第6話 無為の時を取り戻すために(アルフレート視点)
「……は?」
何を言い出すのだ、と。疑問と不審と苛立ちを込めたアルフレートの呟きを意に介さぬ様子で、カール侯爵は続けた。息を吐くついでに茶を飲み干し菓子を平らげる余裕もある。無論、その所作のひとつひとつはまったく無作法なところのない、洗練されたものなのだが。だが、悪名高い
「率直に申し上げて困っているのだ。我が家は別に困窮している訳ではないが、当座に動かせる金がないのは心もとないものだ」
「困窮していないのなら何に困るというのです? しばらくの間、節制なされば良い」
相手の装いを改めて眺めながら、アルフレートは吐き捨てた。
季節柄、例の虎の毛皮は纏ってこそいないが、カール侯爵は爵位と年齢にふさわしい上質の衣装を纏っている。そもそも、毛皮は何十年も持つものではないのだ。ヴェルフェンツァーン侯爵が目印のように好んで纏う虎皮は、彼の頬に傷を刻んで狩られた一頭のものではなく、定期的に新調しているはずであって。爵位相応に豊かな家の当主が、どうしてさほどの親交もない彼に無心してくるのか、訳が分からず不快だった。
「良い茶葉を使っていらっしゃる。東方産のものですな?」
「……ええ。よろしければもう一杯どうぞ」
アルフレートの目には、駆け引きのためだけでなく、はっきりと険が浮かんでいるだろうに。カール侯爵は、臆することなく暗に茶のお代わりを要求する図々しさを見せつけた。気儘な振る舞いというよりは、挑発の一環でやっているような節も感じるから余計に腹立たしい。
「それが、直近で欲しいものがあるからそうはいかないのだ」
「我慢なさい。良い大人なのだから」
ヴェルフェンツァーン侯爵が欲しがるものといえば、異国の珍しい動植物に決まっている。仮にこれが衣装や宝石や、土地や家屋敷だったとしても、アルフレートの答えは変わらなかっただろうが。家計を傾け家名を汚してまで借金をするのは愚かなことだ。野性侯の華々しい風聞も、金銭的な余裕があってのことだったのだろうに。
アルフレートの軽蔑の眼差しは、相手の厚い面の皮の表面で滑り落ちるかのようで、カール侯爵の不敵な笑みは崩れなかった。
「この機会を逃せば次がいつになるか分からないものでね。以前にも似た状況があって後悔したのだが。なのでご理解とご協力を賜りたい」
「常識的な条件ならば考慮しないこともありませんが、そうではないようですね?」
頭を下げる訳でもなく、欲しいものの詳細や理由について説明する訳でもなく。同意を引き出すつもりならばあり得ない態度は、やはり嫌がらせでしかないのだろうか。
(そもそも会うべきではなかったか……)
待ちぼうけを食らわせて留飲を下げよう、などとは間違いだった。この場では、明らかにアルフレートのほうがより気分を害している。しかも、カール侯爵は彼を不愉快にさせる手札をまだまだ持っているようだった。
「最低でも無利子で貸していただきたいものだ。何なら、貴殿に負担していただいても良いくらいだと思っている」
「ご子息を止めなかったから、ですか? 失礼ながら、本来は貴家の躾に関わることかと存じますが」
ユリウスの出資が願ってもないものだったことは棚に上げて、アルフレートは相手を糾弾することにした。ユリウスは礼儀正しい青年だったが、その父親に対する感情はまったく別のものだ。第一、息子を口実にして無理を通そうとしているのはカール侯爵のほうなのだから。
「何のための金かは気になさらないのだな」
「興味がありませんので」
「欲しいもの、というか投資に近い性質なのだが」
アルフレートの拒絶は、ごくあっさりと無視された。聞かないならこちらから言う、と言わんばかりにカール侯爵は勝手に話を進める。
「マルディバルのティボルト殿下が融資を募っておられるとか。イスラズールとの交渉が成った暁に、すぐに第二の船団を送るためということだが──実のところは妹姫を無事に取り戻すための圧をかけようということだろう」
「……さすが、耳がお早いことですな。ご子息同様、未知の大陸へ通じる機会は見逃せないという訳ですか」
話は見えた、と思った。この変わり者侯爵は、息子に抜け駆けされたとでも思ったのだろう。ユリウスに任せておくだけではなく、自身でも海を越えたいと思ったのだ。この二十年ほどは我慢していたとしても、フェルゼンラングの国策が変わり、もう一国、マルディバルも動き始めた今なら確かに絶好の好機ではあるのだろうが。
「もっと早くに機会を作っておくべきだった、と考えている。臣下の分を守って手をこまねいていたのは、かえって国益を損なうことだったかもしれない、と。フェルゼンラングはこの二十年というもの、イスラズールから何ひとつ得られていない。むしろ失うばかりだった」
「それは結果論というものです」
へりくだる振りで、カール侯爵はアルフレートをこそ批判していた。何度もイスラズールに渡航し、かの地の事情を誰より知っていながら、王に有用な進言をしなかった、と。
(何も知らない癖に、言ってくれる……!)
