第3話 イスラズールの本当の財宝
アンナリーザが湯浴みと着替えを終えると、窓の外に見える太陽は中天から少し下がったところに来ていた。太陽の巡りは海を越えても変わらないから、遅めの午餐の時刻だろうか。
「アンナリーザ様もドレスを替えられたのですね」
栗色の髪に艶を取り戻したベアトリーチェも、久しぶりの湯浴みでとてもさっぱりとした顔をしている。やや粗い麻で仕立てた簡素なドレスというかワンピースは、彼女にはどう評価されるのだろう。この地では流行を作ったり追ったりする余裕はないかもしれないし、
「ええ、清潔なもののほうが良いだろうと、フアナ──この子が」
アンナリーザの視線を受けて、赤金色の髪の娘はベアトリーチェに軽くお辞儀した。密林の奥の隠れた街で育ったフアナは、きっと宮廷風の、ドレスの裾を摘まむ礼を知らないのだ。けれど、そんなことは些末なことだ。礼儀正しさと客人への心配りとはきちんと伝わってくるのだから。
「お連れの御方と、
「女の身支度は時間がかかるものね、殿方を待たせてしまっているかしら。──どちらへ行けば良いの?」
「こちらへ──この建物は、
「まあ、ありがとう」
先導する仕草を見せたフアナの背に従って、アンナリーザとベアトリーチェは磨き上げられた廊下を歩み始めた。
* * *
食堂には、二十人ほどが座れそうな長いテーブルが鎮座していた。テーブルを撤去したとしても、街の名士を招いた晩餐会とか、夜会の類を開くにはやや手狭な気もする。この街では大規模な式典の類が行われることはないのか、別に会場になる建物があるのか、今日の席は内々のものだからか──アンナリーザには、分からない。それに、彼女の注意を惹いたのは、視覚ではなく嗅覚から入る情報だった。
(
焼き立てのパンや、肉の香ばしい香りに、瑞々しい果物の香りは、分かる。けれど、さらに香辛料の刺激的な香りも混ざっているのが意外だった。この地では、香辛料は首都ベレロニードから仕入れるか、ゲルディーヴたちの船から贖うかしか入手できないだろうと思う。いずれの手段も、大陸の市場よりも遥かな高嶺になるのはほぼ間違いない。
貴重な品をふんだんに使ってくれたのは、いったいどういう意図によるものだろう。純粋なもてなしの心だとしても申し訳ないし、懐柔しようということなら心構えをしておかないと。もちろん、相手の懐具合を勝手に推し量るのは非礼だし、外交の場においては何よりもまず自国の利益を守らなければならないのだけれど。
(外交の場に……なるのかしら? クラウディオと、話し合いができる?
すでに席に着いていた紅い髪の青年──クラウディオは、アンナリーザの視線に気づいたようで、すっと立ち上がった。しなやかな身のこなしは、きっとダンスや馬術で鍛えたものではない。フアナの話を踏まえれば、彼も身体を使った労働に従事することもあるのだろう。
「どうぞ、おかけください。大陸の宮廷に比べれば貧しい食卓でしょうが、心を尽くしました。イスラズールの恵みを、味わっていただけますように」
「お心遣いに心から感謝申し上げます。温かい食事は何よりのごちそうと、長旅で思い知ったところですの。イスラズールの味──とても楽しみですわ、クラウディオ殿下」
テーブルにはすでにユリウスとゲルディーヴも着いていたけれど、国同士の代表として語るべきはアンナリーザとクラウディオだ。ユリウスが、立ち上がっただけで目で挨拶の機会を譲ってくれたから、アンナリーザは
感慨に耽りながらアンナリーザが着席すると、目の前に置かれた陶器の──イスラズールでは磁器も貴重品だ──杯に酒が注がれた。
「では、まずは乾杯を。酒も、この
「先ほどフアナから聞いて、楽しみにしていたところです」
