第8話 暗闇の中、息をひそめて

 闇の中で、アンナリーザは手探りだけでどうにか着替えを済ませた。船室には窓もなく、月や星の光も入って来ない。どんなに目が慣れても、室内の調度は黒い影の濃淡でしか捉えることはできなかった。ただ、手触りからして麻のドレスだろう。動きやすく丈夫な生地を引き当てたのは、たぶん幸運と言えるだろう。


「おみ足を、失礼いたします」

「ええ、お願い」


 銃鞘ホルスターを足首に巻き付けて拳銃を収めると、その重さと冷たさを意識せずにはいられなかった。練習の成果を試す機会が、こんなに早く来てしまうかもしれないなんて。毎晩、枕元の同じ場所に置いておいたのが役に立つことも、想像したことさえなかった。


「えっと、襲撃って──」


 目が見えない代わりに耳を澄ませながら、、アンナリーザは口を開いた。甲板から聞こえる声は、悲鳴ではなく命令のような調子になっているようだ。つまりは、明確な意味を持って水夫たちに指示を与える者がいる。船長なのかユリウスなのかディートハルトなのかは分からないけれど。それなら、銃声が聞こえるのも一方的に攻撃を受けているのではないと考えても良いのだろうか。


 船内でのやり取りが外に漏れることなどないだろうから無意味なのだろうけれど、アンナリーザは声を潜めてベアトリーチェに問いかけた。


「海賊、なの? 例の幽霊船が、幽霊ではなかったということ……!?」

「詳細は、まだ何とも。ああ……襲撃と言っても、この《海狼ルポディマーレ》号ではございません。申し訳ございません、動転して、順序が……」


 アンナリーザが縋って伸ばした手を、ベアトリーチェはぎゅっと握り返してくれた。その力強さと声の震えに、やはり異常な、危険な事態が起きているのだと思い知らされる。報告する内容に混乱があるのも、いつも冷静な彼女らしくないことだ。


「良いのよ。では、ここはいくらか安全なのかしら。皆様がいれば大丈夫、よね……? どの船が襲われているのかしら」


 侍女たちの不安を宥めて、男たちの足を引っ張る行動を取らせないこと。置かれた状況を把握すること。いずれも、形ばかりでも船団の長に据えられた者としては必要なことのはず。そう信じて、アンナリーザは震えそうになる声を抑えて問いを重ねた。


(来てくれたのがベアトリーチェで良かった。きっとすぐに冷静になってくれる……!)


 ほかの侍女たちの安否も気になるけれど、急かしても良いことはないだろう。落ち着きさえすれば、ベアトリーチェは順を追って説明してくれるはずだ。


「……襲われたのは《金波オンダドーロ》号だそうです。そう……仰る通りですわ。ですからここはまだ安全のはずです。船体を、この船を囲むように組み替えるのだと、船長が言っておりました」

「そう……」


 《金波》号は、ユリウスの──というかヴェルフェンツァーン侯爵家の出資で仕立てた船だ。それなら、海賊の脅威を笑い飛ばしていたオリバレス伯爵の船とは違って、十分に武器を備えていたはず。《海狼》号の船長の指揮も行き届きやすいだろう。これは、不幸中の幸いなのかもしれない。


「ディートハルト殿下とユリウス様は、銃を取って甲板に向かわれました。場合によっては船を飛び移って加勢するかもしれないと」

「そうなの」


 でも、すぐに続けて明らかに危険な情報を知らされて、アンナリーザの声は翳る。襲撃についての報告を、彼女は後回しにされたのだ。それとも、殿方に比べて彼女は油断していたのか。アンナリーザが寝ている間に、貴公子たちはいち早く夢から醒めて飛び出して行ったのだ。


(ユリウス様。ディートハルト様。勇敢だけど──戦場に出たことはないのでしょうに)


 口に出して騒ぎ立てるのは辛うじて我慢することができたけれど、手に籠った力によって、ベアトリーチェに不安が伝わってしまわなかっただろうか。


「相手は恐らく海賊で、装備がこちらを上回る可能性は低いと、船長は言っておりました。積み荷狙いなのですから、沈没させられたり、深追いされたりする恐れも少ないだろう、だから追い払いさえすれば、と──」


 さすがというか、ベアトリーチェの声は次第に落ち着きを取り戻していっていた。彼女の、あるいは船長が言うのももっともだ。これは国同士の海戦ではない。海賊は金目当ての盗賊であって、命に代えても相手を追い詰める理由も戦意もないはずだ。その理屈に納得できると気付いたからこそ、彼女の手は震えるのを止めて、温かくしっかりとアンナリーザのそれを包んでくれているのだろう。


