第7話 降り注ぐ輝きは心を溶かす

「も、申し訳ございません……!」

「いいえ、私のほうこそ、みっともない格好で……!」


 ユリウスの狼狽えた声を聞きながら、しどろもどろに答えながら、アンナリーザは慌てて手近な木の影に身を隠した。化粧もしていない、髪も結っていない寝起きの姿を彼に見られるなんて、恥ずかしくて消え入りたい。相手に見えていないのは知っていながら、彼女はショールで顔を覆った。

 木の幹越しに、ユリウスも狼狽えている気配が伝わってくる。下生したばえを踏む足音からして、こちらに近づこうと足を浮かせて、けれど踏み出すことができずに一歩下がったようだった。


「あの、朝に蝶の群れが見られることがあると聞いたので……それで。まさかいらっしゃるとは思わずに……」

「私が悪いのですわ! あの、少しだけ朝の空気に触れようと、思っただけで……」


 大きな声を出して、フアナか誰か、屋敷の者に聞かれたらどうしよう。でも、この距離では囁き声ではきちんとユリウスに聞こえるだろうか。ふたつの不安がアンナリーザの声を揺らがせた。でも、これだけは伝えなければ。


「……蝶が飛ぶ時間は限られている、のでしょうね……? あの、こちらを見ないで行ってくださいませ。私は、戻りますから……」


 イスラズールに到着したというのに、ユリウスがこの地の自然をじっくり眺める機会はまだ得られていなかった。特に昨日は、アンナリーザの機嫌のせいで文明の及ぶ範囲の見学しかできなかったのだ。ずっと彼女を気遣ってくれていた分だけ、ひとりの時間は彼にとってこそ大事なはず。


「いいえ! アンナリーザ様の散歩のほうが大事ですから。考えごとや……気分転換を、なさりたかったのでしょう?」

「あの、大丈夫ですから」


 ほら、彼はまたアンナリーザのために引き下がろうとしてくれている。彼の足音が遠ざかるのを止めたくて。でも、姿を見せる訳にはいかなくて。


「──では、一緒に参りましょうか。場所を、言葉でお伝えするので。お姿は見ないように、離れて進みますから」

「……よろしいのですか」


 いつまでも押し問答を続けるのに比べれば、願ってもない折衷案だった。とはいえ、それでも恥ずかしいしユリウスにとっては煩わしいことだと思うのに。恐る恐る尋ねると、泣きたくなるほど優しく朗らかな声が、木の向こう側から響いた。


「何なら眼鏡も外しましょうか? それなら、見えていないのも同じになりますから」

「そんな。危ないですわ! あの……では、早く参りましょう。この国の蝶は宝石のような翅をしているのですよね? この目で……見たいですわ」


 本当のところ、彼女エルフリーデはイスラズールの蝶の見事な翅の色を、その輝きを知っている。でも、あくまでも孤独や憂いや悲しみによって雲った目によって、でしかない。アンナリーザとして──そして、ユリウスと共にあの煌めきを見ることができたら。きっとそれは、今の人生にとって大きな意味があることだろうと思えた。


      * * *


「その方向に真っ直ぐ──足元がぬかるんで来るそうなので、お気をつけて」

「は、はい。あ、少しお待ちくださいませ。ちょうど良い木が──あ、ありました」


 ユリウスの声に誘導されながら、寝起きの姿を隠す影を探しながら、アンナリーザはしばらく朝の爽やかな空気を味わった。イスラズールの眩い太陽も、この早い時間だとまだそこまで苛烈ではない。ユリウスの目を気にしながら移動するのは、一種のかくれんぼというか遊戯のようで、はしたなくも楽しいと思い始めてしまう。陽光が朝露を煌めかせ、蒸発させるのと同時に草花の香りが濃く匂い立つ。この地の色鮮やかな自然を肌で感じると、心が洗われるようだった。


