第6話 海を越えても空の色は同じ

 サトウキビ畑を抜けたアンナリーザたちは、町はずれの丘に建てられた小屋で休憩することにした。小さいながらに清潔に保たれたその建物は、収穫期に農夫が泊まったり、獣に作物を襲われないよう見張ったりするためのものだろう。


(森が、近いのね……)


 高台に至ると、よく分かる。秘宝の街テソロカルトにおいて、人が開拓した範囲はまだまだ小さく、自然の力はあまりにも強大だった。その名の通り、この街は森の中に輝く一点の宝石、大自然の中の唯一の文明の光に思える。ほかの街への道も通っているはずだけど、密に生い茂る枝葉によってまったく見えなかった。恐らくは王都には知られていない道だから、あるていどはわざと隠しているのだろうけれど。


(イスラズールが砂糖や香辛料の産出国になれる? ほかの地域も同じように開拓できるなら──この国の本当の富は宝石でも鉱山でもないことになる……)


 豊かな土地と水と、温暖な気候。《北》の大陸の冒険者が最初に入植したために、また、なまじ鉱物資源が発見されたために、誰もイスラズールの本当の価値を評価することができなかったのだ。それを見出したのが──少なくとも、あるていどの形になるまで掘り起こしたのが──クラウディオだというなら、彼はまさしくこの国の王になる資格があるのだろう。


(なのに私は、彼に無礼な態度を取ってしまったわ……)


 前世のことは、彼女の個人的な感傷に過ぎない。彼女は、今世の祖国マルディバルの利益こそを代表しているはずなのに。壮大な眺めのはずの色濃い緑の密林も、整然と並ぶサトウキビのうねも、今の彼女には見蕩れることなどできそうにない。


 露台に設けられた椅子に座り込んだアンナリーザ溜息を堪えていると──目の前に、何か液体の入った陶器の杯が差し出された。顔を上げれば、フアナの若草色の目が微笑んでいる。


「どうぞ──アンナリーザ様も。サトウキビを絞ったものです。お酒よりも甘いでしょう」

「ええ……」


 言われるがままに杯に口をつけると、爽やかな青い香りのある甘い液体が乾いた喉に染み込んだ。砂糖の強い甘味よりはあっさりとしていて素朴な味わいだ。先ほどの料理はろくに味わえなかった分、心までも潤う思いだった。


 干した杯を膝の上に弄びながら、アンナリーザはどこまでも続くかに見える密林の、遥かその先を思って目を凝らした。空の青と緑がぼんやりと混ざり合う彼方に、レイナルドやマリアネラがいるベレロニードが、さらには祖国へと通じる海があるはずだ。そしてそこは、間もなく混乱と緊張に見舞われるであろうことを、彼女は知ってしまっている。


(ディートハルト様たちはいつ到着されてもおかしくない……。レイナルドとの間には、衝突が起きると見て間違いないでしょう。しかも、ディートハルト様たちはクラウディオたちの動きを知らない……)


 《海狼ルポディマーレ》号には、離れ離れになってしまったマルディバルの侍女たちも乗っているはずなのだ。フアナが案内してくれる光景が長閑で平穏なものであればあるほど、自分だけが安全な場所にいるのが申し訳なくて居たたまれない。


「ユリウス様は、イスラズールの自然に興味がおありとか。でも、すぐに暗くなってしまいますし、森は詳しい人がいたほうが良いですから、明日まで我慢してくださいませ」

「そうですね、ここまで来たのだからそれくらいは何でもないことです」


 船に乗っている時は今にも飛び出しそうだったユリウスが、控えめに頷くだけなのも、きっとアンナリーザに気を遣ってのことなのだ。彼だけでなく、フアナもベアトリーチェも、彼女の表情をちらちらと窺っているのが分かる。宝石の蝶を見たとたん、そしてマリアネラの名を聞いたとたん、アンナリーザが態度を硬化させた理由を、彼らも測りかねているのだろう。


(とても潔癖だとでも思われているのかしら……)


 特にユリウスにとっては、自国の王子ディートハルトの安全を図るためにも、アンナリーザを説得したいところだろうに。あえて口に出さずに見守ってくれている、そんな腫れもの扱いもまた彼女の心を沈ませていた。傍目には訳の分からない理由で我が儘を言っておいて、勝手なことだとは重々分かっているけれど。


