第6話 主導権は誰の手に(一方そのころ《海狼》号にて)

 オリバレス伯爵が甲板に上がると、白い帆に反射した陽光が眩しく彼の目を射った。手を額にかざし、目を瞬かせるうち、逆光に黒く沈んでいた視界が海上の明るさに慣れていく。白い帆──ただし、あちこちに不格好なツギがあてられ、炎によって黒っぽくくすんだところも残っている。まったくもって忌々しい光景だった。彼の胸を、もう何度となく自問した問いがまた過ぎる。


(なぜだ? なぜ海賊どもがイスラズールの船を襲うのだ……!?)


 夜明け前のもっとも深い眠りを、悲鳴と怒号によって醒めさせられた不快かつ恐ろしい出来事から、もう二日も経っている。死者が出なかったことだけが不幸中の幸いで、怪我人の手当てに、帆や船体の修復のために、船団はその間ずっと大洋のただ中を無為に漂っていた。船団の長であり大陸側の代表者ということになっていたマルディバルのアンナリーザ王女と、フェルゼンラングのヴェルフェンツァーン侯爵子息ユリウスは海賊に攫われて水平線の彼方に消えた、らしい。らしいというのは、伯爵はその時船室に引き籠って隠れ──もとい、難を逃れていたからだ。


 この二日間は、事態の把握と取りあえずの収拾に、誰もが忙しかった。イスラズールの船も被害を免れなかったから、オリバレス伯爵も額に汗して動かざるを得ない場面も多かった。ほかの船も事情は似たり寄ったりで、だから今後のことを話し合う余裕はなかったのだが──それも、昨夕にひと通りのカタが着くまでのことだ。すべての船が航海可能な状態に復旧したからには、今後のことを考えなければならないと、船団の面々は昨晩眠りに就く前に合意していた。よって、伯爵は今後の方針を決めるための会議に出席すべく、いまだ旗艦船きかんせんということになっている《海狼ルポディマーレ》号に赴かねばならなかった。


「足もとにお気をつけて──」

「う、うむ」


 船と船の間に渡した頼りない板を橋にして《海狼ルポディマーレ》号に移動するのは、決して慣れない一大事業だった。海賊どもの襲撃に際して、海に落とされた水夫たちを目の当たりにした後ではなおのことだ。すぐに助けられるということも確かめてはいるが、海水に全身が浸かっても、船上では湯浴みもままならないのだ。助けられた者たちのべたつく髪や肌、それが漂わせる悪臭を思うと、伯爵には耐えられそうにない。


 震える足を叱咤して、一歩ずつそろそろと進みながら、伯爵は自分に言い聞かせた。


(最初が肝心だ、最初が……!)


 王女と侯爵子息は、もういない。いない人間は、船団の長たり得ない。これからの会議では、誰が船団を率いるか、意思決定を行うを最初に決めることになるだろう。《海狼ルポディマーレ》号の船長あたりが、我こそはと主張するだろうか。経験豊かな船乗りの意見は、確かに尊重されるべきかもしれない。それは認めよう。


 だが、もっとも高位の称号を帯びるのは、今やオリバレス伯爵その人だ。いかにイスラズールが新興の国といえど、真っ先に上陸して王に拝謁するのが粗野な船乗りだなどと、あって良いことではない。


(このままでは陛下に合わせる顔がない……!)


 イスラズールの船が、海賊に襲われたということだけでもあってはならないことなのだ。それだけでなく、大陸で仕入れた物資の一部は持ち去られた。何より、エミディオ王子の妃にと期待されていたアンナリーザ姫の行方が知れない。どれひとつとってもレイナルド王の勘気を被るのに十分な理由だった。伯爵は何も知らず、予見のしようもなかったことだなどと、聞き入れてくれる主君ではないのだから。マリアネラは親族である彼を庇ってくれるかもしれないが、事実上の妻の言葉も王の激しい怒りの前にどれほど効果があることだろう。


 せめて、何か失点を取り戻す手土産がなくてはならない。例えば──略奪を免れて船団が確保している交易品を、保護に対する謝礼の名目で無償で獲得する、とか。本来は交渉の上で対価を支払うはずの品を差し出させることに成功したなら、一応はイスラズールの国益に適うだろう。


 そのためには、恫喝してでも彼が主導権を奪わなければならない。強面こわもての船乗りたちと対峙することを思って、オリバレス伯爵の心臓は早鐘のようにうるさく鳴り続けていた。


       * * *


 《海狼ルポディマーレ》号に到着して、甲板に設けられた席に就いて。やつれ切った表情のマルディバルの侍女たちに葡萄酒を出され──乾杯も挨拶もそこそこに機先を制そうとしたオリバレス伯爵は、しかし思わぬに遭った。


