第2話 幽霊なんて見たことがない
各船の船長たちとオリバレス伯爵が辞した後、アンナリーザたちは食堂でひと息を吐いた。彼女は久しぶりに社交らしきものに励んだし、侍女たちは客人の給仕に立ち働いてくれた。《
景色も代わり映えしない航海中のこと、客人たちもさしたる話題を提供してくれたわけでもなく、ほかの船には女が乗っていないから侍女たちが喜ぶ恋模様も育まれてはいなかった。だから、自然と食堂では甲板での議題が蒸し返されることになった。──つまりは、水夫が見たかもしれない幽霊船について、だ。
「──でも、この海にはイスラズールを目指して沈没した船がたくさん眠っているのでしょう? 幽霊船の一隻や二隻、出てもおかしくないのではありませんこと!?」
「新天地を目の前にして力尽きるなんて──さぞや無念だったでしょうねえ」
怪談話を半ば恐れて、半ば面白がって。はしゃぐ侍女たちとは裏腹に、アンナリーザは懐疑的だった。
「どうかしら。海はとても広いのに。ちょうどよく私たちが通りすがるところに現われられるものかしら」
何しろ、彼女にとってはこの航路は初めてではない。エルフリーデとして旅した
(となると、やっぱり見間違いになるのかしら……?)
マストには常に見張りを常に立てているけれど、ひたすらの青に目を凝らし続けるのは楽しいことではないだろうとは想像がつく。見間違いでなければ、寝惚けてしまったとか──海賊の可能性を頭の片隅に置くとしても、なるべく気を付けてもらう、くらいしか対策はなさそうだった。
「幽霊を見たという話の多くは、目の錯覚だと言いますね。甲板で言った、靄に影が映って、というのは山でもよくある話なんですよ」
「まあ、ユリウス様。なんて夢のないことを……!」
ユリウスの発言は、侍女たちの気に入るものではなかったらしい。不服そうに唇を尖らせる者もいるけれど──アンナリーザは、その限りではない。むしろ彼の見解が心強いくらいだった。
「それならそのほうが良いですわね。海賊船でないなら……」
「アンナリーザ様は、幽霊よりも海賊のほうが恐ろしいのですね」
アンナリーザの相槌を聞いて首を傾げたのは、ディートハルトだ。給仕役を務めたのは彼も同様だったけれど、王子様にはらしからぬ仕事が新鮮だったのか、疲れるというよりは満足そうな顔をしていた。
(本当に、良い方、なのよねえ)
下賤の仕事をさせられたと気分を害したりしないのは、誰にでもできることではないだろうと思う。前世の甥でさえなかったら、イスラズールの王位を狙う陰謀に携わってさえいなかったら、政略結婚の相手としては願ってもない方だったかもしれないのに。でも──それは考えてもしかたのないことだから、アンナリーザは曖昧な微笑で応じた。要するに、期待を持たせないように、親しみを込め過ぎない態度、ということだ。
「怖い、というか──でも、そうですわね。私は幽霊を見たことはありませんけれど、海賊がいることは確かに知っていますもの」
「フェルゼンラングも野盗や盗賊には手を焼いていますから分かる、と思います。自らはなんら生み出さずに民の実りや商人の稼ぎを横領しようなどとは不埒なことです」
「まことに仰る通りです。そう、私は海賊は忌むべきものと教えられていますから──幽霊よりも、よほど」
頷きながら、アンナリーザは内心で驚いていた。
(ちゃんとしたことも言えるのね)
それは、常識の範囲のことではあるし、ディートハルトの発言は大筋では間違っていないことが多かったのだけれど。……ただ、人の心の機微に疎いのか、思わぬ時に思わぬことを言い出すから油断できないというだけで。
とても失礼な感想を表情に出さないよう、蜂蜜割りの葡萄酒の杯で口元を隠したアンナリーザに、ディートハルトはどこまでも爽やかに微笑んだ。やはりというか、幸いにというか、隠すまでもなく彼女の内心には頓着していないようだ。
「交易が本格的に始まったら──イスラズール王には、海賊と縁を切ることを望まれますか?」
「え、ええ。そう願いたいものです。マルディバルから出荷した品が奪われてはならないのはもちろんですし、他国に追われる者たちを匿ったとあってはイスラズールは大陸諸国の信用を失います。そんな相手との交易は、我が国の名誉にも関わりますから……」
ディートハルトは
(私の望む通りに統治してくださるつもりなの……!?)
