第8話 今度こそ歩み寄りの一歩を
ユリウスは、アンナリーザが立ち去るまで朝の散歩を楽しむと言ってくれた。その言葉に甘えて、彼女はひとり、屋敷への道を急いで辿った。部屋に戻ると、フアナとベアトリーチェが空の寝台に気付いたところだったので、危なかった。もう少し帰りが遅れたら、大々的な捜索隊が組まれて、みっともない姿を大勢の目に晒すことになってしまっていたかもしれない。
「ごめんなさい、ちょっと外の空気を吸っていたの」
「今日はお顔の色がよろしいようですわ。気分転換になったのでしたら、良かった」
昨日のアンナリーザの不安定な言動を踏まえれば、姿が見えなかったことをさぞ不安に思っただろうに。フアナは、アンナリーザの言い訳を疑いもせずに微笑んでくれた。この分だと、ユリウスも一緒だったのでは、なんて想像もしていないことだろう。
「朝食は、お部屋で召し上がりますか? 暑くなる前でしたら、庭先に席を用意するのも良いかと思いますけれど」
「そうね……」
フアナの申し出は、例によって至れり尽くせりだった。クラウディオと顔を合わせずに済むよう、客人同士で一緒にいられるよう、という気遣いが感じられる。それは、嬉しくありがたいのだけれど──
「できれば、昨日の食堂が良いわ。と、いうか──クラウディオ殿下と同席させていただきたいの。……今度こそ、大陸の者も礼儀を弁えていることをお見せしたいの」
アンナリーザの願いは、せっかくの気遣いを無にするのも同然で、フアナの若草色の目が大きく見開かれるのを見るのは、気まずく申し訳ないことだった。
* * *
昨日の今日でアンナリーザと顔を合わせることを、クラウディオもきっと躊躇っただろう。それでも、彼女が身支度を整える間に、彼は快諾してくれた、との報せをフアナが持ち帰ってくれた。
(偉い子だわ、とても……)
朝から拒絶されたばかりの相手に会う気まずさを押して、領主として取るべき道を選んでくれたのだ。個人の好悪の情で左右されないのも、上に立つものに求められる資質のひとつ。
「おはようございます、殿下。同席を許していただき嬉しく思っております」
「おはようございます。昨夜はよくお眠りになれましたか」
食堂でテーブルを囲んだ面々は、ゲルディーヴがいないことを除いて昨日と同じだった。波に揺られているだけだったアンナリーザたちと違って航海の疲れも残っているのだろうし、気ままな少年海賊は、まだ惰眠を貪っているのかもしれない。
「はい、とても」
だから、ユリウスも昨日と同じくアンナリーザの隣に席を占めている。彼も改めて着替えたのかどうかは、先ほどは姿を見ていないから分からないけれど。ただ、頬に彼の見守る視線が注がれているのが感じられる。……彼がいてくれるから、大丈夫。そう思うと、自然に微笑むこともできそうだった。
「朝、散歩をしましたの。そうしたら、大きくて綺麗な蝶の群れを見ることができました。まるで、生きた宝石のようでした」
「それは、幸運でいらっしゃいましたね」
蝶と宝石を並べれば、どうしてもマリアネラからの贈り物を想起するだろう。パンをちぎるクラウディオの手が止まったのを見て、アンナリーザは意識して笑みを保った。
「生きた蝶は……イスラズールに来なければ見ることができませんでした。海の向こうにいる者に、この地の美を伝えようとするなら、冷たい宝石で
マリアネラが本当にそんなことを考えるかは分からない。
「あれは──」
クラウディオは、パンを皿に戻してしまった。パン屑を
ややあって、クラウディオがゆっくりと口を開いた。
「アンナリーザ様は海賊に攫われたのではないと、ひと目で分かるようにしたかったのです。ベレロニードにも協力者がいて、綿密に計画を立ててのことだったのだと。強引なご招待──その、つもりでしたから──へのお詫びでもありますし……そう、確かに。イスラズールの象徴でもありますし」