「今──何と……?」


 喘ぐ彼の正面の席に、黒髪碧眼の見目良い青年が困ったように微笑んでいた。ユリウスの従者として、何度か顔を見たことがある、ていどの者が堂々と席を占めている理由は、当の本人が告げたばかり。だが、一度聞いたくらいではとうてい納得できるものではない。


「私は王子なんだ。フェルゼンラングの。今まで黙っていてすまない」


 受け入れがたいをもう一度繰り返されて、オリバレス伯爵は一同を見渡した。《海狼ルポディマーレ》号や、ほかの船の船長たち。その副官。主を失って途方に暮れているはずの、マルディバルの女たちやフェルゼンラングの従者たち。それらの面々が一様に頷くのを目の当たりにして、伯爵はようやく承服した。彼が対峙している青年は、《北》の大陸の貴種なのだと。


「……フェルゼンラングの王子が、イスラズールで何をするおつもりでしたか!? ラクセンバッハ侯爵あたりの差し金で、良からぬことを企んでおられたのでしょうな!」


 マリアネラの七光りで栄達した彼の一族にとって、フェルゼンラングは仇のようなものだ。仮に私的な利害を度外視するとしても、イスラズールがこの二十年に渡って大陸との交易から切り離されたのは、かの国の陰謀によるものだ。今回もまた、マルディバルを隠れ蓑にして暗躍していたとしか思えなかった。


(言われてみれば、あの女エルフリーデと同じ髪と目の色だな……!)


 オリバレス伯爵に睨めつけられて、ディートハルトと名乗った青年はおっとりと首を傾げた。


「それは──」

「殿下は貴国の風土に学術上の興味をお持ちだからです! 貴国とフェルゼンラングの間の不幸な経緯は、ディートハルト殿下には関わりのないことです」


 爽やかな貴公子が紡ごうとしたのは、開き直りか挑発か──《海狼ルポディマーレ》号の船長によって遮られたから、聞くことはできなかった。


「……うん。そういうことなんだ」


 ……だが、まさかこの青年は正直に目的を告げるところだったのだろうか。船長の異様な早口と、叱られたように首を竦めたディートハルトの仕草から、オリバレス伯爵はそんな埒もないことを考えた。そんなあり得ないことは、ともかくとして──


「これから、どうなさるおつもりですか。かような事態になった以上は、帰国なさいますか」


 海賊の襲撃以上に、フェルゼンラングの王子をベレロニードに連れ込むなどレイナルド王の怒りが恐ろしい。オリバレス伯爵が弱々しく尋ねたのは、いっそそうしてくれたほうがいくらかマシだ、という切望も混ざっていた。彼自身も囚われの身になるが──だが、どうせ囚われるなら、イスラズールの牢獄だろうとフェルゼンラング、あるいはマルディバルのそれだろうとさほど代わりはないのではないだろうか。


「まさか! アンナリーザ様とユリウスの行方を探さなければ。そのための体勢を整えるにも、予定通りイスラズールを目指す」


 凛として言い切られて、オリバレス伯爵は思わず息を呑んでいた。愛らしいアンナリーザ姫に、特別な思いを抱いていたのかどうか、碧い目に強い決意を浮かべたディートハルトはまさに王子然として、誇り高く威厳に満ちていたのだ。


「……だから伯爵、申し訳ないが貴方の身柄を拘束したい。アンナリーザ様を狙ったように攫った連中──我々のことを知っていたとしか思えない」


 だが、その気高い像も一瞬で崩れ去った。オリバレス伯爵に視線を戻した時、ディートハルトは最初と同じ、困ったような微笑を浮かべていた。彼を拘束することを、とてつもない非礼だと考えてでもいるかのように。


(世間知らずが……!)


 レイナルド王をよく知る彼にしてみれば、甘っちょろいことこの上ない。身に覚えのない嫌疑をかけられていると知って、伯爵は憤然と抗議した。


「私は何も知りません。海賊に襲われるはずがないと信じておりました。先日述べたことに嘘はございません!」

「うん。でも、アンナリーザ様たちのためには私が交渉の矢面に立たねば。貴方には──貴方の利害があるのだろうから」


 オリバレス伯爵の両側から、従者だか水夫だかが音もなく近づいて彼の腕を掴んだ。恐らくは、王女か侯爵子息が使っていた部屋にでも監禁されるのだろうか。イスラズール人はほかにもまだいるが、彼なしで抵抗を試みるほど気概のある者はいないだろう。責任を負わずに済む立場なら、早く故郷の土を踏みたいに決まっている。


 オリバレス伯爵は、力なくうな垂れた敗者の姿で甲板から引きずられていった。

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