第5話 野性侯爵の襲来(アルフレート視点)

 イスラズールからの報せを待つ間、アルフレートはマルディバルへの滞在を続けている。海の彼方からの報せが真っ先に届くのは海辺の国であって、母国フェルゼンラングに退く理由などないからだ。

 夏の気候こそ《北》のフェルゼンラングのほうが冷涼だが、季節が進めば温かい海に面したマルディバルは過ごしやすい。オリバレス伯爵が出航してしまえば、彼の存在を秘する必要もなくなることだし、アルフレートはこの滞在を休暇と社交を兼ねたものとして利用することにしていた。長年に渡って外交官として──特に、イスラズールと大陸諸国の国交を断つために──活動してきた彼には、この辺りの国々にも知己が多いのだ。

 よって、噂を聞きつけた各国の貴顕からの招待や挨拶状が絶えることはなく、アルフレート自身も楽しんで旧交を温めていたのだが──


「ヴェルフェンツァーン侯爵……?」


 今日届いた手紙の差出人は、思わず見直したうえで声に出して読まずにはられない、実に意外なものだった。何度ひっくり返してみても、記された名も、封臘に施された牙を剥く狼の紋章も、当然のことながら変わることはなかったが。


「一方的に突然会いたいとは、あの方らしいことではあるが」


 カール侯爵とは、正直に言ってさほど親しい訳ではなく、筆跡の真偽を見分けることもできない。だが、時候の挨拶もそこそこに──こちらの都合を伺うことさえなく──今日の何時に行くから、と宣言する文面の強引さは、確かにあの変わり者侯爵らしいといえばらしかった。


 顔を顰めた主人の心中を慮ってか、アルフレートの執事も嘆かわしげに溜息を吐いた。


「不躾なことでございますね。お断りしますか」

「そうだな……」


 同じ侯爵とはいえ、彼我の格の上下をどう判定するかは大変微妙なところだった。国の機密にあずかるとはいえ、彼の爵位は一代の功績で得たもの。一方のヴェルフェンツァーン家は古くから爵位と領地を保った名門だ。華々しい奇行で彩られた系譜を誇れるものかは彼には分からないが、まあ本人たちには異なる気概があるのだろう。


(謝絶して遺恨が残ることもない、だろうが……)


 カール侯爵の逗留先としては、マルディバル港近郊の城が記されていた。知人か血縁の居城に寄寓しているのだろう。その人物はカール侯爵本人よりは常識があるのだろうし、先約があると伝えてもアルフレートが非難されることはないのだろうが。


「いや、会おう。だが、待たせる」


 しばらく考えた後、アルフレートは礼儀と嫌がらせを両立させる方法を思いついた。


「はあ」

「急なことでは侯爵閣下をもてなす支度が調ととのわないし私の都合もつかない。しばらくの間、庭でも眺めて待っていていただこう」

「……かしこまりました」


 執事の目にちらりと浮かんだ表情は、アルフレートの大人げなさへの呆れだろうか。それとも、無為に待たせられるカール侯爵の機嫌を取ることへの憂鬱の表れか。まあ、彼は日ごろ理不尽な主ではないはずだから、たまの我が儘には付き合って欲しいものだ。


(エルフリーデ様は、どういう訳かあのお人を気に入っていたな……)


 懐かしい人の面影が過ぎった胸に、ちくりとした痛みが走る。カール侯爵は、エルフリーデ妃とも時おり手紙をやり取りしていた。不遇の身の上を見舞う訳でもなく同情を寄せる訳でもなく、ただ、侯爵の「いつも通り」に草だの虫だの鳥だのの話を綴った手紙を、彼は何度も託されたのだ。それらは、エルフリーデ妃の境遇をなんら改善するものではなかったはずなのに──なのに、あの方はカール侯爵からの報せを喜んでいるようだった。時と場合によっては、あの方のために何度も海を越えたアルフレートの存在よりも、ずっと。


(エルフリーデ様はどうしてあの野性侯ヴィルデスフュルストを……?)


 とても不思議で、理不尽で、不公平に思えて──だからアルフレートは、ほとんど話したこともない相手のことが少し嫌いだったのだ。


      * * *


 陽が傾き始めたころになってやっと客間に足を向けてみると、ヴェルフェンツァーン侯爵カールは庭の木々や草花に興味深げな眼差しを注いでいた。アルフレートの目には型どおりに整えた庭園に見えるが、博物学に一家言ある者にとっては違うのかもしれない。


(失敗したな)


 苛立ちや退屈の表情を見られなかったことに対して若干の不満を感じながら、アルフレートは特に歓迎していない客に挨拶をした。良い年をした立場のある者同士だから、当たり障りのないやり取りはお手のものだ。