(普通なら、なのでしょうけど。航海の半ばを越えたところで襲ってきたのは──ずっと機会を窺っていたの? 出航から──いつから、どこから? それは、すさまじい執念ではないのかしら)


 小娘が思いつくていどのことを、船乗りの誰も気づいていないとは思えない。でも、きっと口にしても仕方のない類のことだ。余計なことに思考を割いては仲間の犠牲が大きくなるだけ。まして、アンナリーザが甲板に出たところで敵にとっての良い的になるだけだ。


「ですので、どうかお気を確かに。今しばらくのご辛抱ですから。ほかの女たちも、邪魔にならぬように部屋に籠っております。ただ、殿方が報告に上がった時に、王女殿下が寝間着という訳には参りませんから」

「ええ、ありがとう。……寝ている間にすべて終わってくれれば良かったのだけど、どうなるか分からないものね?」


 今の彼女にできることはないと、確認することができただけでも上々のはずだ。そう自分に言い聞かせて、アンナリーザは無理矢理に声を弾ませた。暗闇の中、微笑むことまではしなくても相手に知られないであろうことも幸いだった。


(冷静だと……心配いらないと、思ってもらわなくては……!)


 お姫様を宥めるために人手が割かれるようなことは、あってはならないのだから。ベアトリーチェとふたり、皆の無事を祈りながら待つしかない。本当は、心臓は破裂するのではないかというほど高鳴って、口の中は緊張によってからからに乾いているけれど。


「はい、アンナリーザ様。ですがきっと──」


 ベアトリーチェも、多かれ少なかれアンナリーザと同じ心境だったのだろう。だから彼女の震える声に気付かぬ振りをしてくれた。きっと大丈夫だと、言ってくれるところだったのだろうと思う。でも──


「王女殿下! お目覚めですか!?」


 扉の外から男の大声がして、アンナリーザはベアトリーチェとふたりして跳び上がった。《海狼ルポディマーレ》号の船長か、それともほかの水夫か、フェルゼンラングの従者か──扉越しの、それも緊張を帯びて上擦った声では咄嗟に判断がつかなかった。


「はい。私は大丈夫ですから、皆様が最善と信じるようになさってください!」


 扉を開けたくなるのを必死に堪えて、アンナリーザは声を張り上げた。扉の分厚い木材は、彼女の不安も緊張も隠してくれると良い。外の者は、ランプなりを持っているかもしれないけれど、一度灯りを目にしたら再び遠ざけられるのに耐えられそうになかった。


「寛大な御言葉、恐れ入ります」


 声の主は、やはり船長だったのかもしれない。威厳ある丁重な口調からアンナリーザはそう判断した。


(それならなおのこと、早く指揮に戻っていただかないと……!)


 アンナリーザがそのように命じようとした時──けれど、扉の向こうの男は彼女を遮るように怒鳴った。


「取り急ぎ状況をお伝えいたします! 本船は新手の海賊船に襲われております。《金波》号は、陽動でした。……本船から護衛船が離れるのを、狙っていたとしか思えませぬ!」

「……っ」


 声にならない悲鳴を上げて、アンナリーザはベアトリーチェと顔を見合わせた。……見合わせようとした。暗闇では、相手の目の位置さえ分からないのだ。


「我らで応戦いたします。ほかの船に出向いた手勢が戻るまでの、ほんのひと時の辛抱です。ですから、くれぐれもここにいて──扉を塞いでいてくださいますよう!」

「分かりました! 言われた通りにしますから!」


 室内の調度は、衣装箱と小さな椅子と机と──扉を塞ぐには心もとない上に、手探りでどこまで動かせるか。見慣れたはずの部屋の光景を思い浮かべながら、アンナリーザは跳ねるようにして扉に近付いた。そして思い切り息を吸い、出来る限りの大声を張り上げる。


「私の声が聞こえた者もその通りに! 足手まといになることがあってはいけません! ご武運をお祈りするのです!」


 船長は、侍女たちにいちいち説明する時間の余裕を持てないだろう。アンナリーザ自身も扉を開ける訳にはいかない以上、誰かの耳には届いたこと、部屋から部屋へと伝言してもらうことを願うしかない。


「御言葉に感謝を。──それでは」


 素っ気ないほどの短い挨拶を残して、扉の向こうの気配は消えた。甲板から聞こえる銃声や怒号は、先ほどよりも近づいているのかどうか──脈打つ鼓動の音がうるさくて、アンナリーザには分からなかった。


 ただ、足首に下げた拳銃の重さが恐ろしかった。

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