第7話 歓迎の花束は空に赤く咲く

 アンナリーザは、薄暗い中で手探りでベアトリーチェに着替えを手伝ってもらっていた。あの襲撃の時を思い出す構図だけれど、彼女たちは今や海賊船で寝起きしているというところが大きな違いだ。


 ドレスの背中のフックを留めたり、編み上げ紐を締めたりしてもらいながら、アンナリーザはベアトリーチェにこぼす。


「呼ぶまで甲板に出るなって、呼んだら来いという意味だったのね。……それならそうと言えば良いのに」


 昨日の晩餐での少年海賊の発言を受けて、アンナリーザたちは今日は船室に籠っているつもりだった。彼女たちがいて不都合な時間があるなら、いっそ甲板に上がらないほうが話が早いだろうと思っていたのに。朝食も遅めの時間のほうが良いのかと思って寝坊をするつもりでいた彼女たちは、けれど激しく扉を叩く音で飛び起きさせられた。扉の外から大声で呼ばわったのは、もちろんゲルディーヴの声だった。


『お姫様たち! 遅いって! 早く上がって来なよ!』


 うっかり忘れそうになることもあるけれど、彼女たちは囚われの身で、海賊たちの意向には従うしかないのだ。船内を比較的自由に動けて、今のところは害を及ぼされていないといっても、彼らの機嫌を損ねれば分からない。だから仕方なく、人前に出られる身なりを整えているところだった。


 扉を叩く音が聞こえた時の驚きと恐怖を思い出したのか、ベアトリーチェも深々と溜息を吐いた。


「そうですわね。あの少年は人を驚かせるのが好きなようで……」

「やっぱり、そう思う?」


 アンナリーザ自身の身支度が済んだら、次はベアトリーチェの番だ。ドレスの着替えはひとりでできるものではないから、女ふたりを纏めて攫ってくれたことに関してだけは、ゲルディーヴに感謝しなければならない。いや、やはりそもそもこんなことをしなければ良かったのだからその必要はないだろうか。


「それに、焦らせるのも、ですわね。何度、後でのお楽しみ、と聞いたことか」

「もう予想できてしまうのに、ねえ」


 短い間にお馴染みになってしまったゲルディーヴの口癖を思い出して、アンナリーザとベアトリーチェは、顔を見合わせるとやっと少し笑った。その笑いの発作が収まったところで、アンナリーザは首を傾げた。


「……イスラズールに着いたのだと、思う?」

「ええ……私たちの耳を気にするなら、夜のうちに密談するほうが良いのでしょうし。珍しい光景があるのだとしても、海の上ではあり得ない訳ですから」


 ゲルディーヴのもの言いは、変化が少ないだけでなく分かりやすくもあるのだ。アンナリーザたちを驚かせたいのだろうとは分かるけれど、彼女たちが驚くようなこと、と言ったらこの状況ではあるていど限られてしまうのだから。


「日程から言えば、そろそろ到着してもおかしくないわね。ベレロニードではないにしても、陸地は見えるのかも……?」


 ベレロニードはイスラズールの東端に位置する。通常の航海なら真っ先に寄港するであろう場所だけれど、海賊船なら迂回しなければならないはず。それなら、予定の日数を少々過ぎたはずの今くらいが、まさに到着の時なのかもしれない。


「まあ、甲板に出れば分かるということなのでしょう。……驚いた顔の練習を、いたしますか?」

「いらないわ。新鮮な反応を見せてあげるのが良いでしょうから」


 もう一度、悪戯っぽく微笑み合ってから、アンナリーザたちは部屋を後にした。きっとユリウスも、ゲルディーヴに急かされて身支度を終えているころだろう。


      * * *


 船室を出たところで待っていたユリウスと合流して、アンナリーザたちは甲板への階段を上がった。すでに太陽は昇り切った時刻だ。扉を開いた瞬間に、眩しい太陽の光が彼女たちの目を射る。そして、耳に刺さるのは得意げに弾むゲルディーヴの声だ。


「ほら! すごいだろう!?」

「……まあ」


 悔しいからやすやすと驚いてやらないと、思っていたはずなのに。それでもアンナリーザは感嘆の息を漏らしてしまったし、目も、大きく丸く見開いてしまっていただろう。


 船舷せんげんから望むのは、もはや海と空の青と、少しばかりの雲の白だけではない。圧倒的な、そして鮮やかな緑の密林が、海賊船、《三日月アルヒラール》号の目の前に広がっている。予想していたことではあるけれど──彼女たちは、もうイスラズールの沿岸にまで辿り着いていたのだ。