陶器の杯を覗き込むと、爽やかな酸味のある香りが漂ってくる。オレンジの香りだ。この果実は大陸でも南北を問わず広く栽培されている。イスラズールにおいても、航海中の壊血病の予防のために持ち込まれたのが根付いているのだ。だから、割材にオレンジを使っていること自体は驚くべきことではない。ただ、注がれた酒が濁りのない橙色をしているのが少し不思議かもしれない。
(お酒自体は色が薄いのかしら。イスラズールの果実ではなくて……何から作っているのかしら)
訝しみながら、アンナリーザは杯を軽く掲げた。今、テーブルに着いているのは、主人側にクラウディオとゲルディーヴ、客側にアンナリーザとユリウス、そしてベアトリーチェの五人だった。五脚の杯が傾けられて、各々が酒をだけの間、沈黙が降りる。──ううん、杯を置いた後も、客側の三人は戸惑いの目を交わして言葉を発することができないでいる。
(お酒の──この、味……)
オレンジの酸味と甘味の影に隠しきれない、独特の風味をアンナリーザはすでに知っている。その材料も、教えられた。それは、イスラズールにはないはずのものだったけれど──でも、ゲルディーヴは楽しそうに金色の目を細めて客たちの反応を眺めている。少年海賊の悪癖にはアンナリーザもさんざん苛立たせられている。
この顔は、彼の
「この酒は……飲んだことがありますね」
「さっすが! 偉い人は舌も肥えてるんだな? オレンジで割ってるのによく分かったな?」
それでもユリウスは、クラウディオに向けて言ったというのに。少年海賊は嬉しそうに身を乗り出して手を叩いた。その無作法に眉を寄せながら、アンナリーザもこの地の領主たる青年に説明を求める視線を送る。
「あのお酒は、サトウキビのお酒だと伺いました。けれどここで造ったものだということは──」
「イスラズールは、大陸の西に位置しています。が、南北で言えばかなり南に寄っているでしょう」
クラウディオの答えを聞いて、大陸からの客三人はそろって口を噤んだ。きっと三人ともが、海図を思い浮かべていたことだろう。そして、クラウディオの指摘は正しいと、確かめたことだろう。
「父王に
「まあ、二代目なんだけどな、俺もディオも。俺の
王子を勝手に愛称で呼び、しかも馴れ馴れしく顎で示すゲルディーヴは、行儀が悪いことこの上ない。けれど、当のクラウディオが表情を変えずに頷くだけだから、アンナリーザが指摘することもできないのが歯がゆかった。それに、彼らが重要な手札を見せてくれたのも分かる。それをどう使う気なのかも、想像がつく。でも──
(まさか。まさか……!)
今日になってからすでに何度となく繰り返した単語を、アンナリーザは頭の中で強く念じた。でも、彼女が何をどう考えたところで、相手の都合も思惑も変わらないのだ。
だから、クラウディオの青い目はしっかりとアンナリーザを捉えた。父親に似た強い眼差しで彼女を見つめ、決意を秘めた唇が、静かに動く。
「単刀直入に申し上げます。アンナリーザ様をお招きしたのは、求婚するためです。我が国の本当の富をお見せしたうえで、手を携えることができれば、と。金銀と宝石に加えて、砂糖と香辛料を産出する国との絆は、マルディバルとしても願ってもないものだと思います。ですから──」
クラウディオは、続けて反乱への助力や、今後の交易を申し出ようとしたのだろう。双方が得をする、とても妥当な提案だ。クラウディオは王位を、イスラズールは大陸との交易の窓口を、マルディバルは砂糖や香辛料の安定した輸入先を得ることができる。でも、王族として深く考える前に、アンナリーザは叫んでいた。高く短く、悲鳴のように。
「嫌です!」
* * *
当面、週1回水曜日の更新とさせていただきます。次回の更新は12月7日(水)です。
ご了承くださいますようお願いいたします。
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