七章 それぞれが向かう先は
第1話 青の只中で、途方に暮れて
アンナリーザたちを乗せた、まだ名前も知らない海賊船は、陽動に使ったらしいもう一隻と並んで大海原を進んでいる。見渡す限りの青い世界に、ほかの船の姿は、ない。共に旅してきた面々は、水平線の向こうに置き去りにされてしまった。
(みんな、無事かしら……!?)
アンナリーザに加えてユリウスもベアトリーチェも姿を消した──攫われたことはすぐに明らかになるだろう。救出の手が見えないのは、たぶん、海賊たちの船のほうが身軽で速度が出るから。それに、体勢を整えるのに時間がかかってしまったからだろう。
海に落とされた乗員の救助や怪我人の手当てが終わった時には、海賊船はすでに彼らの視界から消えていたのではないだろうか。海は広く、しかも目に見える道なんてないのだから、一度見失った後に航路を変えられれば追うことは非常に困難になる。
(数では勝っていたのに、してやられたのね……)
海賊船の船尾に立って、手すりを強く握りしめながら、アンナリーザは唇を噛んだ。彼女たちの立場は捕虜だか人質だか分からないけれど、最低限の見張りをつけられた上で放置されている状態だった。海賊たちは、戦利品の整理に忙しいようだし、海の上では逃げ場がないと見切られてもいるのだろう。ユリウスたちと引き離されていないのだけは、良いことに数えられるだろうけれど。
「ディートハルト殿下はご無事なのは、確かに見ました。ほかの者についても……その、殺す、よりは足止めをすることに注力していたようでした。突き落とされたのも水夫ばかりだったようですから、溺れた者はいないと思いたいのですが」
「ええ……そうだと良いですわ……」
太陽はすでに高く昇り、ユリウスの格好もはっきりと見て取れるようになっている。だから、恐らくは意識して明るい声を作ろうとしている彼の気遣いとは裏腹に、アンナリーザの胸が晴れることはなかった。
(ユリウス様もディートハルト様も……殿方は、いち早く飛び出して戦われていたのに)
いつもは月の光のように輝いているユリウスの銀髪は、今は乱れて毛先があちこちを向いている。寝起きにろくに梳けなかったのと、戦闘と、あとは最後の疾走のせいだろう。着ているのもシャツ一枚だけ。上着はおろか、ベスト《ウェストコート》を羽織る余裕もなかったようだし、そのシャツも灰や焦げで汚れているのが見て取れる。眼鏡のレンズには傷がついていないようなのが唯一の慰めだった。
(私は、銃を持っていたのに戦えなかった……)
眉を寄せるアンナリーザの手を取って、ユリウスは微笑んだ。気にする必要などないと、言ってくれるかのように。
「お気を強く持ってください。私がいたところで何もならないのかもしれませんが。アンナリーザ様の盾を務めます。……お守り、しますので」
「ありがとうございます。……そうですわね、心が弱っては何にもなりませんものね……」
ユリウスの思いに応えるべく、アンナリーザは彼の指に自身のそれを絡めた。
彼に比べれば、暗闇で震えていただけのアンナリーザは何もしていないも同然だった。情けなさも後悔もあるけれど、でも、過ぎたことに思い悩むよりも「これから」を考えたほうが良いはずだ。
アンナリーザが決意したのを見計らったかのように、ベアトリーチェがそっと囁いた。
「……この船は……大陸に戻るつもりなのでしょうか……?」
「これから」についてというなら、とても重要な疑問だった。彼女たちを見張っている海賊の様子を窺いながら、アンナリーザは首を傾げる。
「そう、なのかしら……。家まで送り届けてくれるということなら良いのだけれど、ね」
虜囚たちが話している内容に耳を澄ませているのか、単にふだんは見ない身分の相手が気になるのか。見張りのむくつけき男たちは、にやにやと笑いながら何か囁き合っているようだ。勝手に見せ物にされているようで、アンナリーザにはそれも気に入らない。船の行き先が彼らの胸先ひとつに委ねられているということも、捕らわれの身の悔しさも、何もかもが。
(イスラズールは目の前だったのに……)
海賊たちの意図ははっきりとは分からないながら、ベアトリーチェが指摘した通り、大陸に戻る可能性は高いのだろう、とは思う。アンナリーザの身柄を利益に変えようとするなら、交渉相手はマルディバルになるのだろうから。イスラズールにとっても新しい交易国の王女は重要な存在ではあるけれど、
だから──アンナリーザたちは大陸に逆戻り、ということになるのだろう。彼女たちを殺せば複数の国を敵に回すことになるから──ここまででも十分に危ない橋を渡っているということはさておき──命が危険に晒される恐れはないと考えることも、できなくはないけれど。でも、アンナリーザはさらにその先まで考えてしまう。
(無事に帰れたとしても……お父様やお母様やお兄様は、二度と航海なんて許してくれない……!)
