第9話 悲劇の王妃を眠らせるために

 クラウディオと──それに、視界の端でユリウスが、同時に眉を寄せたのに気付いてアンナリーザは言葉を重ねた。彼らの反応も当然のこと、説得する理屈は考えてある。


「危険は承知しております。それに、信用ができないだろうということも。ですから、隊列の一番後ろについて行かせてくださいませ。多少のお手間は増やしてしまいますけれど、お役に立てることもあると思いますから」

「尊い御方に兵站の雑事をやっていただく訳には参りません」


 邪魔だから大人しくしていろ、とは言わないクラウディオの優しさに感謝して、アンナリーザは微笑んだ。それから、せっかくの朝食が冷めつつあるのに気付いてパンを手に取って、ちぎる。目線で一同を見渡すと、誰もが思い出したようにパンやカトラリーに手を伸ばした。今日こそは、ちゃんと食事の味を楽しむ席にできるかどうか──それはたぶん、アンナリーザの態度にかかっている。


「ええ、温室育ちが邪魔をしたりはしませんわ。私が同行する意味があるとしたら、戦いの外で、ということになるかと思います。これでも──あの、少々疑わしいとは思うのですが、外交や交渉の席に立ったこともございますから」


 昨日からの自身の言動を思い返すと、言い切ることは難しくなってしまうのだけれど。それでも、説得する材料は十分にあるはず。蝶の翅の煌めきが、アンナリーザの胸を塞いでいて憂いや迷いを洗い流してくれたかのよう。今の彼女は、交易の国の王女として、振る舞うことができるはずだった。


「レイナルド王と一戦を交えるのは、いたし方のないことなのでしょう。でも、ベレロニードには戦う必要のない方々もいるはずです。《海狼ルポディマーレ》号──私たちが乗って来た船の一行に、フェルゼンラングと通じる一派。私から口添えすることで、加勢とまではいかずとも、静観してもらえるかもしれません」

「ああ……お供の方々も、ご心配なのでしょうね……」

「そうですわね。ゲルディーヴは、招待の意図を丁寧に説明してくれた訳ではありませんでしたから」

「……申し訳のないことです」


 クラウディオの顔を、気まずげな罪悪感が過ぎるのを見て、アンナリーザは笑顔で釘を刺した。あくまでも冗談めかした、軽い口調で。

 突然の襲撃を受けた側からすれば、怪我人や死人が出なかったかどうかに関わらず身も凍るような恐怖だったと、落ち着いて考えれば分かってくれるだろうから。そして、すまないと思ってくれる子に育ってくれたと、今は信じられるから。彼女が本気で怒っているのではないと分かってくれたのだろうか、クラウディオも話を続ける気になってくれたようだった。


「一行の方々と、一刻も早く再会なさりたいのは当然のこととは思いますが。フェルゼンラングと通じる者たちについてはどうでしょうか。彼らが、王女殿下の話に耳を傾けてくれるかどうか。──それとも、貴殿が説得してくれますか。祖国の意向に背いてまで?」


 クラウディオが、やや尖った視線を向けた。そんなことはできないだろう、という含みを聞き取ってか、ユリウスが軽く眉を顰めた。


「私は──」

「こういうことは、第三者だからこそ、ということもあると思いますの」


 でも、ユリウスに反論することをさせずに、アンナリーザは笑みを保った。母の──前世の彼女の祖国に対して、これ以上悪い感情を持って欲しくない。そして、フェルゼンラングにも知らせたいのだ。海の向こうに売り渡した王女が、その地に撒いた種が立派に芽吹いて大樹に育つ気配を見せつつあることを。


「クラウディオ殿下はイスラズールの正当な後継者であると同時に、フェルゼンラング王家の血も受け継いでいらっしゃる。……ご自身で訴えるのは、もしかしたら不本意なのかもしれないですけれど。聞くほうも、思い出したくないのかもしれませんけれど。でも、私が言ったことなら無視する訳にも参りませんでしょう」

