第3話 満天の星の下、正しさの話を

 晩餐を終えた後、アンナリーザはユリウスとディートハルトを伴って甲板に出た。見張りの水夫もいれば、万が一の事故に備えてロープもきちんと巻いた状態で設置されている。とはいえ、風によろめいて夜の海に落ちるなど、考えただけで恐ろしさに心臓が止まってしまいそうだ。なので、できるだけ船舷せんげんから距離を取って、夜空を見上げる。街の灯りなんてもちろんない夜のこと、アンナリーザの目には星々の輝きは空から降るように眩しく見えた。


「星の輝きはどこでも変わりませんわね」


 海の上でも陸の上でも、イスラズールでも。故郷と同じ夜空を眺めることは、エルフリーデにとっては慰めでもあり、望郷の思いをいっそう掻き立てられる切ない記憶でもあった。胸を締め付ける苦しさに蓋をして、アンナリーザは貴公子たちに微笑んだ。


「はい。この暗さだと、星図でしか見ない星も見えて新鮮ですね」

「君は、人里離れた場所で夜を過ごすのも慣れているのでは?」

「そうなのですが、このように四方を遮られていないことは稀ですので」


 ユリウスは、父君に倣った狩猟や採集の旅で、星に時間や方角を尋ねることに親しんでいるようだった。アンナリーザはもちろんのこと、ディートハルトも興味深げに目を瞬いている。この王子様は、例によって素直という美徳は備えている。


「なるほど。貴重な光景を見ることができたのは良かったのだな……」


 それに、物事の良い面を見つけることも、だろうか。海を越えた未開の──フェルゼンラングに比べればそうなってしまう──地に追放のように送られて、星空を愛でることができるというのは。呑気とも言えるかもしれないけれど、航海中もずっと船室で鬱鬱としていたエルフリーデよりは、きっと苦しくない生き方だった。


「たまにはこういう時間も良いですわね。船室にいると息が詰まってしまいますもの。──侍女たちも、部屋でお話するよりは安心でしょうし」


 アンナリーザが視線を巡らせた先には、彼女の侍女とフェルゼンラング人の従者がふたりずつ、こちらを窺っている。若く身分の高い男女に不名誉な疑いがかかることがないよう、仕える者にも配慮が必要なのだ。まあ、彼ら彼女らとしても外の風にあたったほうが良いだろうし、祖国では相応の地位の貴族なのだから、もしも仲が深まったりしたら両国の関係にも良いことだと思う。


(話を聞かれないのも、良いわね)


 ベアトリーチェは、夜の闇の中でもショールの色選びにこだわっていた。それに、素材も。銀糸を織り込んだ青い絹混の生地は軽く温かく、星灯りにちらちらと瞬く煌めきが彼女の身体の線と流れる金の髪を魅せてくれる、のだとか。その効果のほどを、彼女自身が確かめることはできないのだけれど──とにかく、ショールを肩にかけ直してから、アンナリーザは口を開いた。


「──星を見るというのは口実でしたの。お気づきだったかもしれないですけれど」

「はい」

「そうなのですか?」


 真剣な面持ちで頷いたユリウスと、ふんわりと首を傾げたディートハルトと。それぞれの反応が少し面白かった。


「そうなのです」


 ディートハルトの言葉をなぞって繰り返したアンナリーザの髪を、夜風が躍らせた。金の煌めきが流れる先に、黒い影としてわだかまるのは、イスラズールの船だ。ともに旅する日々を重ねて、夜闇の中でも区別がつくようになっている。


「──昼間、オリバレス伯爵ともお会いして、お国フェルゼンラングの計画のことをもう少し知っておいたほうが良いかもしれないと、思い直しましたの。うっかり口を滑らせてしまうかもしれませんし──それこそ、どなたがイスラズールの王位に就くべきかについて、考える材料が欲しいと思いました」


 晩餐の間に考えていたを、ゆっくりと述べる。昨日の話と、昼の会談からの流れで彼女が言い出してもおかしくなさそうなことを。


(実際、大事なことではあるわ……)


 オリバレス伯爵は、フェルゼンラングの計画はおろか、ディートハルトの正体さえ知らない──疑ってはいるかもしれない──のだろうから。ここで口裏を合わせておくべきだろう。……そう思うと、彼女の前世の祖国はかなり行き当たりばったりというか、深く考えずに王族を送り出しているような気もする。


(二十年前から変わっていないのね)


 あるいは、そのもっとずっと前からのことで、前世の彼女エルフリーデも先祖の不幸には無頓着だったのかもしれないけれど。そして今現在、国の犠牲になりつつある王子様ディートハルトは、やはり無頓着に首を傾けた。白い歯がきらりと閃いたから、闇の中でも微笑んだのが、分かる。


