六章 幽霊の影か海賊の魔手か

第1話 幽霊か海賊か見間違いか?

 落ち着かない夜を過ごした、その翌朝。《海狼ルポディマーレ》号の甲板に、船団を構成する五隻の船の主だった面々が集っていた。

 つまりは、各船の船長と、使節の長であるアンナリーザ、出資者のユリウス──と、従者の体でちゃっかり出席しているディートハルト。それに、イスラズール側の代表として、オリバレス伯爵も。《海狼ルポディマーレ》号以外の船の乗員は、ギリギリまで船縁ふなべりを近づけた上で板を渡して来てもらったけれど、船乗りたちはともかくとして伯爵はずいぶんと怖い思いをしたようだ。伯爵のふくよかな頬は青褪めて強張って、明らかに不機嫌そうに眉間に皺が寄っている。


(無理もないわね……呼び出した理由が理由だもの……)


 伯爵に対する感情は複雑ではあるけれど、身分とドレスゆえに船の移動をしなくて済んだアンナリーザとしては、一応は彼に同情している。


 でも、訓練ではない銃声は、誰もが聞いたことだろう。ことの経緯を説明し、今後に備えるためにはこうした会談を開くのが手っ取り早い。幸いに雨はもう止んでいたのと、従者も含めれば食堂には収まり切らない人数になったため、青空と太陽のもとでの会合になる。日焼け対策に、今日もアンナリーザは帽子をかぶるのを忘れていない。


 船長たちが甲板に持ち出された椅子に腰かけたのを見届けて、アンナリーザは口を開いた。ひとりひとりの顔を見渡しながら、告げる。


「わざわざおいでいただき、ありがとうございました。お久し振りの方もいらっしゃいますね。航海が順調に進んでいることを、何よりも嬉しく思っております」


 これまでも、各船で物資の不足や病人や怪我人の有無については報告し合ってきた。とはいえ、それは大声を張り上げての異常なし、で済むことが多かったし、詳細に連絡すべきことも、身軽な水夫に手紙を託すていどでどうにかなっていた。船長級の人間が一堂に会するのは、出航から初めてのことだった。


(たまに直に会ってお話するのも悪いことではないわ。それ自体は……)


 もっと良い話題で集まることができれば良かったのに。不安と溜息は胸の中に呑み込んで、アンナリーザはある船長に目を向けた。


「昨日の、物騒な物音について──皆さま、何があったのか気になっていることと思います。何があったか、ご説明いただけますでしょうか」

「は──っ」


 発砲した水夫が乗っていた船の船長は、一同の視線を受けて口を開いた。マストに見張りに立っていた者がやったことだ、との速報は既に受けているけれど、何を見たのか何を考えたのかまでは聞いていない。疲れとか眠気で手が滑ったなら、話はすぐに終わるのだろうけれど──


「幽霊船……?」

「と、発砲した者は言っておりますな。船影が見えたので海賊船と思って撃った、が次の瞬間には姿を消していた、と──」


 その船長も、そんな報告はしたくなかったのだろうな、と思わせるなんとも微妙な表情だった。彼が肩を竦める一方で、アンナリーザたち報告を受けた側も、しばし無言で視線を見交わした。


(船の幽霊、ね……)


 確かにその手の怪談はありふれているし、船乗りというものは縁起をかつぐものらしいのだけど。海賊船が姿を見せる愚を犯すのも、そこまで近づいておいて何もせずに去るのも、理解しがたいことではあるのだけれど。


 信じられない、という一堂の当惑を代表して、口を開いたのはユリウスだった。


「昨日のあの時はもやが立ち込めていましたが。自船の影が映って見えたということは……?」


 アンナリーザは船室に留まっていたけれど、船乗りたちは実際にその場の天候を目にしていたのだろう。侯爵子息の指摘に、幾つかの頭が頷いたし、報告をした船長も否定することはなかった。


「未熟な者では決してないのですが、可能性が皆無ではない、かと。いずれにしても、迂闊な真似はしないよう、油断はせぬように言い含めます」


 幽霊船ではなく海賊船でもないとしたら、可能性としてはやはり見間違い、が残る。経験を積んだ船乗りが、大海の真ん中でそんな錯覚をするのもまた、腑に落ちないことではあるけれど──そう結論するしかないのだろう、と。《海狼》号の甲板に、やや緩んだ空気が流れた。

 いや、少なくともひとりは、不快げに顔を顰めていた。オリバレス伯爵が、蒸留酒の杯を片手に唇を歪めている。


「そのように願いたいものですな。《大陸》の方々は存じませんが、我らは銃の音に馴染みが薄いもので。生きた心地がいたしませんからな」

「……私も射撃の練習でずいぶんお騒がせしてしまっています。申し訳ございませんでしたね、伯爵」


 たぶん、船の移動で怖い思いをしたからだろう。そんなことで呼び出すな、と釘を刺しただけのはず。でも、数日前まで日に何十発も銃声を響かせていた身として、アンナリーザは念のため謝罪しておくことにした。本気で悪いと思っているからというよりは、別に狙いがあってのことだったけれど。


