終章 新しい時代の幕開け
第1話 隠されていない開拓地へ
アンナリーザたちを乗せた馬車の窓には、ガラスが入っていなかった。窓に嵌るように薄く加工する技術は、
テソロカルトの街を発ってから三日目、異なる国や立場や身分の者たちを乗せた馬車の中は騒がしい。
「やだ、蛾が──」
「アンナリーザ様、毒のない種類ですから」
「
「この、扇を使ってくださいませ」
物資を運んだりする場合もあるのだろう、道の幅自体は──街道とは言わずとも──大陸の都の大通りていどには整備されていた。とはいえ、何しろこの地では木々も動植物も逞しく力強い。人馬の列に驚いて飛び立つ鳥の大きさ、鳴き声の鋭さ。ふと目をやった時にドレスに留まっている虫の翅の模様の不気味さ。青々とした濃い緑の、湿った香り。そんなものに囲まれて進むのも夜を過ごすのも、大海のただ中で波に揺られて眠るのとどちらがより恐ろしいかは真剣に悩ましい。
(でも……そうだわ、海の上なら獣に襲われることはないわね……陸では嵐はないけれど……)
イスラズールの密林には、
「──窮屈な思いをなさっているでしょう。ご不便はございませんか?」
恐ろしげな目玉模様の翅をした大きな蛾を、ようやく追い出すことに成功してひと息吐いた時──馬車に並走する騎影が現れた。騎手はクラウディオだ。アンナリーザたち客人だけではなく、
「いいえ! 私たちは座っているだけなのですもの、お気遣いは無用ですわ」
多忙なはずの彼を、たかが虫で騒いで呼び寄せてしまったなら申し訳ない。慌てて──同乗者たちにぶつからないていどに──手を振るアンナリーザに、クラウディオは励ますように微笑んだ。
「今夜は屋根のあるところで休めますので、しばらくのご辛抱を。地図上の、イスラズールの最果ての街です」
顔をアンナリーザに向けながら、クラウディオは危なげなく手綱を操っている。彼に馬術を教えてくれたのは、テソロカルトの住人なのだろうか。時に恐ろしい自然に、生身で対峙する前世の息子の姿は、アンナリーザの目には眩しかった。
「地図上の……レイナルド王に報告している中では、ということでよろしいでしょうか?」
クラウディオは、たぶん重要な情報を示唆してくれている。
(いつから……もしかしたら、
だとしたら、客人に過ぎないアンナリーザは、王妃以上の信頼を勝ち得てしまったのか──ううん、行きがかり上、致し方なく、なのだろうけれど。
アンナリーザの複雑な思いを知らないクラウディオは、彼女の指摘に軽く頷いた。
「はい。私が命じられているのは、本来は農地を耕し家畜を殖やすことだけですので。……先代以来、何よりもまず海を目指して道を開通させたのですよ。父は、開拓の進捗が遅いと不満だったようですが。たとえ海賊でも、大陸との交易を確保するのが何より大事だと考えられたのですね」
クラウディオの視線と言葉を受けて、ゲルディーヴが得意げな顔で親指を立てる仕草をした。海賊たちの間では、たぶん何か自負というか誇らしさを表すのだろうか。よく分からないから、アンナリーザは窓の外、クラウディオのほうへ視線を度した。
「イスラズールの西岸に至って、港を拓いて──
「だから次の地位を望んでも良いと思ったのです。……などと言っては不遜でしょうが。これ以上、父に隠し通すのも難しいでしょうから──」
剣呑で、かつ下手な冗談を口にしてから、クラウディオは首を巡らせた。テソロカルトを振り返ったのだろう。
(テソロカルトの住人は、ある意味ではベレロニードよりも豊かな暮らしをしているのかもしれないのね……)
まだ細々とではあるけれど、砂糖と香辛料が自給できて、サトウキビからは変わった風味の酒も造れる。しかも、王に知られていない以上、それらの産物はすべて地を耕し収穫した民のものだ。そんな土地のことが、噂ていどにでも聞こえれば、移住を試みる民も出るだろう。王はもちろん、金銀や宝石といった形ある産物ばかりに意識が向いている貴族たちは、まだ気付いていないのかもしれないけれど。
でも、きっと時間の問題なのだろう。
(レイナルドに知られたら──きっと、砂糖も香辛料も民の口には入らなくなる……)
鉱山で働く人々が、宝石で身を飾ることがないのと同様に。レイナルドは、イスラズールの「富」は、いかなる形のものであれ、自分のものだと考えるだろうから。そうすれば、王の権力と民との間で争いが起きるのは避けられない訳で──だから、クラウディオが今、自ら立とうとするのも決して野心だけが理由ではない。ある意味では、理にかなったことなのだろう。
「
「ありがとうございます。そう願いたいものです」
軽く微笑むと、クラウディオは馬首を巡らせてアンナリーザたちの馬車から離れた。彼が気を配るべきことが、ほかにもたくさんあるのだろう。
* * *
クラウディオの予告通り、辺りが夕闇に呑まれる前に、隊列は密林を抜けた。木々や草葉や蔓の間をすり抜けるように進んできたこれまでとは違って、収穫を終えた麦畑──たぶん──が広がる情景は解放感があって安心できた。アンナリーザにも馴染みのある世界に、近づいてきたという感覚がある。
「──なるほど。テソロカルトへ続く道は、まさに隠されているのですね」
ユリウスの呟きが聞こえて来た方を振り向くと、確かに、後続の人や馬や車は、密林から突如として現れたように見える。王が遣わした監督官がこの地に来たとしても、あらかじめそうと知らなければそこに道があるとは気付かないだろう。
馬車の扉を開けて、アンナリーザに手を差し伸べながら、クラウディオも頷いた。
「そういうことです。……だから、窮屈な思いをしていただきました。申し訳なかったのですが」
「でも、これこそがイスラズール、なのでしょうから。貴重な体験だと思います」
クラウディオの手を借りて車を降りると、共に旅をした──行軍した人々のざわめきが大きく聞こえた。いくらかは高い女の声も混ざっているのは、後衛で雑事に携わる中にはフアナを始め、女性もいるからだ。イスラズールでは、男女の役割の区別は大陸ほどはっきりしていないのだ。
「嬉しい御言葉です。──こちらへ。
「まあ、光栄ですわ。どんな方でしょうか」
アンナリーザの微笑と返事は、少し白々しかったかもしれない。だって、紹介されるまでもなく、彼女は
(
エルフリーデとしては、頼りたかったのにそうできなかった方でもある。その御方と、今度こそは心行くまで語り合うことができるだろうか。
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