第10話 出発の準備は慌ただしく

 クラウディオは、ベレロニード攻略にアンナリーザたちを伴うことを承諾してくれた。彼女自身は隊列の一番後ろでも、と言ったけれど、よく考えれば、真っ先にベレロニードに入らなければ戦闘が始まる前に異なる陣営の者たちを説得することはできなかった。よって、ユリウスとベアトリーチェも含めた彼女たちは、直ちに荷造りを始めることになった。ユリウスには、ベレロニードでディートハルトと再会するという目的があるし、ベアトリーチェとしても、この国イスラズールの王都に戦火が及ぶ前に見ておきたいということだった。


 荷造りといっても、彼女たちの本来の私物のほとんどは《海狼ルポディマーレ》号に置いてきてしまっている。だから、フアナなどと相談の上で、着替えなどを新しく用意してもらう、というのが実際のところになったけれど。


 という訳で、食堂は会議室へと役割を変えた。アンナリーザたちが座すところに、テソロカルトの街の者たちが入れ替わり立ち代わり訪れて、旅装束の採寸をしたり、食事の好みを聞いたり、道程の説明をしたりするのだ。


「基本的には馬車での旅になりますが、地図の──この部分は馬を使わざるを得ないでしょう。湿地で、車輪が泥に取られますので」


 先陣を率いる予定だという男に、レイナルドも知らないであろうイスラズールの奥地の地図を示されて、アンナリーザは背筋が伸びる思いだった。道なき道を切り開いた者たちの努力を思うという意味からも、それだけの秘密を明かしてもらっているという意味からも。そしてもちろん、簡単で安全な道のりではないと、改めて実感したからでもある。


「それでは、徒歩になるのでしょうか」

「ご婦人が歩ける道ではないでしょう。馬にはお乗りになれますか?」

「……整備されていない道ですと、どなたかに乗せていただいたほうが安全だと思います」

「では、そのつもりで体格の良い馬を用意しましょう」


 こんな調子で、クラウディオの屋敷には絶え間なく人が出入りすることになった。そもそも反乱に向けた準備を整えていたとはいえ、それはベレロニードにディートハルトたちが到着するのを待ってから、王都の混乱に乗ずる計画だった。従来は敵対するはずだった陣営にも話を通そうとするなら、そうして被害を最小限に抑えるなら、一刻も早く旅立たなければならない。


 恐らくは取り次ぐ手間を省くため、クラウディオも執務の場所を食堂に移していた。書類に目を通しながら、アンナリーザたちのやり取りを耳で追い、手はペンを握り、といった様子で、横目で窺うだけでも目が回りそうだ。それでも、漏れ聞いた会話を踏まえて判断を下したり指示を出したりもしているようだから、たぶん効率は良いのだろう。


「──お疲れも取れていないのでしょうに。」

「いいえ。貴重なお話をさせていただいているわ。イスラズールの民の信頼を得るのも大事なことよ」


 ようやく人の列が途切れた合間に、フアナが一同に茶と菓子を運んでくれた。イスラズールの風土に慣れた彼女も、アンナリーザたちに同行してくれるのだとか。危ない目に遭わせるのは申し訳ない一方で、すぐ後に続くはずのクラウディオとの仲が進展すれば良い──だなんて、下世話な期待を抱いてしまっているのは内緒だ。


 休憩時間と決めたのか、クラウディオも席を立ち、アンナリーザの傍に椅子を運んで腰かけた。


「慌ただしくて申し訳ないことです。王女殿下には、危険な役をお願いすることになりますね……」

「他国の王女だからこそ、そうそう危険な目に遭うことはないでしょう。マルディバルを敵に回したいとは、どなたも思っていないでしょうから」


 クラウディオと自然に話せる距離感に落ち着けたことが嬉しくて、アンナリーザの声は弾む。前世の息子に対する、人には言えない思い入れとはまた別に、張り切っているのも嘘ではない。


(波に揺られるだけの時間が長すぎたのよ。自分の足で歩けるのは素晴らしいわ……!)