この男はイスラズールの未知の生態系に惹かれているだけだ。かの地を統治する王の横暴さも残酷さも、
今や、アルフレートははっきりとカール侯爵を睨んでいた。だが、相手の翠の目は揺るぎもせず、むしろ──なぜか──険しい非難を浮かべて彼を貫いている。
「ああ、二十年というのは訂正しよう。もっと以前からだからな。私は、エルフリーデ様も失われたものに数えている」
あの野性侯が、亡くなった姫君のために彼に怒りを表明しているのだ。無茶な融資を強請るのも、贖罪の機会を与えてやるのだということだ。そうと気付いて、アルフレートは奥歯を噛み締めた。
「……あの御方のことをそこまで気に懸けておいでとは存じませんでした」
辛うじて反駁したものの、不利は認めざるを得なかった。あの方の死後のことならまだしも、エルフリーデの死に関しては彼には明らかに罪がある。もう少し前なら、あるいは自己弁護の論理を組み立てることもできたかもしれないが──異国の年若い王女が、すでにアルフレートの虚飾を剥ぎ取ってくれていた。
(アンナリーザ姫もイスラズールに向かっているのだな。エルフリーデ様と同じように……)
亡き人とは似ていない、けれど同じく忘れ難い碧い眼差しを思い出しながら、アルフレートは今さらながらに当たり前の事実を噛み締めた。
「気に懸けるだろう。十三歳だかの女の子が親元を離れて異国に嫁がされるのだから」
「貴殿からそのように常識的なことを聞くとは思ってもおりませんでした」
「自分で言うのも何だが、私に常識や道徳を説かれるようでは世も末だぞ」
カール侯爵の言葉に苛立つよりも、彼の意識はアンナリーザ姫と交わした少ないやり取りに向いていた。小鳥のように澄んだ声が語る、意外にも強い決意。彼の罪悪感を抉る舌鋒の鋭さ。そして、彼はあの姫君に何と言っただろう。
『今度こそは悔いがないように、ということなのでございましょうな』
あの華奢な姫君に、貧弱な銃を渡しただけで送り出して、果たして悔いが残らないだろうか。ディートハルト王子がイスラズールを首尾良く統治できるなどと、彼は心から信じているだろうか。
(まだできることはある、か……?)
「……そうですね。不明なことで、お恥ずかしい」
「ラクセンバッハ侯爵……?」
アルフレートが急に笑顔を作ったので、相手は不審に思ったようだった。野性侯を困惑させたことを誇らしく思いながら、アルフレートはゆっくりと首を傾げた。
「考えたのですが──やはり、貴殿に無利子での融資などできませんな。それほどに親しくさせていただいている訳でもないのですし」
「然様か……」
カール侯爵は眉を寄せたが、それ以上の不満は口にしなかった。たぶん、断られたら断られたで金策はどうとでもなっていたのだろう。だが──アルフレートとしては、少しでも意趣返しをしたい気分だった。
「ただ、ティボルト殿下の事業を見落としていたのは迂闊でした。ご教示いただいたことに感謝しなくては。公務とは関係なく、私費を投じてみたいと思います。私も久しぶりにイスラズールを訪ねたいものですからな」
「……二十年振りになるのでは? 御年を考えられたほうが良いと思うが」
彼よりも年上の相手に心配されて、アルフレートは思わず苦笑した。五十を過ぎても《南》の砂漠を旅することもできるのだと、この男自身が証明しているのだろうに。
「なんの、慣れたものでしたから。──とはいえ、旅慣れた供の者がいると心強いでしょうな。船室にまったく空きがないということはないでしょうが、ご都合はいかがでしょう……?」
融資に名を連ねさせてやるつもりはないが、荷物持ちとしてなら連れて行ってやっても良い──アルフレートの挑発は、正しく認識させられたようだった。油断ならないヴェルフェンツァーン侯爵の口元に、苦笑が浮かぶ。
「それは、願ってもないことだ。気儘な息子の首根っこを押さえてやらねばと思っていたところだからな……!」
息子よりもよほど気儘な父親が、牙を剝くように笑った。父親が追いかけてくるなど露知らぬユリウスには気の毒かもしれないが──イスラズールと大陸を繋ぐ海は、またもう少し騒がしくなるようだった。
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