第11話 海を越えて来た王子様(マリアネラ視点)

 王宮の東屋あずまやから望む水平線の向こうから、白い煌めきが現れた。大洋を越えて訪れた船のマストが、陽光を浴びて輝いているのだ。これまでにも見たことがある光景だけにマリアネラの目にもすぐに分かる。いつもなら、海の向こうから何が届いたかを楽しみに、風を孕んだ帆が近づいて来るのを眺めることができただろう。でも──今、ベレロニードに入港する船が彼女にもたらすのは不安と緊張だけだ。


 母の想いなど知らない娘が、無邪気に歓声を上げた。


「やっと来たわ、お母様! お父様のところに行きましょう?」

「え、ええ……」


 娘に──セラフィナに手を引かれて、マリアネラはかけていた石の腰掛から立ち上がった。若くしなやかで、しかも無邪気な娘は、母がよろめいたのを悪気なく笑う。


「お母様、しっかり! エミディオのお嫁さんになる方がいらっしゃるのよ? ご挨拶しないと──いえ、その前にちゃんと着替えなくてはいけないわ!」

「そうね、セラフィナ。でも、まだ十分に時間はあるでしょう」


 セラフィナは、二十歳になるというのに少々子供っぽいところがある。父であるレイナルドが掌中のたまと溺愛し、いまだに結婚相手を定めていないからだろう。だから、いつまでも少女のような振る舞いでも許されるのだ。まともな母親なら──たとえばそう、エルフリーデ妃なら──もっとちゃんと叱って、躾けなければならないのだろう。でもマリアネラにはそうはできない。せいぜい、そっとたしなめるのが精いっぱいで。


「まだあんなに遠いところに見えるのだもの。王宮ここまで登って来るにはしばらくかかるわ」


 マリアネラが指さす先では、白い煌めきがやっと、ほんの少し大きくなったところだ。今から急いでは、船が港に錨を下ろし、使節の者たちが上陸するまでに、待ちぼうけを食らうことになるだろう。


「待ち遠しいわね……大陸の姫君にお会いできるのは晩餐の席になるかしら。金の髪の方なのよね? どんな方なのかしら……!」

「海を越えてはるばる来てくださるのだから、きっと聡明で勇敢な方ね……」


 それこそエルフリーデ妃のことを思い浮かべながら、マリアネラは弱々しく娘に微笑んだ。船の到着を知った衝撃は、まだ彼女を揺さぶっているけれど、セラフィナの注意を海から逸らすことには成功したようだった。海を背にして、娘と並んで自室を目指しながら、マリアネラの心臓はどきどきと高鳴っている。


(帆が破れていたりはしないかしら。いいえ、嵐に遭うこともあるのだし、セラフィナが不審に思うことはないでしょうけれど)


 セラフィナは、何も知らないのだ。イスラズールと大陸諸国の間の緊張も。母が、父の正妻ではないことも。何年も会っていない異母弟クラウディオが今、何をしているかも。──母が、レイナルドや実子エミディオを裏切る真似をしていることも。


 教えない理由のひとつは、娘の口の堅さを信用できないから。そして、マリアネラ自身に、娘を説き伏せる自信がまったくないからだ。父や兄にどうして隠し事をするのか、どのような理があるのか。クラウディオの支持者に説かれればその時は納得するのだけれど、娘に対して同じことができる気がしない。そして、何より。


(セラフィナを怖がらせたくは、ないの……)


 セラフィナを見るのは、少女時代のマリアネラ自身を見るようだ。蜂蜜色の髪と、晴れた空の色の目をした可愛らしい娘──と、言い切るには、もう少し年を重ねているのだけれど。とにかく、娘を幼く見せる憂いのなさは、かつての彼女には許されなかったものだ。両親の愛を疑わず、何者にもかしずかれる幸せを享受できるのは、女としては羨ましく、母としては喜ばしい。だからその幸せを壊してしまうのが忍びないのだ。


 これもまた、マリアネラの愚かさでしかないのだろうけれど。


 セラフィナは、間もなく驚き傷つき、悲しむことになるだろう。母に対して怒り、憎みを抱くかもしれない。その時が来るのを恐れながら、でも、マリアネラにはもうどうしようもできない。船はもう到着してしまう。マルディバルのアンナリーザ姫は乗せず、けれどフェルゼンラングの密偵を乗せて。海賊に襲われた彼らが、レイナルドに何をどう報告し要求するか──彼女は、ただ待つことしかできないのだ。


      * * *


 王宮の中に次第にざわめきが高まっていく気配がして──あるいは、そんな気がして──マリアネラの鼓動は不吉に高まっていっていた。何も知らずにドレスの色や髪型に頭を悩ませるセラフィナが、実に羨ましかった。衣装部屋で、色とりどりの絹地の艶めきや宝石の煌めきに囲まれていても、マリアネラの心が浮き立つことはまったくない。むしろ、「これから」を考えて沈む一方で。


(船が襲われたのだと、伝わったのだわ……。乗っていた方たちは、怒っているのかしら。レイナルド様は、どう思われるかしら……)