 一度決めると、やることができるのが嬉しくてならなかったのだ。だから、心配顔のクラウディオに応えるアンナリーザの表情は晴れ晴れと明るいだろう。クラウディオとゲルディーヴとの交渉の結果、取り上げられていた拳銃を返してもらえたからなおのこと。もはや弾丸の補充はままならないから飾りていどにしかならないけれど、それでも、足首に感じる剣呑な重みは懐かしく心強かった。


「俺もついていくしな。イスラズールの表玄関に、一度くらい行ってみるのも悪くないからな」


 皿に盛られた菓子を、横からひょいと摘まむ無遠慮な手は、ゲルディーヴのものだ。彼もまた、イスラズールの首都であるベレロニードを遠目にしか見たことがないらしい。海賊船が堂々と入港することはできないから当然だけど。


「海賊が陸に上がるとは奇妙な話だな。魚が陸に上がるようなものなのでは……?」


 誰もが抱いているであろう疑問を、あえて口にしたのはユリウスだ。眼鏡の奥の翠の目には、いかにも胡散臭げな色が浮かんでいる。対するゲルディーヴも、金色の目を挑戦的に煌めかせて不敵に笑う。出会った瞬間からの悪印象を、お互いにまだ引きずっているらしい。


「お姫様や貴族のお坊ちゃんよりはマシだろうさ。出航までの暇潰しに、ディオの親子喧嘩に加勢して──ついでに、お姫様を攫っちゃおうかな」

「貴族の馬術を侮らないほうが良い。特に私は、森や湿地にも慣れている」

「ふうん?」


 文字通りに荒波に揉まれてきたゲルディーヴの腕が立つのは疑いようもない。そしてユリウスのほうも、父君の薫陶くんとうのお陰で温室育ちの貴公子よりは荒っぽいことにも慣れているだろう。


(争っている場合ではないのに……!)


 助け合えば頼もしいはずのふたりが睨み合うのが不安で、アンナリーザは仲裁しようと息を大きく吸った。でも、その判断をしたのは、クラウディオのほうが早かった。


「……フェルゼンラングの王子殿下の説得には、貴方の助力も期待しています」

「ええ──機会を与えていただいたことに感謝しております」


 やや唐突かつ強引に変えられた話題に、ユリウスは瞬きしながらも頷いた。肩の力が抜けたように見えたのは、言い争うことの愚に気付いてくれたからだろうか。軽く息を吐きながら、彼は茶器を持ち上げる。


「ディートハルト殿下も、アンナリーザ様にはご好意を抱いているご様子でした。玉座に強い野心を抱いている方でもなし、この地の産物のことを説明すれば交渉の余地は十分にあると思うのですが」


 ディートハルト、とは、ほかにもアンナリーザに好意を抱いている者がいるかのような口振りだけれど──


(まさか。まさか、ね……)


 そんなことを考えている場合ではない、と。心の中で首を振りつつ、アンナリーザは話題に乗ることにした。


「ディートハルト様は──今は、どこにいらっしゃるのでしょうね……。ベレロニードに到着したとして、レイナルド王がどう遇するか……」


 あの男は、亡き妻の甥になんて情を示してくれないだろう。ここ二十年のイスラズールとフェルゼンラングの関係を思えば、問答無用で捕らえられてもおかしくはない。

 クラウディオも父の気性は承知しているのだろう、フェルゼンラングの王家に共通の青い目に気遣う色を浮かべて、重々しく頷いてくれた。


「そうですね。だから、王宮にも内通者がいるということだろうと思うのですが。……王子殿下の安全の確保のためにも、急がなければならないのですね」

「ええ……」


 アンナリーザとユリウス、そしてベアトリーチェがこっそりと交わした視線の意味を

クラウディオたちは知らない。話題の主であるディートハルトが、何をしでかすか分からない人物だということを。悪気なくにこやかに、けれど周囲が見開くようなことをさらりと言ったり実行したりするのがあの方だ。フェルゼンラングに敵意を持つ王のお膝元なら大人しくしてくれるかどうか、軽率に身分を明かさないでいてくれるか──それすら、定かではない。


 あらゆる意味で、アンナリーザたちは出発の準備を急がなければならないのだろう。

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