彼が、昨日の話題をまだ忘れていないことにも気付いたからだ。正しいイスラズール王とは何ぞや、という話だ。例の銃声で中断されてそのままになっていた話の続きをできるなら──クラウディオの行方について、フェルゼンラングの貴公子たちの情報を探れるなら願ってもないのだけれど。ディートハルトも、統治についての明確な絵図は持っていないとは言っていたけれど。でも、他国の王女に方針を乞うような、おもねるような態度はいかがなものだろう。
(
エルフリーデの兄、現在のフェルゼンラング王の顔を──二十年以上前の、まだ少年のころの面影だけど──を思い浮かべて、アンナリーザは勝手に心配になる。あの国は、彼女の前世の祖国は、王族が国を裏切ることを許容したりはしないだろう。
もちろん、ディートハルトの発言そのものは例によって「ちゃんとして」いて、だからユリウスも何気なく相槌を打っているのだけれど。
「イスラズールでは、密輸品の売買は利権になっていてもおかしくないですね……レイナルド王は、手放すことを嫌がるかもしれませんが」
「ああ……大陸からの品を独占されれば、民にとっては死活問題になりかねないな。薬草の類も、イスラズールにはどれだけ自生しているのかな……?」
「開拓者があるていどは持ち込んだのではないでしょうか。父も、エルフリーデ様に乞われて種苗を送ったことがあるそうですが。どれだけ根付いているかも、今回の旅で確かめたいですね」
話の流れで前世の自分の名前を出されて、アンナリーザの心臓は跳ねた。彼女のイスラズール王妃としての行動を覚えてくれる人がいるのは嬉しいことだ。それに──彼女の頭に天啓のような閃きがあったのだ。あるいは、悪魔の囁きとでも言うべき思い付きかもしれないけれど。
(私が、クラウディオをイスラズール王に推したらどう仰るかしら……!?)
フェルゼンラングの王女が遺した子を次の王に、というのは、第三者が言い出したとしても突飛なことではないだろう。むしろ真っ当で常識的なもののはず。フェルゼンラングの何らかの事情で考慮されていないのだとしても、ユリウスとディートハルトなら──彼らがアンナリーザに抱いてくれている好感に訴えれば、どうだろう。祖国を遠く離れて、フェルゼンラングの王も重臣も、目が届かないところなら?
「あの……後で、星を見に、甲板に上がりませんか……? 広いところでお話がしたいと思いますの」
私情で他国──今のアンナリーザにとっては、フェルゼンラングもイスラズールも他国だ──に介入しようとしている後ろめたさに、彼女の声は少し掠れた。話題に割って入るにしても、唐突な提案だっただろう。
「素晴らしいですね。お誘いを光栄に思います」
でも、ディートハルトは嬉しそうに頷いてくれた。もしもアンナリーザを憎からず思ってくれているがゆえの鈍感さなら、申し訳ないことこの上ない。でも、侍女たちの前では口にできないことだから。フェルゼンラングの陰謀を知る三人だけの場に持ち込むための自然な口実が、ほかに思い浮かばなかったのだ。
「夜の潮風は冷えるでしょうね。羽織りものを探しておきますわ」
アンナリーザが内緒の話をしたがっていることに、気付いているのかどうか。ベアトリーチェは、例によって隙のない気配りを見せてくれていた。
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