第4話 幽霊は二度邪魔をする
俯くアンナリーザの顔を、ユリウスとディートハルトが心配そうにのぞき込んだ。光源は、マストと
「──アンナリーザ様は、従弟殿がイスラズール王になるべきだ、と……? その、私よりも?」
「確かに、クラウディオ殿下の行方が分かれば陛下も喜ばれることと思いますが……」
心もとなげなディートハルトの問いに、はっきり頷くのは無礼が過ぎるというものだろう。そしてユリウスについては、訳の分からないことにこだわるアンナリーザを、精いっぱい慰めようとしてくれているのは分かる。
(でも、
けれど、気休めに過ぎないのも分かってしまう。
(イスラズールに着くまでは、あの子のことは追及しないほうが良い、わね……)
それは、出航に際して密かに抱いていた目的を、半ば放棄するということだ。海の真ん中で、困難な旅に臨んだ寄る辺を失ったも同じこと、無力感と頼りなさに、船底をすり抜けて深く昏い海に吸い込まれそうな思いさえする。でも──半分だけ、今だけということだから、と。自分に言い聞かせて、アンナリーザは顔を上げ、どうにか微笑んだ。
「──いいえ。正統な後継者がいらっしゃれば、と思っただけですから。でも、どうやら難しいということのようですわね……」
フェルゼンラングの若者たちに、これ以上のことを聞いても不審がられるだけだろう。イスラズールに到着すれば、かの地の人々からはまた違った情報を得られるかもしれない。子供ひとりを育てるのに、マリアネラが独力で何もかもやり切ったはずもないことだし。
(後ろ盾のない子を、哀れんでくれる人はいたはずよ……!)
期待し過ぎては良くない、と分かっているはずなのに、都合の良いことを考えてしまうのは、たぶん愚かなことなのだろうけど。今はそう考えないと、航海を続ける気力が湧きそうにない。
「……私としては、イスラズールの民の支持を得た方が王であれば、と思います。ですので、ディートハルト様を歓迎してくださるのがどういった立場の方なのかをもっと知っておきたい、と──マルディバルにとっても、交渉しやすい方々ということになるのでしょうし。あの、問題ございませんでしょうか……?」
アルフレートが、他国の王女には教えてくれなかった国家機密だ。マルディバルを巻き込まないための、気遣いでもあったのだろうけど──
「まったくございません。それでアンナリーザ様に安心していただけるのでしたら」
心配になるほどあっさりとにこやかに、ディートハルトは頷いてくれた。アンナリーザの気を惹きたいのか、求婚された彼女の狼狽を慮ってくれたのか、イスラズールの統治に意欲を出してくれたのか──分からないけれど。
(後先を考えていらっしゃらないのではない、わよね……?)
後ろめたさと一抹の不安を押し殺して、アンナリーザは笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ディートハルさ──」
「きゃあああぁああっ」
でも、彼女の声を、鋭く甲高い悲鳴が掻き消した。はっと顔を上げて悲鳴がしたほうを見れば、アンナリーザの侍女が、フェルゼンラングの従者に支えられて闇の中の一点を指さしている。
「あ、あそこっ! ゆ、幽霊が……!」
(幽霊……!?)