 船が入港すれば、襲撃のあった痕跡は明らかだろう。たとえ航海を続けるために補修したとしても、乗員たちは被害を声高に訴えるだろう。あるいは、イスラズール王に庇護を求めるのだろうか。いずれにしても、レイナルドにとっては予想外で不本意で苛立たしい報になるはず。待っていたアンナリーザ姫がいないということも、彼の怒りに油を注ぐことになるだろう。玉座の間に彼の怒声が響く事態を想像すると、マリアネラは胃がぎゅっと縮む痛みを味わうのだ。


 と、衣装部屋の扉が控えめにノックされた。侍女が対応するのは、侍従と思しき男の声だった。マリアネラとセラフィナがきちんと服を着ていることが確かめられてから、ようやく入室が許される。そうして対面したその侍従の強張った表情は、マリアネラの不安をますます掻き立てた。


「──あの、パロドローラ女公爵様。お支度中とは存じますが、お出まし願えますでしょうか……?」

「ええ……あの、レイナルド様が、何か……?」


 こういう顔をした人が彼女のもとに来るのは、レイナルドをなだめてくれと乞う時だ。まして今は、心当たりが重々ある。案の定、侍従は縋るような眼差しで大きく頷いた。


「マルディバルからの船が戻ったのですが──その、不測の事態が起きたとのことで」

「それは大変。すぐに伺います」


 マリアネラにしては、もの分かりが良すぎたかもしれない。彼女は政治のことなど何も分からないから、いつもならもっと怯えたり戸惑ったりしたかもしれない。すぐに頷いたのは、不測の事態の内容に予測がつくからこそ、だった。


「恐れ入ります。では──」

「私も行って良いかしら、お母様!? マルディバルのお姫様にお会いしたいわ」


 わずかに表情を緩めた侍従の言葉を、セラフィナの弾んだ声が遮った。まだ何も知らない娘の満面の笑みに、マリアネラは宥める言葉が見つからない。


「セラフィナ、でも……お父様のご機嫌が──」

「私もいれば、お父様はあまりお怒りにならないわ。駄目そうなら退散するから」

「そう、ね……では、様子を見てから、ね……?」

「ええ!」


 ドレスを選びかねていたところだというのに、セラフィナは普段着のままでさっさと歩き出してしまった。アンナリーザ姫と体面することには絶対にのが、せめてもの救いだろうか。娘を追って足を踏み出しながら、マリアネラは夫の怒声を受け止めるための心の準備をしようとした。


 でも──そんな覚悟なんて、何の意味もないものだった。海からやってきた使者たちが訪れているという玉座の間に近付くと、レイナルドの怒りを孕んだ声がもうマリアネラの耳を打ったのだ。


「よくも、臆面もなくそのような要求ができるものだな!? この、俺に対して……!」

「何も陛下を侮ってのことではございません。イスラズールを統治する方だからこその請願です」


 怒りと苛立ちに満ちたレイナルドに対するもうひとつの声は、若く涼しげで、しかも品のある男性のものだった。少なくとも、マルディバルへ派遣されていたオリバレス伯爵のものではない。


伯爵あのこは幽閉されるかも、ということだったわ……)


 既知の親族の扱いを思って、マリアネラは心を痛めた。海賊の襲撃は、マルディバルや、便乗しているであろうフェルゼンラングの者たちの不信を呼ぶだろうと教えられていた。だから、イスラズール側の人間であるオリバレス伯爵もその悪感情を受ける可能性がある、と。それでもマルディバルもフェルゼンラングも文明高い国だから、命が奪われるようなことはないだろう、と──クラウディオ経由で大陸の海賊たちが教えてくれていた。


「私や、祖国に良い感情をお持ちでないのは存じております。ですが、アンナリーザ様には関係のないことではございませんか?」


 玉座の間への扉が拓かれようとした時──落ち着いたほうの声が述べた内容を聞き取って、マリアネラの心臓は跳ねた。レイナルドが良い感情を持っていない国といえば、フェルゼンラングにほかならないだろう。エルフリーデ妃の祖国は、やはりまたイスラズールに介入しようとしているのだ。


(しかもそれを、堂々と言うなんて……!)


 レイナルドの不快も無理はない。クラウディオたちが余裕をもって動くためには、ここで揉めてくれるのは計画通りであり、願ってもないことではあるのだけれど。でも、レイナルドの怒りを和らげる難しい役は、マリアネラだけにかかっているのが気が重くてならなかった。


(無邪気に、明るく……甘えて、レイナルドが呆れるくらいに……)


 好まれる女の姿を演じなければ、と念じながら、マリアネラは玉座の間に足を踏み入れ、レイナルドのもとに駆け寄ろうとした。──でも、彼女の袖を、セラフィナがそっと引っ張った。


「お母様……あの方、とても素敵ね……?」


 セラフィナが示したのは、下段に控えた青年だった。父の機嫌を伺うので頭がいっぱいの母に対して、娘は来賓が気になってしかたなかったらしい。


「お父様に対して、あんなに堂々としているなんて……!」


 娘が眼差しで示した青年は、確かにすらりとした長身の貴公子だった。そして、彼が纏う色彩に気付いて、マリアネラは小さく喘いだ。艶やかな黒髪と、宝石のような深い青色の目──懐かしく悲しく、後ろめたさを呼び起こすその色は、エルフリーデ妃が帯びていたものにそっくりだった。

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