 隣に佇むユリウスが、息を呑んでいる様子なのも当然だ。荒々しいほどの鮮烈な緑は、フェルゼンラングの針葉樹林の暗く濃い色や、潮風に耐えてやや褪せた風合いのマルディバルの丘陵のそれとはまるで違う。どこまでも瑞々しく、溢れんばかりの生命力で爆発するのではないかと思うほどの圧がある。海上にまで張り出した枝や、海水から伸びているのではないかという幹もあれば、ところどころに見える花も、大陸の種とは段違いに色濃く鮮やかで、しかも巨大だった。


(海からイスラズールの森を見るのは、初めてだわ……!)


 エルフリーデとして、イスラズールの自然を知っているつもりではいた。でも、華奢な靴を履いた貴婦人では密林に分け入ることなどできはしない。荒々しい生命力の植物たちも、王宮に持ち込まれればその魅力も力強さも半減させていたのだと、アンナリーザとして見て初めて知った。彼らがありのままに生を謳歌する圧巻の光景は、海路からでなければ見られなかったに違いない。


「ベレロニードに見られる訳にはいかないからさ、夜のうちに迂回してたんだ。すごいだろう?」

「イスラズールの沿岸を、南回りで行っているんだな? 北方は、鉱山が聳えていたはずだ」

「……ご名答」


 アンナリーザに話しかけたゲルディーヴは、彼女ではなくユリウスに問いかけられて少し不満げだった。あるいは、彼のことだから自分でこれから明かす情報を言い当てられたのが面白くなかったのかもしれない。


「目的地までは、まだあと何日かかかる。でも、ここまでくれば給水もできるし運が良ければ果物や新鮮な肉も手に入る。お姫様たちには朗報だろ?」

「え、ええ……そうね……」


 気がつけば少年海賊の金色の目が間近に笑っていて、アンナリーザは慌てて彼と距離を取った。宮廷の礼儀作法を知らないゲルディーヴは、時々不躾に女性の近くに踏み込んでくるから、困惑させられる。……例によって、驚く顔を楽しまれているのかもしれないけれど。アンナリーザの視線が密林から彼に移ったのを確かめて、ゲルディーヴは笑みを深めていたから。


「あと、お姫様に贈り物があるんだ」

「贈り物……?」


 ほら、またすぐに聞き返させようとする。ゲルディーヴは手ぶらで、ものを隠す余地もない甲板の上でいったい何を、と。軽く眉を寄せたアンナリーザに片目をつぶって、少年海賊は控えていた手下にちょいちょいと手を振った。船長の命令に従って駆け寄ったその海賊は、手に長銃を携えていた。


「何を……」

「まあ、見てなって」


 襲撃を思い出して表情と声を強張らせたアンナリーザたちに軽く笑って、ゲルディーヴは手下から受け取った銃を、緑の大地に向けた。──乾いた銃声が響き、アンナリーザの鼻に火薬の匂いが届いた。その、瞬間だった。


 密林の濃く鮮やかな緑に、無数の赤が散った。まるで、一瞬にして大輪の花が咲いたかのように。でも、その花のひとつひとつは空を舞っている。銃声に驚いた鳥が、隠れ場所から飛び出して華やかな翼を人間に見せてくれたのだ。

 サギくらいの大きさだろうか、意外と大きい彼らの中には、方向を誤ってかアンナリーザたちの頭上近くにまでさ迷ってくるものもいる。広げた真紅の翼に陽の光が透けて、青い空にとてもよく映える。甲板に赤い羽根が舞うのは、花弁が空から降るかのよう。

 ユリウスが震える指先を伸ばして、その一本を摘まむ。壊れやすい細工物を扱うような手つきは、彼にとってはその鳥の羽根がどんな宝石よりも美しく貴重だからなのだろう。アンナリーザも見蕩れて何も言えないでいるし、目を見開いて空を見上げるベアトリーチェの頭の中では、ドレスや装飾品の新しいデザインが渦巻いているのかもしれない。


 三者三様に驚きと感動を露わにするアンナリーザたちに、ゲルディーヴはなぜか胸を張って宣言した。


「イスラズールへようこそ、ってね……!」

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