第4話 蝶の翅は海を越えて巡り合う
ひゅう、と。ゲルディーヴが吹いた口笛の音でアンナリーザは我に返った。でも、口を抑えても、もちろん一度飛び出た言葉を取り戻すことはできなかった。彼女の
「アンナリーザ様……」
「少しくらい考えたりしないんだ?」
案じるような声をかけてくれたのはユリウスだ。ゲルディーヴは、こんな時でも面白がるように笑っている。けれど、非礼極まりない失言を犯してしまったのは彼女自身だったから、アンナリーザは少年海賊を睨む前に、クラウディオに対して目を伏せた。
「……申し訳ございません。つい……」
でも、これもまた失言だろう。つい、全力で断ってしまいました、では何の言い訳にもなっていないのだから。
(だって……
拒絶の本当の理由は言えないまま、アンナリーザは赤面して俯いた。可愛らしく利発なフアナが、クラウディオを慕っているらしいと知って喜んだばかりだったのに。給仕のために同じ室内に控えているフアナの心情を思うと申し訳ない──それも、彼女に叫ばせた一因だろう。
「いえ……強引なお招きだったとは──」
求婚を無下にされたクラウディオは、というと、頬を強張らせつつもゆっくりと首を振った。怒っているようではない。というか、これで怒っていたら
「……違いますね。お招き、などということ自体がお気に障っても無理はない。攫っておいて図々しいと思われているのでしょうね」
「突然のことでしたから……本当に申し訳ございません。殿下が良き領主であり、良き同盟相手になり得るとは存じております」
礼儀だけの問題ではなく、交易の国であるマルディバルの王女としても、あり得べからざる失言であり失態だった。こうなった以上は何を言っても白々しいだろう。アンナリーザはひたすら恥じ入り俯くしかない。
「その、アンナリーザ様はそもそもレイナルド陛下との間に縁談があったと伺っています。かなり年上の御方なのでお断りしたということなのですが。つまりは、今回の旅はあくまでも交易のためであって、婚約者を求めてのことではなかったので──だからこそ驚かれたの、ですよね?」
「は、はい。私は……そのつもりで
ユリウスの助け舟を幸いと、アンナリーザは慌てて頷いた。それを確かめてから、彼はクラウディオを鋭く見据えた。……アンナリーザが頼りにならないと見て、交渉役を買って出てくれたような気がして、申し訳なく居たたまれない。
「それに、話を切り出されるのが早かったのではないか、とも思います。便乗させてもらった身で、
ユリウスの眼鏡の煌めきを受けて、ゲルディーヴは軽く肩を竦めた。ご想像にお任せします、とでもいうかのように。けれどもちろん、彼は少年海賊にもったいぶらせるために時間を浪費することはなかった。
「ベレロニードに、協力者がいるのでしょうか。でなければ勝利を確定したかのように語れないと思いますが」
ずばりと切り込むユリウスに、アンナリーザは背筋を正した。これ以上足を引っ張ることがないよう、緊張や驚きを顔に出さないように務めたつもりだったけれど、成功しただろうか。
(そうだわ……ディートハルト様のことがあったわ……)
ディートハルトをイスラズール王に据えようとしていた勢力は、クラウディオたちでは
(敵の敵は味方になれるかと、思っていたけれど──)
レイナルドを玉座を引きずり下ろすことに関しては利害は一致するとしても、その先の、最終的な目標が完全に食い違ってしまう。ならば、クラウディオとディートハルトが戦うことになってしまうのだろうか。
アンナリーザが息を呑んで、忙しく首を左右させてふたりの貴公子を交互に見ていると──クラウディオの青い目が、剣呑な光を帯びて細められた。
「侯爵子息でいらっしゃるのだそうですね。──フェルゼンラングの」
フェルゼンラングという国の名を発音する時、クラウディオは微妙な含みを持たせた。その国の王女であった記憶を持つアンナリーザを、少なからず怯ませる声の調子だった。きっとユリウスもそうだったのだろうけれど──彼のほうがアンナリーザより気丈だった。
「はい。父は、母君ともご縁がありました。それで、私も貴国の動植物に興味を持ったのです」
「あいにく、母の記憶はありませんで──代わりに、貴国の思惑は何かと聞こえてきますね。
生母への情を感じられない前世の
(聞いている、ではなく聞こえてきている、なら──)
