第5話 積もった不信は目を曇らせる
サトウキビというものは、人の背をはるかに越える高さに生い茂るものだと、アンナリーザは初めて知った。彼女が目にするのは、白く精錬された状態の砂糖だけ。というか、それを使った菓子や料理だけだったから。
サトウキビ畑の中に足を踏み入れると、昼間だというのに頭上を覆う葉によって薄暗く感じるほどだった。一方で密接して立ち並ぶ茎は風を通さず、蒸し暑さにじんわりと汗が滲む。
アンナリーザとユリウス、そしてベアトリーチェを引き連れて案内してくれているのは、フアナだった。若いのに淀みなくすらすらと語れるあたり、やはり彼女は聡明だしクラウディオの信頼が篤いのだろうと思わせる。本当に、
「収穫時期になると、総出で刈り取るのです。そうして砂糖やお酒を造ります。あの、葡萄だとお酒にするとそれ以外の用途には使えないのでしょう? けれど、あのお酒は砂糖を生成する過程でできる廃糖蜜から造りますの。ですから、効率的な作物ということになりますわね。
「輸送費を考えたら割高な商品になってしまうのでは?」
「はい、確かに。ですけど、海賊が堂々と仕入れることができるということも利点のようです。あとは、あの、クラウディオ様がイスラズールの王位を得れば宝石なんかも扱えるようになると期待しているようで……」
「なるほど。先行投資を兼ねてもいるのか」
ユリウスが、本来アンナリーザが問うべきことを代わりに尋ねてくれているのも申し訳なかった。今の時間は物見遊山ではなく視察であって、クラウディオを戴くイスラズールが同盟や交易の相手たり得るのかを確かめるためのものなのだろうから。
(でも、今は無理なの……)
心の中で何度目かの溜息を吐いて、アンナリーザは先ほどの食堂での一幕を思い返した。ひたすらに味気なく気まずい、歓迎の食事のひと時を。
サトウキビの茎の間を通って吹いた風が、アンナリーザの髪を揺らした。あの時彼女の髪に留まっていた蝶は、今は再会した片翅と共に箱に収められている。
* * *
眩い宝石の蝶、その片翅を凝然と見下ろすアンナリーザのことを、クラウディオは単純に驚いていると思ったのだろうか。彼女は、翅を彩る宝石の一粒一粒に魅入られたように首を動かすことができなかったから、彼がどんな顔をしていたかは分からなかった。けれどたぶん、気遣う口調と声音だっただろうとは思う。
「
「確かに手紙を同封していただいていました。あれを、書いたのはどなたなのでしょうか」
クラウディオの言葉を遮って、アンナリーザは切り捨てるような口調で尋ねていた。無礼な態度に、彼が息を呑む気配には気付いていながら、取り繕うことができなかった。彼が──前世の息子が義母と呼び、我々だなんて言葉で同志であるかのように括るのが誰なのか──答えを聞くまでもなく、予想がついてしまったから。
「パロドローラ女公爵マリアネラ──父の、実質上の伴侶である方です」
それでも、その名をクラウディオの口から聞くと、アンナリーザは震えずにはいられなかった。彼女のただならぬ様子が不審だったのだろう、彼が身を乗り出す影の動きが、アンナリーザの視界の端に落ちた。
「大陸の方から見れば眉を顰める存在なのでしょう。それは、承知しています! ですが、私を気に懸けて、父から守ってくれた方なのです。義母も、イスラズールがこのままでは良くないと考えてくれています。頼もしい味方なのです!」
クラウディオは必死に言い募っていた。けれど、アンナリーザが聞いていたのは彼の声ではなかった。ずっと前に──
『王子様は健やかにお育ち遊ばしますわ。だから安心なさって』
死にゆく者にかけるにしては明るく、しかも何の根拠もないとしか思えなかった。だから
(
レイナルドは、あんなにもマリアネラを愛していたのに。あの女にも、血を分けた子供たちがいたのに。なのに──どうして、クラウディオはあの女を母と呼び、全幅の信頼を寄せているのだろう。
「殿下は、王の子として正当な扱いを受けているとは思えません。女公爵は、殿下のために何をしてくれたのですか」
生母に言及する時の、淡々とした口調と裏腹に、クラウディオはマリアネラのことになると感情を露にして言葉を並べた。それを踏まえると、マリアネラを批判すれば彼の心証を損なうことになるのだろう。それでもあえて口にせずにはいられないほど、アンナリーザの混乱は深く疑問は大きかった。約束を守ってくれた、息子を庇護してくれたと単純に感謝するには、
前世の自分と同じ色の目を見据えると、クラウディオは苛立ちに眉を寄せながらも答えてくれた。父親を思わせる表情には怯えるけれど、レイナルドよりは辛抱強く礼儀正しい……だろうか。
「
「女公爵がそこまで予見できたのですか? 正当な後継者を、王宮から遠ざけたかっただけではないのですか? 彼女にも子がいると伺っていますが?」
エルフリーデが知るマリアネラは、そのように広い見識を持つ女ではなかった。けれど、アンナリーザはこの二十年のイスラズールのことを何も知らない。マリアネラが変わるなんてことが本当にあり得るのか、クラウディオとどのように関わってきたのか。知りたいし、知りたくない。聞いたところで信じられない──信じたくない。何を言われても、彼女はきっと反論を探してしまっていたことだろう。
「……ご協力いただけなかったとしても、アンナリーザ様は必ずお国にお返しします。もちろん、お連れの方々も。とはいえ、それはベレロニードを
アンナリーザが心を閉ざしたのが伝わったのだろう、クラウディオがそれ以上の説得を試みようとしなかったのは彼女にとってもありがたかった。
「イスラズールの安定は、マルディバルが望むことでもあります。どうか信じてくださいますように」
信憑性がないことは百も承知でアンナリーザが述べると、クラウディオも形ばかりは頷いてくれた。こんなはずではなかったのに、と。彼も彼女もその点だけは思いを同じくしていたはずだ。そしてそうなってしまった責任は、傍目には訳の分からない理由で取り乱して機嫌を傾けたとしか見えないであろう、アンナリーザにこそあった。
「間もなく、マルディバルの船団がベレロニードに到着すると思います。……大陸に還るよりも、こちらに立ち寄ったほうが早いはずですので。彼らは父に抗議するでしょうし、父は聞かないはずで──その混乱に乗じる予定です」
だから──クラウディオは、ひとまずは彼女との対話を諦めたようだった。ゲルディーヴたちによる襲撃には、まだ意図が隠されていたことをさらりと明かしてから、彼はアンナリーザたちに領内で休養するように勧めたのだ。この
アンナリーザたちがサトウキビ畑にいるのは、つまりは同盟を結ばないなら反乱の詳細に関わる議論には参加させられないということなのだ。
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