 フアナの言葉通り、そうこうするうちに夕闇は着実に迫って来ていた。ねぐらに還るのだろうか、赤く染まった空を切り取る鳥の影は、奇妙に大きい。ゲルディーヴが船上から銃声で驚かしたのとは違う種なのかどうか。翳り始めた光の中では、彼らの羽の色ははっきりとは分からなかった。


「ここでは夕焼けの色も濃いように思います。夜の暗さも……」


 ぽつりと呟いたベアトリーチェの声には、畏敬の念が込められているようだった。船の甲板から望むのと、間近に密林を感じるのでは、自然の存在感がまるで違うからだろう。


「そうなのですか? 大陸では空や太陽の色が違うのでしたら、とても興味深いことです」


 一方、フアナの微笑みはずっと変わらず朗らかで明るいものだった。彼女にとっては日常の光景だからだろう。そして──イスラズールと大陸と、両方の地で暮らした記憶を持つアンナリーザは、密かに思う。


(そうじゃない……空も太陽も同じなのよ。見る者の思いが違うだけで……)


 前世の彼女エルフリーデは、最後まで故郷の空を懐かしみ、イスラズールの荒々しい自然を恐れていた。けれど、今世の彼女アンナリーザとして改めてこの大地を眺めれば、分かる。空は空、太陽は太陽であって。色が違って見えるとしたら、見る者の目が恐怖や不安、期待や好奇心なんかのヴェールで覆われているからだろう。だから、同じものが良くも悪くも見えるのだ。


(私は、マリアネラをまっすぐに見ようとしたかしら?)


 答えは否、だ。少なくとも、この二十年の間にあの女が何を考えて何をしてきたか。何を思ってアンナリーザに宝石の蝶を贈ったのか。それを確かめないことには、信じることも警戒することも、正しい判断とは言えないだろう。


「アンナリーザ様。足もとにお気をつけて」

「ありがとうございます、ユリウス様」


 アンナリーザが物思いに沈むうちに、一行は開拓伯コンタ・ピオネロの──クラウディオの館に戻ることになっていたようだった。とはいえ、彼が客、あるいは虜囚と晩餐を共にすることはないだろう。昼間の一幕があった後では、冷静な話ができないと思われてしまったはず。


(私も……すぐに、とはいかないわ。もう少し心を落ち着けて、整理しないと……!)


 彼との対話で、またも感情的になることがあっては、今度こそ見限られてしまいそうで、怖いから。でも、それでも。前世の息子クラウディオとマリアネラについて話をしようと考えることができただけで、大きな一歩のはずだった。


      * * *


 翌朝、アンナリーザは空にまだ朝焼けが残る時間にそっと寝台を抜け出した。部屋に用意されていた水で顔を洗い、髪を軽く手櫛で梳いて。寝間着にショールを羽織った格好で、部屋を出る。隣室のベアトリーチェや、使用人に気付かれることがないように、そっと。


(ひとりで、イスラズールを見ておきたいわ。どんな時間の、どんな色も)


 また、知らない人や会ったばかりの人たちに囲まれる前に、気持ちを落ち着けておきたかったのだ。思えば、航海の間から、ひとりきりの時間を長く持てていなかった。王女に生まれて、常にかしずかれるのに慣れた身ではあっても、さすがに気疲れをし始めてもいると思う。朝の清涼な空気は、きっと心を鎮めてくれることだろう。


 木々の影を渡るようにして庭──というか、畑と地続きになっているようでもあった──を散策するのは、楽しかった。真っ青ではなく、夜の薄紫色を仄かに残した空の色は美しく、朝露に濡れた草葉の香りも爽やかで。日の光に目覚め始めたのであろう鳥の声も可愛らしいし、蕾を膨らませた花は今にも綻びそうで瑞々しい。花弁の色が知りたくて、蕾をつついて開花を促そうとした、その時だった。


「──アンナリーザ様……!?」


 背後から不意に名を呼ばれて、アンナリーザは熱いものに触れたように手を引っ込めた。慌てて後ろを向けば、ユリウスが目を丸くして彼女を見つめている。アンナリーザ同様に、起き抜けと思われる砕けた装いで。


(私と、同じ……?)


 そう──彼女は、貴婦人にあるまじき軽装でうろついていたのだ。そうと気付いて、たちまち頬が熱くなる。


「あ、あの、これは……っ」


 これは、どういうことなのか。上手い言い訳も思いつかないまま、アンナリーザは必死にショールを身体に巻き付けた。

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