ユリウスの問いに、クラウディオは遠回りだけど応えてくれたようだった。彼はベレロニードの王宮に人脈がある。フェルゼンラングと密約する勢力がいることに、気付くことができる位置にある者に。それほどに、レイナルドの王としての威信は揺らいでいる。だからこそ突き崩すことは難しくない──クラウディオたちは、そう考えているのだ。
用意された食事からは、美味しそうな香りが漂っているのに。空腹を感じていたはずなのに。誰も手を付けることができないままだ。冷めつつある料理を余所に、ユリウスとクラウディオは探るような目つきで睨み合っている。
「私を拘束しますか? 父君に背くと仰る殿下が、どうして私を罪に問えるのですか?」
「時間稼ぎや攪乱にはなるかもしれません。父の注意を惹き付けることができれば」
ユリウスをレイナルドに引き渡す、と仄めかされて、アンナリーザは思わず腰を浮かせていた。弾みで酒杯が倒れ、残っていたオレンジ色の酒が卓上に流れる。──それにも構わず、彼女は声を上げる。
「止めてください! 私は──結婚するつもりはありませんが、イスラズールと良い関係を結びたいとは願っています。レイナルド王が玉座に相応しくないというのは、大陸諸国の総意でもあります!」
どうして、やっと会えた
「ユリウス様は、私の客人として乗船されたのです。……マルディバルが殿下への協力を約束すれば、この方に手を出さないでいただけますか」
アンナリーザが、せめて涙を零さないように必死に瞬いているのは傍目にも明らかだっただろう。ユリウスもクラウディオも、呆れただろうし困っただろう。けれど彼らは、観ない振りをする優しさを見せてくれた。諦めたように息を吐いてから、クラウディオはアンナリーザに向けて深く頭を下げた。
「……貴女には本当に申し訳ないと思っているのです。貴女の望まぬことはいたしません」
「……ご配慮に感謝申し上げます」
ぼそぼそと呟いて椅子に座り直すと、フアナがすかさず進み出て零れた酒を拭いてくれた。卓上が元通りに清められると、それを見計らったかのように、クラウディオはやや強張った微笑を浮かべる。
「不躾なことを言ってしまったのは──お目にかかるのを楽しみにしていたからだと思います。アンナリーザ様はご存知のないこと、私の勝手だったのですが。その、蝶の飾りを身に着けていただいていたので」
「これ、ですか……」
洗って、梳き直してもらったことで輝きを増したアンナリーザの金の髪に、宝石の蝶は今も静かに留まっている。外す理由もなかったからだ。
(この蝶のことを知っている……?)
今日は何回、そんなはずは、と思わなければならないのだろう。嫌な予感は、何度覚えても慣れるということはない。アンナリーザの脳裏に、蝶を収めた箱に隠されていた下手な筆跡の手紙が蘇っていた。文字だけでなく、文章としても稚拙な、あれを書いたのは、恐らく──
「フアナ。
「はい、クラウディオ様」
クラウディオの依頼に、フアナは明るく応えて軽やかに身を翻した。指示語だけで話が通じる上に対象の在り処も分かるらしいあたり、やはりふたりは仲が良いのだ。それ自体は微笑ましく嬉しいことなのか──でも、ならばフアナはどんな思いでクラウディオの求婚を聞いたのだろう。
アンナリーザが現実逃避のように考えていると、クラウディオが軽く身を乗り出した。ふたりの間には、広い卓と種々の料理が緩衝材になってくれている。彼とそれ以上近づくことがないのに安堵してしまうなんて。
「私は、本当に貴女のためにできる限りのことをしたいと思っています。父が、生母にしたようなことは絶対にいたしません。──ベレロニードに協力者がいるのも、父に対して勝算があるのも、これで信じていただけると良いのですが」
クラウディオの協力者は何者なのか──アンナリーザは半ば予想していて、けれど確信したくないと思っていた。もちろん、そんな願いが叶うはずもなく、フアナの軽い足音はすぐに帰ってきてしまう。
「こちらです」
「どうぞ開けてください、アンナリーザ様」
「ええ……」
クラウディオの言葉に従って、アンナリーザは渋々ながらフアナに渡された箱の蓋に手を掛けた。そして蓋を開けて──目を射る眩い煌めきに、泣きたくなるような目の痛みを感じる。
(ええ……そうよね、そうだったのよね……)
そこには、アンナリーザの髪に輝く宝石の蝶──それを鏡映しにしたような
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