「そういえば、話の途中になっておりましたね。正しいイスラズール王について」

「ええ」


 彼なりに、自身の将来やこれから向かう地の状況について気に懸けてくれていたなら話は早い。アンナリーザは短く頷いてから、続ける。


「ラクセンバッハ侯爵から伺いました。イスラズールのレイナルド王には庶子がいると。……その方の人となりも存じ上げないのに断言することはできませんけれど──」


 アンナリーザが「あの子」の人柄や生育環境を知らないのは事実だけれど、エルフリーデは両親のことを知っていた。だからさほどの期待はできない──ということは溜息と共に呑み込んで、続ける。


「そういう出自の方が王となると、大陸諸国からは不信を持たれやすいと思います。何というか、イスラズールの常識とか良識という意味で。ですから、エルフリーデ妃に御子がいらっしゃれば、と思ったのですけれど──いらっしゃらない、のですわよね?」


 かくして、アンナリーザは少々強引に話の筋を繋げた訳だ。銃声によって中断させられる前に、フェルゼンラングの貴公子たちは確かに表情を変えていた。


(これで、やっと分かる……!)


 生み落としたきり、抱いてあげることもできなかった前世の息子の行方について。アンナリーザは息を呑んで、ふたりの答えを待──待つまでも、なかった。


「いるかどうかで言えば、いらっしゃいました。いえ、いらっしゃる、というべきか──分からないのですが」


 ディートハルトがあまりにさらりと言ったものだから、アンナリーザの喉からひゅっと変な音が漏れた。驚きに息が漏れるのと、問い質すために息を吸い込もうとするのと。どちらも一度にやろうとして身体が混乱して、ひとしきり咳き込んでから、アンナリーザは涙目でディートハルトに食ってかかった。


「……っ、そ、それなら! フェルゼンラングは、何よりもまずその方を擁立すべきではなかったのですか!? その方は、今はどうしていらっしゃるのですか……!?」

「そういえば、そうですね……?」


 たぶん、ディートハルトを責めたところで何の意味もないのだ。それでも、こんなにも純粋な驚きの表情を見せられなかったら、本当にやっと今気づいた、という顔をされなかったら、アンナリーザは延々と彼を問い詰めていたことだろう。一気に脱力して言葉を失ったから、幸か不幸かそんな醜態を演じずに済んだけれど。


 うなだれたアンナリーザの旋毛つむじに、今度はユリウスの声が振ってくる。


「エルフリーデ妃は、産褥熱で亡くなったのです。生まれたばかりの王子殿下──男児でいらっしゃったのです──を船に乗せて連れ帰ることもできませんし、養育はレイナルド王の愛人に任せられたと聞いています」


 では、死んでしまったとは伝わっていないのだ。少なくとも、フェルゼンラングには。安心するにはあまりに頼りない情報に、アンナリーザの疑問は尽きない。


「……フェルゼンラングが引き取ることを考えられなかったのですか? そうでなくても、養育係なり教師なり母親代わりの侍女なり、いて差し上げれば良かったのでしょうに」

「アンナリーザ様はお優しいのですね。ですが、当時の状況がありましたので」

「私が優しいというよりは、お国が冷酷なように思います。王女の御子で、フェルゼンラング王からすれば孫や甥でしょうに」


 ユリウスに対しても、言ってもせんないことだ。そして、現実的なことでもない。クラウディオが、エルフリーデの息子が少しでも成長したころには、イスラズールとフェルゼンラングの関係は冷え切っていたのだろう。王子を引き取るか否か、養育に口を挟むか否かは両国の新たな火種になることは確実で、を誰も引き起こしたくはなかったのだ。


「私にとっては従弟殿になりますね。状況によっては、兄弟のように育ったのかもしれません」


 ディートハルトは、たぶん、今初めてそのように思い至ったのだろう。だから慰められたとはまったく思えなかった。というか、クラウディオの扱いにが過度に心を痛めるのは本来はおかしいのだ。彼にしてみれば、どうせ小娘の感傷でしかないのだろう。


「……父王も、最初から我が子をイスラズール王に据えるつもりではなかったのだとは思うのですが。従弟殿の消息は知れないままで、フェルゼンラングについてもどのように教えられているかも分かりません。正統性は、無論、彼にあるのでしょうが……頼もしい同盟候補とは、言えないのではないでしょうか」


 フェルゼンラング──ことに、実母についてどのように認識しているかも分からない、ということだ。


(恨んでいるかも、しれないのね……)


 何もしてもらえなかった、と。フェルゼンラングの支援を取り付けるにあたって、後ろ盾のない王子クラウディオを立てるよりはディートハルトを受け入れたほうが良い、と判断した派閥があるのかもしれないし、だから完全に悲観したものでもないのかもしれないけれど。でも──期待し過ぎると、怖い。だからアンナリーザは小さく頷いてディートハルトの言葉を受け入れた、と見せた。本当は、まったく納得なんかしていなかったけれど。


「……状況は、承知いたしました。あの……エルフリーデ妃の御子は、何と仰るのでしょうか。少し……気になったものですから」

「クラウディオ殿下と仰ると、伝わっています」

「そうですか──クラウディオ、殿下……」


 とうに知っていることを教えられて、それでもアンナリーザはその名を大切に呟いた。こうしてやっと、彼女は前世の息子の名を堂々と口に出せるようになったのだ。

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