この件は、イスラズールとの交易を諦める理由にはならないかもしれない。海賊の横行はそもそも対処すべきことであって、その緊急性が改めて確かめられただけになるのかも。でも──あるいはだからこそ、王女を使節の先頭に立てようだなんてもう誰も考えない。彼女がクラウディオの、前世の息子の行方を知る機会はもう得られないかもしれない。
悪いことを考えてはいけない、と。頭では分かっていながらも、アンナリーザが俯きかけた時──場違いに明るい声が、彼女の感傷を打ち砕いた。
「待たせたな! こっちは片付いたから、話をしようぜ! 俺の名前も気になるだろ!?」
顔を上げれば、海賊の首領と思しき《南》の色を纏った少年が、満面の笑みで手を振っていた。
(貴方の名前なんて知りたくもないわ……!)
仲の良い相手をお茶に誘うかのように気軽に声を掛けられて、アンナリーザは思わず少年を睨んでいた。彼が軽く目を瞠ったのは、怯ませることができたのかと思いかけたのだけれど。
「あ……お楽しみのところ、悪かったかもだけど?」
……ユリウスと手を握り合ったままだったことに気付いて、アンナリーザは慌てて彼の傍を離れた。慎ましく両手を身体の前で重ねてみたけれど、王女の品位を保つのに間に合ったのかどうか。
「……伺います。これから
「はいはい、お姫様。どうぞよろしく」
毅然として告げたつもりのアンナリーザに、少年が応じる笑顔はどこまでも軽薄だった。
(絶対に油断しないんだから……!)
唇を強く引き結び、背を真っ直ぐに伸ばして。アンナリーザは少年の背を追って船室へと降りて行った。
* * *
海賊船の内部は、恐れていたよりも片付いていた。《
(慌てて片付けたとか……? まさか、ね……)
眉を顰めるアンナリーザとベアトリーチェに、こんな時でも好奇心を抑えられない様子のユリウスに。三者三様の眼差しで船内を見渡す彼女たちは、食堂に使われていると思しき一角に通された。船内の造りもまた、海賊船だろうと一国が所有船だろうとさほど変わらないらしい。
「腹減ってるだろ? 大したものはないけど、当分我慢してくれよな」
「まあ……」
大きなテーブルに並べられたのは、三人分の食事、なのだろう。エルフリーデとして味わった最初の航海でうんざりさせられた、硬いパンと硬い干し肉。それから強い酒精の香りを感じて、アンナリーザは悲しくなった。捕虜の待遇としては上々なのは確かなのだろうけれど、快適な航海にしようと心を砕いたのが無になったのを実感したのだ。
(これ……葡萄酒ではないのね。《南》のお酒なのかしら)
出されたものに薬が盛られていないかの懸念は拭えないし、知らない香りのすこし濁った酒らしきものに手を付けるのも憚られた。そもそも緊張で空腹を感じるどころではないし。ほかのふたりも同様なのか、誰も出された食事には手を付けなかったし、少年も強く勧めることはしなかった。
少なくとも毒ではないことを証明しようというのか、褐色の肌の少年は、得体のしれない酒を呷ると、三人の虜囚を見渡してにやりと笑った。
「俺はゲルディーヴ。この海賊団の船長をやってる。普段は南北大陸の間で
彼の名は襲撃の際に漏れ聞いていたし、容姿からして出自を聞いても驚くことはない。けれど、ゲルディーヴという少年はやけにもったいぶって間を置いた。まるで、アンナリーザたちが彼の話を聞きたくて仕方がないとでも思っているかのように。
「
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