「それは──そうかも、しれませんが」


 不承不承、といった面持ちで頷いたクラウディオにとって、フェルゼンラングは本当に遠い存在だったらしい。仮に、イスラズールが大海に隔てられているのではなく、地続きで連絡が取れる状況だったとしても、彼は母の実家を頼る発想を思いついていたかどうか。


「それに」


 アルフレートの差し金だ、と思うと、海の向こうの相手にもっと言っておいてやりたかった、とお腹の底が熱くなる。でも、それは帰ってからのこと、と自分に言い聞かせて、アンナリーザは続けた。


「フェルゼンラングと結びたがるのは、大陸との交易路を求めてのことでしょう。でも、彼らはこの地の産物を知らないのではないですか? マルディバルの者としては、砂糖だけでなく、香辛料の栽培の可能性にも大変興味がありますの。そのあたりの重要性を強調すれば、おのずと誰が王位に相応しいかは分かるのではないかと思うのですけれど──いかがでしょう?」


 クラウディオからの返事を待つ間、アンナリーザはやっと朝食を味わうことができた。まだ温もりが残るパンの香ばしさ、丁寧にしたスープの滋味。ちゃんと、美味しい。今の彼女には、味を感じる余裕がある。昨日までのように、一方的に感情をぶつけるのではなく、言葉を尽くして思いを伝えることができたという手ごたえがあった。


 しばし、カトラリーが皿と触れ合う音が微かに響いた。ユリウスやベアトリーチェにとっても、緊迫したやり取りに気を揉まずに食事を味わうのは貴重な時間のはず。何より、クラウディオには言われたことを咀嚼する時間が必要だろう。


 やがてクラウディオが口を開いた時、テーブルの上の皿はどれもほとんど空になっていた。


「──私から申し上げる言葉は見つかりません。あえて言うなら……ご厚意の理由が分かりません。昨日はお怒りのご様子で、しかも王女殿下にはその権利が十分にあるのに」


 納得よりは困惑が勝る表情は、予想のうちだった。クラウディオに応える前に、アンナリーザはちらりとユリウスに目を向ける。


(さっきお話しておいて、良かった……)


 蝶の翅の煌めきを見ながらのやり取りで、心の整理をすることができた。どのように言葉を選べば前世の息子に想いの一端なりと伝えられるか──多少、苦しいけれど用意ができたような気がする。


「私は、殿下の母君のエルフリーデ様と近い立場でしたから。自分だったら、と思ってしまったのでしょう。はるばる旅した先で、夫に愛されず、夫がほかの女性を愛するのを目の当たりにしたらどう思うか──」

「ああ……」


 クラウディオが初めて気付いた、というかのような面持ちで瞬きしたので、アンナリーザの胸に鋭い痛みが走る。彼はきっと、生母の心の裡に想いを馳せたことがほとんどなかったのだ。寂しいとか恋しいとか思うことがなかったなら良かった、のかどうか。苦い思いに蓋をして、アンナリーザは笑みを繕う。


「でも、そこから一歩進めて考えたのですわ。エルフリーデ様なら何を望まれるだろうか、と。……大陸の王家に生まれた女は、祖国と婚家の掛け橋になるべく教育されるものです。私自身は、交易のためにイスラズールに来ましたけれど──より多くの商機を掴むことが、亡き人の想いを叶えることにもなるなら願ってもないことです」


 初対面に等しい同年代の娘が、母親の目線で語り掛けてくるのは相当に気持ち悪いだろう。マルディバルの王女として、交易の機会に絡めてもかなり厳しい理屈だと思う。


(でも、これだけは伝えたいわ……!)


 エルフリーデだってイスラズールを想っていたこと。が生きた時代のことだけでなく、我が子が治めるはずの時代のことも。もちろん、母として言えることではないのだけれど、そうだったかもしれない、ていどにでも考えてくれれば、良い。


 そうして、クラウディオが王位に登るのを見届けることができるなら、エルフリーデとしての彼女はようやく眠りに就ける気がする。

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