第7話 無事に着くまでが航海です
イスラズールへの航海は、恐らく道程の半ばを過ぎただろう、ということだった。何しろ目印となる島がない大洋のことだから、航行してきた距離を正確に測るのは難しいけれど、旅してきた日数や、日々の風向きや風の強さ、波の高低を加味して総合的に判断するとそうだろう、ということだ。
「とはいえ、なかなか実感が湧くものではないですね……?」
「見える景色は、変わりませんものねえ」
首を傾げるディートハルトに、アンナリーザも苦笑で答えた。船長が誇らしげに報告してきたことに対して、さらりと疑問を呈することができてしまうのがこの方らしい。
射撃の練習をひと通り終えた後、アンナリーザはフェルゼンラングの貴公子ふたりと大空の下で茶菓を楽しんでいるところだった。《
首を巡らせてみても、見えるのは一面の青い海と青い空だけだ。目の前の大海原に比べれば海図なんてちっぽけなもので、だから今どの辺りにいるはずだ、なんて言われても我が身に置き換えて考えるのはとても難しい。
「アンナリーザ様、お暑くはございませんか。ご気分が優れないようなら、すぐに仰ってくださいませ」
「ええ、ありがとう。大丈夫よ」
侍女がアンナリーザの耳元で囁いたのは、実のところは屋内に入って欲しい、という要請だったのだろう。けれど気付かない振りをして、アンナリーザは笑顔で首を振った。イスラズールに近づくにつれて、気温は高く、陽射しも強くなっているはずだ。これも、一日ずつの変化は明確には感じられないけれど。だから侍女は王女の頬に染みやそばかすを浮かせたくないのだろうという心配は、分かる。
(羽根を伸ばし過ぎだと言いたいのでしょうね)
彼女自身、航海の日数を重ねるにつれて、日焼けへの警戒がなおざりになりつつ自覚はある。故郷の母が見たら、目を吊り上げるかもしれない。日光は髪や肌を容赦なく傷めつけるものと、マルディバルの貴婦人は幼少のころから叩き込まれるものだから。
(でも、息が詰まるのですもの!)
下ろした髪に指を入れて潮風に遊ばせながら、アンナリーザは遠くの母に向けて言い訳をした。船室に籠って縮こまるだけだった前世の旅路は、どう考えても心身の健康によろしくなかった。ユリウスやディートハルトとも気軽に言葉を交わせる仲になっていることだし、解放的な場所で鋭気を養いたいものだと思う。イスラズールに到着した後で、存分に手入れをすれば大丈夫、ではないだろうか。たぶん。
「鳥が見えたり、流木でも漂ってきたりすればいよいよ到着も近い、となるのでしょうが」
「ユリウス様にとっても、きっと喜ばしいことですわね」
「ええ、きっと」
満面の笑みで頷くユリウスは、陸地が近づいたら落ち着きなく甲板を右往左往するのではないか、と思えた。憧れの「新天地」を真っ先に視界に収める栄誉を逃すまいと、マストに登ったりもするかもしれない。
(イスラズールの動植物に、詳し過ぎると思われないようにしないといけないわね)
アンナリーザが持つエルフリーデの記憶ゆえに、喋り過ぎないようにしなければ。国益だの政争だのは関係なく、新しい知識に目を輝かせる彼を見るのは、きっと楽しいことだから。つい、口を滑らせてしまうかもしれない。
楽しみにすることばかりなら良かったのだけれど──あいにく、懸念すべきことも依然としてあった。
「……海賊に襲われる心配も減ると、考えても良いのでしょうかね?」
「ええ……その、はずなのですけれど」
ディートハルトは、話の間を埋めようとしただけだろう。アンナリーザもユリウスも、曖昧に頷くことしかできないのは彼も分かっているはずだ。それでも口にせずにはいられないほど、二回の幽霊騒動は航海団の間に不可解な謎としてわだかまっている。
(あれ以来姿を見ていない、けど……)
官憲の追及を逃れて逃れてさ迷ったり潜伏したりしている海賊船なら、大陸の沿岸を遠く離れることはないはず。一方、イスラズールと密貿易に従事している船ならば、目的地が近い場所で略奪を行う可能性は低いだろう。オリバレス伯爵の主張を信じれば、イスラズールの不興を買えば港から締め出されるということだし。
「では──あれは、幽霊だったのですかねえ。もしもそうなら、直に見ることがなかったのがもったいないような気もします」
「まあ、ディートハルト様は勇敢でいらっしゃいますのね?」
「珍しいものなのだから、せっかくだから見ておきたいと思いますね。ユリウスなら分かるのでは?」
「さあ……私の興味は、実在の動植物に向いているので」