素面で言うのも口にするのも、恥ずかしくなってしまうような単語だ。普通なら。でも、風と波の音だけが騒めく夜の海の真っただ中で、幽霊船の噂を聞いたばかりで、となると話が変わる。アンナリーザの心臓は跳ねて、二の腕はぶわりと粟立った。侍女が指さすほうを見るのは怖くて、かといって目を背けても背中に
「きゃ──」
どこを向いて、何を見れば良いのか──分からなくなって。夜風に煽られてよろめいたアンナリーザの背に、温かいものが触れた。ユリウスが、抱き留めてくれたのだ。
「アンナリーザ様は、ここにいてください。──殿下、お願いします」
見下ろす翠の目と視線が絡んだと思ったのも一瞬、アンナリーザの身体はすぐにディートハルトに委ねられていた。
「は、はい」
「分かった」
たぶん、王子と王女を甲板の中心近くに留まらせよう、という配慮だったのだろう。ユリウスは、銀の髪をなびかせて侍女たちが立ち竦むほうへと駆けて行った。アンナリーザと同様、その侍女も危うくふらついていたけれど──
「落ち着いて! 船舷から離れて……!」
ユリウスの鋭い声に鞭打たれたように、はっとしたように背筋を伸ばす。傍にいた従者も、しっかりと彼女の身体を掴んでくれた。そうこうするうちに、悲鳴と騒動を聞きつけたのか、見張りの水夫がマストから滑り降り、眠っていたであろう者たちも次々に甲板に上がって来る。
「何だ、今の声は! 何があったんだ……!?」
集まった者の何人かが携えていた灯りによって、甲板は明るく照らされた。とはいえ、もちろん太陽の輝きには遠く及ばない。風に揺らぐ炎は、驚きや不審や恐怖に強張った表情を強調して、かえって不穏な空気を高めてしまう。
それこそ彼女自身も幽霊のように青褪めた顔で、その侍女は声を震わせた。
「あの! あそこに、人影が──」
でも──そこには何もない。何もいない。幽霊はもちろんのこと、見間違えそうな旗だとか縄だとか帆布が垂れ下がっている訳でもない。戸惑う視線が交わされて、勇気ある者がその暗がりを覗き込んで首を振り──そうして、誰かが心もとなげに呟いた。
「……何をどう見間違えたんだ? 幽霊船騒ぎで夢でも見たのか……」
「そのような──確かに見たと……思った、のですが……」
発端の侍女は声を上げかけて、そして、何も
「お恥ずかしいことでございます。申し訳ございませんでした。お話の邪魔をして──あの、お騒がせしてしまって……」
「いいえ。きっと疲れもあったのでしょう。無理もないわ」
侍女を守るべく、アンナリーザはディートハルトの腕の中から声をかけた。従者たちや水夫たちに向けたものでもある。だから責めないであげて欲しい、と。
「……そろそろ、中に入りましょう。ここは、冷えるから」
船長には報告と説明をすべきなのだろうけれど──それもまた明日、場所を改めてのことだ。集まった面々を見渡しながら宣言すると、幸いに、皆、彼女の意図を汲んでくれたようだった。眠りを妨げられた者は、不満げな唸り声も漏らしていたけれど。それでも、ほどなくして甲板にはもとの暗さと静けさが戻った。発端の侍女も、従者に肩を抱かれていったから、もしかしたら航海の間に良い関係が育まれているのかもしれない。
(慰めて、宥めてくれると良いのだけれど)
ディートハルトと、残った侍女たちと従者たちに囲まれて、アンナリーザも足を船室へと向ける。これだけ周りに人がいると、闇の暗さや重さを意識の外にやることができそうだった。さらには、ユリウスも彼女の傍に戻ってくれる。
「明日からは銃の練習を再開しましょう」
「幽霊に銃弾が効くのかな」
ディートハルトの言葉は、本気で不思議に思っているのか場を和ませるつもりなのか判断がつかなかった。神妙な面持ちで頷いたユリウスは前者と捉えたのかもしれない。
「分かりませんが、昼間のほうが恐ろしくはないでしょうから」
「その通りですわね」
アンナリーザも、心の底から同意した。幽霊が怖いかどうかというよりも、銃に慣れること、三人で話すことの必要性を認めてのことだ。
(まったく、いつも邪魔をしてくれるのだから……!)
大事な話をしようとした時に、もう二度、幽霊騒ぎによって妨げられている。もちろん、いずれも本物の幽霊だなんて信じることはできないのだけれど。晴れた昼間なら、もっとゆっくり話ができるのではないだろうか。
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