「いえ……王女殿下のなさることに不満など……」


 イスラズールにとって、アンナリーザは機嫌を損ねてはならない相手のはず。交易相手としてか、さらに別に狙いがあるのかまでは分からないけれど。思った通りに伯爵が怯んで、慌てて下手に出たところで、ユリウスが追い打ちをかけてくれる。


「本当に海賊船だった、ということはないのですか? マルディバルの港では、そのような噂も流れているということだったのですが。その……イスラズール近海を隠れ家にしている者たちがいる、と」


 祖国の宮廷での茶会とは違って扇を持っていなかったから、アンナリーザははっきりと笑みを漏らしてしまわないように少し苦労した。ここで、してやったりと笑ってしまうのは、さすがによろしくないだろう。


(ユリウス様も同じことを考えていてくださったのね)


 でも、出航前から気になっていたことを問い質す好機だと、ユリウスが気付いてくれたのが嬉しかった。彼も、この航海の出資者のひとり。オリバレス伯爵が疎かに扱うことができない相手だ。銃声が響いた後でのこと、不審な船を見たという証言もあれば、いい加減な答えで済ませることはできないだろう。


「まさか、そのような──」


 事実、伯爵は心外、という風に顔を紅潮させながらも目を泳がせた。以前は、海賊の心配なんて杞憂だと言っていたのに。


(やっぱり、何かのかしら)


 アンナリーザは、ユリウスにちらりと目配せした。眼鏡のレンズが彼の感情を隠すことは、ない翠の目がしっかりと頷いたのが分かるていどには、彼女たちは親しくなっていた。共同戦線の密約を受けて、アンナリーザはユリウスを援護した。


「皆の命にも関わることです。もちろん、御身も含めて。ご存知のことがあるならば教えていただきたいものですが……?」

「出資者として、イスラズールとの交易を望む者としてもお願いしたいですね。これまでは事情もあったのでしょうが、今後は同じようには行かないかもしれませんから」


 イスラズールと大陸間の、正規の交易を阻んできたのはほかならぬフェルゼンラングだ。だから、ユリウスには──心情としてはアンナリーザも──彼が密貿易に手を染めたことを声高に責めることはし辛い。とはいえ、マルディバルとしてはイスラズールの港が海賊の巣窟になっているようでは困る。縁を切るなら今のうちに、と。圧をかけておきたいという思惑もあった。


「……大陸の港には入れない類の船が、ベレロニード──イスラズールの入り口に身を寄せることは確かにございます」


 渋々ながら、の表情でオリバレス伯爵が絞り出したことは、さほど驚くべきことではなかった。アンナリーザたちはもちろん、船乗りたちだってとうに考えていたことだろう。静かに先を促す幾つもの視線を浴びて、伯爵は居心地悪そうに蒸留酒を呷った。そして、空いた杯で彼が乗っている船を示す。


「が、奴らがこの船団を襲うはずはございません。イスラズールの船は、大陸の方々から見れば時代遅れなのでしょうな? 海賊を生業にする者たちならばひと目で分かることなのでしょう」

「それは、確かに」


 船長のひとりの相槌に、オリバレス伯爵は大きく頷いた。


「でしょう! ──私を襲えば我が王は不快に思し召すでしょう。はるばる海を越えて旅してきて、ベレロニードで締め出されるなど誰も望みますまい。ですから、昨日の幽霊船とやらは見間違いに相違ないかと。……十分、注意していただきたいものですな!」


 発砲は手違いだと決めつけられて、報告した船長は気分を害したようだった。


「……無論。改めて言い聞かせましょう」


 けれど、伯爵の主張も一応は筋が通っている。反論を探したり言い争ったりするのも分が悪いと思ったのか、彼はぶっきらぼうな口調ながら頷いた。


(海賊を恐れる必要はなかった……本当に、そうなのかしら。伯爵が言えなかったのも、分からないではないけれど)


 アンナリーザとしても、疑問は残る。でも、追及するだけの根拠が見当たらない以上、この場で聞けるのはここまで、なのだろう。彼女には、船団の長としてほかに気を配るべきことがある。


「──では、皆さま。お話が終わったところで、お菓子でも召し上がっていきませんか?」


 つまりは、ややぎすぎすとしてしまった空気の緩和と、親睦だ。《海狼》号は、船団の中で唯一女が乗っている船でもあるし、その分甘味も豊富だから。酒は、操船の妨げになりかねないからこれ以上は諦めてもらうとしても、船乗りたちには良い気分で自船に帰っていって欲しかった。

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