昨日は、互いの何もかもが噛み合っていなかったことには気付いている。クラウディオからの求婚も、蝶の片翅を見せられたのも、マリアネラの名を聞いた時の動揺も。片方の反応が他方を刺激して、声を荒げてしまったし、荒げさせてしまった。その愚を繰り返さないために、アンナリーザは穏やかに頷いてみせる。
「気を遣ってくださったのですね。ありがたいお心です」
彼女の言葉に、クラウディオの表情は目に見えて緩んだ。昨日のアンナリーザの態度に、気分を害するだけではなかったなら、彼のほうでも歩み寄る機会を探っていたなら、良かった。これなら、もう一歩踏み出すこともできそうだった。
「ひと言申し上げるなら、それほど綿密に計画を立ててのご招待だったと知るのは、恐ろしいことでもありますわね」
「……申し訳ございませんでした」
悪戯っぽい口調と表情を作って言ってみると、クラウディオはそっと目を伏せた。
彼と、そしてマリアネラは、どうやら本気でアンナリーザを安心させようとして蝶の片翅を届けさせたらしい。行き当たりばったりで誘拐されたのと、計画の上で招待の名のもとに連れて来られるのと。どちらがマシか比べるのはとても難しいけれど──悪意はなかったと解釈するのが、お互いのためなのだろう。
(謝ってくれたのだからこれで十分……)
攫われた身としては、侍女や従者や船乗りたちのためにも言いたいことはたくさんあるけれど──クラウディオが罪悪感を覚えてくれているなら、それで良い。これから言おうとすることに、彼も首を横に振りづらくなるだろうから。
だから、アンナリーザはもの言いたげな表情のユリウスに、目線で黙っていてもらうように頼んだ。彼が憤りを覚えてくれているようなのも、彼女が矛を収める気になれる理由のひとつだった。
「つつがなくベレロニードに着いていたら、イスラズールの本当の豊かさを知ることはできませんでしたから。……ひと晩考えて、ものの道理が分かったと思います。イスラズールを統べるのも、マルディバルが同盟を申し込むのも、クラウディオ殿下であるべきです」
「嬉しい御言葉です」
もちろん、昨日の今日で都合の良い言葉を並べたところで、クラウディオが飛びつくはずもない。それに、ユリウスの表情も硬い。その理由は想像がつくから、アンナリーザは彼のほうにも視線を向ける。
「フェルゼンラングとの間を取り持つことができれば、とも思っております。クラウディオ殿下は、フェルゼンラングの血も引いていらっしゃるのですもの」
「はい。それは、否定できないことです」
実母の祖国の名を聞いて、クラウディオは眉を寄せた。そのことに心を痛めながら、アンナリーザは出されていた杯を傾けた。オレンジに、サトウキビの甘味が加えられている、イスラズールならではの味だった。
「殿下も察していらっしゃるようでしたから構わないと思うのですが──フェルゼンラングは、イスラズールの王位に干渉するつもりです。こちらのユリウス様は関わりのないことですが、ベレロニードに通じる勢力もあると、私どもも明かされました」
「……ええ。だからこそ、ベレロニードは近く混乱するだろうと読んでいるのですが」
ディートハルトが到着すれば、彼を擁しようとしている勢力との接触を試みるだろう。イスラズールにあって、クラウディオを王として戴こうとはしていない勢力もあるということだ。大陸の大国と結んだほうが利益になると考えるのも、それはそれで道理ではある。きっとそれなりの規模の勢力でもあって、だからこそ彼はフェルゼンラングを警戒しているのだろうけれど──
「マルディバルは、フェルゼンラングもイスラズールも等しく友情を結びたいと思っております。混乱の中で誤解や行き違いがあってはいけませんから、仲裁する者が必要だと思います」
「アンナリーザ様」
アンナリーザの言わんとすることを察したのか、ユリウスが声を挟んだ。
(ごめんなさい……ありがとうございます……)
彼に、心の中で謝罪と礼をしてから。それでも、アンナリーザはひと息に言い切った。
「私も、ベレロニードに上りたいと思います。どうか連れて行ってください」
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