船の上でできるのは、雑談の種にしつつも警戒を怠らないようにする、くらいだろう。だから落ち着かない気分のまま、アンナリーザたちも少しずつ違った角度で話題に出すことしかできないのだ。
(もっとイスラズールに近づけば……到着した時のことで頭がいっぱいになるはずよ)
海賊にしろ幽霊にしろ、姿が見えない相手だ。一方で、イスラズールにいるレイナルドもマリアネラも──そして願わくばエルフリーデの息子のクラウディオも。現実の存在として彼女たちの前に現れるはずだから。ううん、今だって、アンナリーザたちは到着してからを視野に入れて頭を寄せ合っている。
「──では、昨日の続きに入りましょうか」
「はい。お願いいたします」
ディートハルトが茶器を置いて切り出すと、アンナリーザとユリウスはそろって頷いた。従順な生徒のように──いや、事実、ここからはディートハルトが教師で残るふたりは生徒だった。
「フェルゼンラングに同盟を求めた有力者の名は昨日お伝えした通りです。今日は、その者たちの領地をおさらいしてみようかと。──万が一の際は、逃げ込むことになるかもしれませんから」
冗談とも本気ともつかない口調で怖いことを言いながら、ディートハルトは微笑する。彼は、国の機密であるイスラズールの内情を、アンナリーザとユリウスに共有してくれようというのだ。もちろん、フェルゼンラングと結びたがっている者たちが提供してきた情報だから、イスラズールの現状を完全に反映しているかどうかはまた分からないのだけれど。
(とても、信じてくださっている……私たちは、友情で結ばれたと思って良いのかしら)
大陸から遣わされた王族や貴族同士ということで、知らない土地でいかに上手く立ち回るか、という意識は少なくとも芽生えていると思う。あるいは危機感、だろうか。海賊船または幽霊船の出現に、オリバレス伯爵の今ひとつ信用できない言動に。打てる手は打っておかなければ、と誰もが思っているのだろう。
「退避する時間と手段が残されていると良いですね」
「本当に」
ユリウスとアンナリーザの相槌もいささか物騒なのは、たぶんそういう意識の表れだ。そして、アンナリーザが言葉少ななのは、エルフリーデの記憶と提示された情報を照合するのに忙しいから。
(レイナルドに背こうというのがこの方々だけなら──少ないかもしれないわね)
マリアネラを寵愛し、外交も内政も軽んじるレイナルドに眉を顰めていた者は、もっと大勢
(代替わりをした方もいるでしょう。様子を窺う構えなのかもしれないし──単純に、レイナルドに取り込まれただけなのかも)
出所を言えないものとはいえ、ディートハルトたちに情報を伏せるのは心苦しく、かといって二十年前の記憶をもとにして不確かなことをいう訳にもいかない。
(到着してから、折を見て少しずつお伝えするしかないかしら……?)
イスラズールの有力者たちと直に会えば、彼らの現在の考えを察することができるはず。今のところは、そう期待するしかなさそうだった。
* * *
アンナリーザは、波の音を子守歌に眠ることにもとうに慣れている。そもそもマルディバルの王宮でも微かながら潮騒は耳に届いていたものだし。海との距離と音の大きさの多少と、あとは波による船の揺れが違うだけ。嵐の時でもない限り、旅路の疲れは彼女を安らかな眠りに導いてくれてる。──これまでのところは。
(朝……? いいえ、まだ夜……?)
だから、目を覚ました時に辺りが暗かったのを、アンナリーザは不審に思った。太陽の光も感じないうちなのに珍しい、と。寝惚け眼で床に足をついて──でも、甲板から悲鳴のような怒号のような声が聞こえて一気に覚醒する。
「何が──」
彼女の悲鳴を遮るように、寝室の扉が慌ただしく開いた。飛び込んで来たのは、ベアトリーチェだ。薄闇の中にぼんやりとした輪郭しか見えないけれど、早口に囁く声で分かる。
「アンナリーザ様……! どうぞ、お気を確かに。できるだけ静かに、お着替えだけ済ませてください」
「……何があったの?」
高まりそうになる声を必死に抑えて、アンナリーザはほとんど吐息だけで問いかけた。その間にもベアトリーチェは手探りで衣装箱を探っている。無事に発見したらしい布の塊──コルセットか何か──を手にした彼女は、かつてなく強張った声で応えてくれる。
「襲撃でございます。未明の闇に紛れて、
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