「お久し振りだな。お元気そうで何よりだ」

「この国の気候のお陰でしょう。フェルゼンラングにはない晴れやかさなので」

「《南》から帰ったばかりなのだが、まことにごもっともだ。あちらの太陽は、この歳になると堪えるものだ」


 「侯爵をもてなすのにふさわしい茶菓」が供されると、カールはそれこそ野性的な風貌に似合わぬ優雅な所作で茶器を手に取った。アルフレートが最近会ったばかりの侯爵子息ユリウスと比べると、彼の髪の色は薄く、肌は灼けている。それはすなわち、カール侯爵が生涯の長い時間を異国の放浪に費やしたことを示しているのだろう。


「《南》の砂漠では住所などあってないようなものだからな。なので、知るのも伺うのもすっかり遅くなってしまったのだが──息子が世話になったそうで」

「世話というほどのことでは。さすがは『野性侯』の血筋だと感心しましたよ」


 侯爵子息と、二国の王子と王女を乗せた船は、今ごろはどの辺りにいるだろう。もう、航海も道程の半分を越えて、大陸よりもイスラズールのほうが近いだろうか。交易と、イスラズールの未来と、マルディバルとの国交と──国の未来がかかった旅で、若者たちが良い関係を築けていると良いのだが。


(ディートハルト殿下はどのようなお気持ちでいらっしゃるのか……)


 二度目に主君の御子を異国に送り出すことについて、彼も何も感じないではないのだ。横暴な夫に虐げられたエルフリーデと違って、ディートハルト王子には伴侶を選ぶ自由は残されているが。それでも、いくらあの呑気な御方でも、不安や心細さに苛まれることもあるだろう。年の近いアンナリーザ王女や、ユリウスが同行していることが、彼の救いになれば良いのだが。


「──ラクセンバッハ侯爵ともあろう方が、鈍いな。それとも、気付かない振りをしているのか……」

「何のことですかな」


 遥か洋上に馳せた想いを陸地その場に引き戻されて、アルフレートは眉を顰めた。カール侯爵が何を言っているかについて心当たりは──多少は、あるが。だが、自分から言うつもりはない。同じ国の貴族とはいえ、彼はこの胡散臭い侯爵をあまり信用していなかった。

 たぶん相手も同様だろう。カール侯爵の口元は微笑んでいても、息子ユリウスと同じ翠の目は油断なく──それこそ狼のように──アルフレートを捉えていた。


「成人しているとはいえ、ユリウスはまだ若い。家を継いですらいない。そのような若輩者が家の名を出して巨額を動かすことについて、年長者としては忠告すべきだったのでは? 父親に連絡をいただいても良かったと思うのだが」


 カール侯爵の指摘が予想の範疇を越えるものではなかったので、アルフレートは穏やかに笑んだ。


「連絡をしようとしても、その手段がない状況だったと伺ったばかりのように思いますが」

「まあ、それは確かに」


 砂漠を旅していたのだろうに、と。指摘されて、カール侯爵はあっさりと頷いて肩を竦めた。だが、それで納得したということではもちろん、ない。


「だが、貴殿は我が家に借りがあると思う。快速帆船クリッパーを仕立てる費用と、後継者の命と。いずれも安くはないものを、危険に晒されたことになるのだから」

「ご子息の選択を非難なさる……? 御家の家風からして、もろ手を挙げて送り出すものかと思っていたのですが」


 父が反対することはないだろう、とユリウスは言っていたし、アルフレートとしても同意見だった。王女エルフリーデに対してでさえも図々しく種や標本を強請っていたこの男のことだ。実の息子ならば、なおさら遠慮なくこき使って当然だろう。


「だからといって、当主である父親に断りもなかったのはそちらの落ち度では?」


 だからこれは難癖だろう、とアルフレートは判断した。相手の目的は知れないが、心にもないことを言い立てて彼から何かしらを引き出そうとしていると考えて良さそうだ。


「公言されては困りますが、とはいえご承知なのでしょうが、国益にも関わることでした。ご子息はフェルゼンラングの貴族としても正しい行動をなさいました。陛下のご意思を受けて動く身としては、感謝するしかありませんな」


 こういう時は、権威を笠に着るに限る。いくら胡乱な噂がつきまとう野性侯だろうと、王に公然と背くことなどできはしまい。国策を盾にすれば、この招かれざる客を早々に追い返すことができるだろう。


「なるほど。臣下の分際ぶんざいで陛下を糾弾することなどできるはずもないですな」

「でしょう」


 事実、カール侯爵は意外なほど素直に頷いた。だが──アルフレートが安堵したのは、油断というものだったらしい。相手は、すぐににやりと笑うと、では、と切り出したのだ。


「では、愚息が我が家の財産に及ぼした影響については、貴殿に相談するのが良さそうだ」

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