度深く頭を下げる。
日本にいた時もこれほど一頭の馬にこだわることは一度もなかった。それほどまでにプルーフには魅力がある。彼と一緒ならどんな事でも成し遂げられると本気で思える。
「……儂はこの小僧で良いのではないかと思うぞ」
ルドルフの低い声が響いた。
「……頭を上げな」
マリアの声に従って彼女の方を見ると、決まりの悪そうな表情で腕を組んでいた。
「アンタが下手に乗ったとは思っちゃいないよ。まだプルーフの成長が追いついていないところもあるからね。十分見どころのあるレース内容だった」
「さっき『やるじゃないか、あの坊や』って言ってたもんねー」
「余計なことは言わなくていいんだよ! この馬鹿妖精が!」
「それじゃあ?」
「……ああ。アタシもアンタを正式なジョッキーとして認めてやるよ。よろしくね、坊や」
「……ありがとう」
マリアの言葉に俺はほっと胸を撫で下ろした。それと同時にプルーフとダービーに挑めることに興奮し、心が燃え立った。
「良かったよ! フーマ!」
ルナがそう言って嬉しそうに抱き着いて来た。不意に触れたルナの柔らかい体の感触と髪の匂いに思わずドギマギしてしまう。
「やっぱり童貞だね」
それを見てマリアがにやりと笑う。
「それはもういいだろ!」
「いやー。何はともあれ、これで改めてチーム『プルーフ』結成だね!」
「そうと決まれば今日は祝杯を挙げないとな」
「……儂はウイスキーがいいな」
「二人共昨日もお酒飲んでたでしょ!?」
「あれは前祝みたいなもんだろ。本番は別だ」
「ああ言えばこう言うんだから……」
賑やかな輪の中に混じりながら、俺は今まで感じたことのないような満足感と充実感に満たされていた。それはこの世界に来て良かった、と初めて思えた瞬間だった。
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