「──着きました。ここのようですね」


 やがて、アンナリーザの目の前には緑の苔が覆う湿地が現れた。木々の葉の間から注ぐ光が、地面をまだらに染めている。これはこれで、静謐で美しい光景ではあるけれど──


「花が咲いている訳でもないのに、蝶が来るのですか?」


 首を傾げるアンナリーザの姿は、見えないはずだけれど。彼女の疑問はごく初歩的なものだったのか、ユリウスは楽しそうにくすくすと笑った。


「もう、いますよ。間に合って、良かった」

「え……?」


 木の幹越しに、ユリウスの表情を窺おうとした時──アンナリーザの視界を、煌めく色彩の渦が襲った。


「わ──」


 その煌めきの源に目を向ければ、万華鏡の中身を空から振りまいたような、絢爛な輝きがいた。目を射る金属質の碧や翠、ちらちらと舞う黄色や紅。その身にまとう煌びやかさを見せつけるように、数知れない蝶たちが空を目指して力強く翅を動かしていた。上から下へ──では、彼らは地面に留まって休んでいたのだろうか。はばたきに目を凝らすと、翅の裏側は暗い色をしているのが見て取れた。翅を閉じて身動きしていない状態だったら、アンナリーザには見つけることができなかったかもしれない。


「蝶は、気温が低いと飛ばないんです。日が昇ってしばらくして、翅が温まると一斉に飛んで花を探す──大陸の蝶と同じ生態ですが、これほど見事なものとは……」


 声の調子で、ユリウスがこちらを向いたのが分かったので、アンナリーザは慌てて木の幹の後ろに隠れた。ショールをかき寄せた彼女の頭上に、極彩色の煌めきがまだ降り注ぐ。イスラズールが産するすべての宝石を集めても、太陽と蝶が作り出すこの輝きにかなうかどうか。


(ドレスを着て、髪を結って──ちゃんとした格好で、ユリウス様と見たかったわ)


 改めて、軽率な行動を悔やんでいると、ユリウスがごくさりげない調子で続けた。


「宝石の蝶はもう身に着けないご様子でしたから。生きた蝶をお贈りできて、良かった」

「……っ」


 さりげなくて──でも、彼がとても慎重に言葉を選んだのが分かったから、アンナリーザは唇を噛み締めて驚きの悲鳴を呑み込んだ。やっぱり、距離を取って身体を隠しておいて、良かったかもしれない。真っ赤になった顔を、彼に見せなくて済んだから。


「……申し訳ございません。ご心配をおかけしました。私は……エルフリーデ妃に感情移入してしまっているのだと、思います。遺した御子が、ご夫君の……あの、愛人である女性を母と呼ぶだなんて」

「我が国の王女であった方ですから、嬉しいお心です」


 アンナリーザが絞り出した言い訳は、苦しいものだったろうに。理屈としてはそう的外れだとしても、会ったこともない、名前しか知らないはずのエルフリーデにここまで心を重ねるのはおかしいだろうに。ユリウスは深く追求することなく、頷いてくれたようだった。その優しさが、アンナリーザの心を鎮めてくれる。もしかしたら、爽やかな朝日や鮮やかな緑、朝露の香りよりも、ずっと。だから、決意を言葉にしても、声が震えてしまうことはない。


「……でも、私は何も知らないことに気が付きました。ですので、クラウディオ殿下ともう一度お話しようと思います。非礼をお詫びして──できることなら、良い関係が結べるように」

「使節の長はアンナリーザ様です。ですので、御心に従いましょう。私は、貴女をお守りして支えます」

「ありがとうございます……!」


 昨日からずっと、ユリウスこそ不安だっただろう。言いたいことも聞きたいこともあっただろうし、苛立ちもしたし、疑問にも思っただろう。なのにこの方は、どこまでも辛抱強く礼儀正しい。それが申し訳なくて嬉しくて──目の奥が熱くなって、アンナリーザはショールで顔を覆った。暗くなった視界にも、蝶の翅の絢爛な眩さがいつまでも閃いていた。




      * * *


本年最後の更新でした。絵的にもアンナリーザの心情的にも綺麗な場面で区切りにできて良かったです。また来年もお付き合いくださいますようお願いいたします。


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