第7話 王族にも悩みはある(ユリウス視点)

 ディートハルト王子が撃った弾は、的を外れて水平線へと吸い込まれた。今日の王子は今ひとつ狙いが定まらない。いや、今日に限らずこの数日は、と言うべきだろうか。あの日──アンナリーザ姫が、酷く強張った表情で王子の部屋から飛び出してきてから、ずっとこの調子だった。姫の銃の訓練も止まったままになっていて、腕を見せる相手がいないから気が抜けている、ということはないのだろうが。


 ユリウスに銃──ラクセンバッハ侯爵が姫に渡した華奢なものではない、兵に持たせるようなものだ──を渡しながら、ディートハルト王子はぽつりと呟いた。


「アンナリーザ姫は、よほどお加減が悪いのかな……」

「いえ……どちらかというと我々と顔を合わせたくないのではないかと思いますが」


 わざと外すような無礼はすまい、とは思っていたが、船の揺れだけでなく、ユリウスの心も乱れていたらしい。彼も、的にした木片の端をほんの少し削ることしかできなかった。


「ふむ、やはりそうか……?」


 分かっていなかったらどうしようかと思っていたが、王子はちゃんと事態を把握しているようだったのでユリウスは安心した。アンナリーザ姫が自室から姿を見せず、食事の時に顔を合わせても言葉少なになってしまった理由を、本当に体調が悪いからだ、などと信じ込んでいたなら一大事だった。王子を殴ってでも、祖国の計画を中断させることも真剣に検討していなければならなかっただろう。


(突然求婚されるだけでもさぞ驚かれただろうに、イスラズール王妃などと……!)


 ユリウスは、アンナリーザ姫の心境に心から同情していた。

 あの嵐の日──吐瀉物に塗れた男どもを、嫌な顔ひとつ見せずに介抱してくれた優しさに、不躾かつ勝手な申し込みで報いたなんて。しかも、祖国が二十年をかけて仕込んできた計画を、さらりと他国の王族に暴露するなんて。アンナリーザ姫にいったい何をしたのかを王子に問い質して、その答えが返って来た時、ユリウスは頭を抱えたものだ。


(殿下のお気持ちも分からないではない……不安なのは分かる、のだが)


 幸いにというか、マルディバルの侍女たちには王子が姫君に求婚して、というところまでしか明かすことができていない。それに、アンナリーザ姫のほうでも口を噤んでくれていてるようだ。だから、彼女たちには王子は恋心ゆえに暴走しただけ、王女は恥ずかしがって困惑しているだけ、と概ね微笑ましく受け止められている気配があった。


 という訳で、彼らが腹を割って話すことができるのは、銃の練習と称して人を遠ざけ、ふたりきりになった時だけ、ということになる。今は嵐の気配もなく、どこまでも見渡せる青い空と海の間、男ふたりで浮かない顔を並べ、楽しくもないのに交互に銃弾を浪費しているのは、つまりはそういうことだった。


 ユリウスから再び銃を受け取って──構える前に、ディートハルト王子はぽつりと呟いた。


「姫も、銃の扱いに慣れておかなければならないだろう。教師役が君だけ、ということなら出てきてくださるのでは?」

「未婚の姫君ですから。うっかり手が触れてしまうかもしれませんし、ふたりだけでそのようなことは──」


 王子が言うのも、もっともなことではある。

 だが、さすがの王子も誰彼構わず手近な女性に縋りついた訳ではないだろう。身分が釣り合うから、というのも二の次で、可愛らしく活発で溌溂としたアンナリーザ姫だからこそ、ということなのだろうと思う。彼自身も王女を好ましく思うからこそ、ユリウスとしては抜け駆けのようなことをするのは気が進まなかった。


(嫌味に聞こえていないと良いが)


 未婚の姫君の手を思い切り握ったという御方の表情を横目で窺うと、銃を船舷せんげんに立てかけて俯いている。射撃を続ける気力は、完全に失せてしまったようだ。


「申し訳ないことをしてしまったな」

「殿下……」


 この方でも落ち込むということがあるのか、と新鮮な驚きを覚えながら。そして少しためらいながら。彼は、やや距離を開けて王子の隣に並んだ。船舷に背を預けて顔を上げれば、白い帆が風をはらんで優美な曲線を描いている。あれから何度か雨や強風や高波にも見舞われたが、航海はおおむね順調、とのことだった。彼らは刻一刻と、イスラズールに近づいている。ユリウスにとっては憧れの大地だが、たぶんディートハルト王子にとっては違うのだろう。


(私としても、イスラズールがフェルゼンラングの支配下に入る方が都合が良い、が……)


 だが、目の前の同じ年頃の青年が、一生を異国に埋めることと引き換えだとするともろ手を挙げて賛成はできない。

 というか、そもそも、祖国の政策はイスラズールの資源のみに着目していて、彼の父を始め、生態系を調査するための進言や計画はことごとく軽視されてきた。仮に、ディートハルト王子が王位簒奪──いかに取り繕ってもこれは内政干渉で叛乱幇助だろう──に成功したとしても、状況が劇的に好転するとも期待しづらかった。フェルゼンラングに反発する勢力も必ずいるはずで、イスラズールの麗しい大地は戦火に踏み躙られることになるかもしれないのだから。


「その……陛下のご命令については、遂行することは叶わなかった、ということにするのもかと思いますが」


 祖国へのちょっとした不信と、憂い顔の王子への同情が、ユリウスに臣下の分を越えたことを口にさせていた。たぶん、陸の上で建物の中だったらこんなことは言えなかった。頭上を空に、四方を海に囲まれた解放感が彼を大胆にさせたのかもしれない。ディートハルト王子でさえ、驚いたように碧い目を瞠って彼の顔をまじまじと見つめてきたくらいだった。


「そうか……! そうすれば私は堂々と帰国できる、と……? 君は悪知恵が働くんだな。さすがあの父君の血を引くだけある」

「……恐れ入ります」


 褒められているのかけなされているのか、呆れられているのか──そして、王子は父カール侯爵をいったいどう思っているのか。


(まあ、胡散臭い詐欺師といったところだろうな)


 ヴェルフェンツァーン侯爵家にまつわる、いくつかはほかならぬ父が広めた数々の噂を思い浮かべて、ユリウスは複雑な思いを呑み込んだ。例によって微妙に失礼なことを言ったことには気付いていないのか、ディートハルト王子も、もはや彼ではなく船室のほうへ目を向けている。日差しを避けて、中で休憩している女性たちの中でも、王子が気に懸けているのはただひとりなのだろうが。


「アンナリーザ姫によると、私は正しいイスラズール王にはなれないそうだ」

「姫が、そのようなことを……?」


 案の定、王子は思った通りの名を口にした。だが、アンナリーザ姫がそんなことを言っていたとは初耳だった。


(あの方もなかなか仰るな……)


 不躾な求婚がよほど癇に障ったのか、フェルゼンラングの陰謀に賛同しかねるということなのか。直に言われたというディートハルト王子も、その意味を推し量ろうとするかのように、ふんわりとした表情で首を傾げている。


「せいぜいが鉱山の管理人だろう、と。……確かにそういう言い方もできるのかな。私は、父上の意向に従って統治することになるだろうから」


 ここまで聞いて、ユリウスは頭の中で何かが閃くのを感じた。慎重に──でも、相手にはそう気付かせぬよう。できるだけさりげなく、提案してみる。


「これもまた畏れ多いことですが──陛下もイスラズールまでは手を伸ばせますまい。レイナルド王のように、思いのままに振る舞うこともあるていどは可能かと存じますが」


 彼らの王が欲するように、アンナリーザ姫が予言するように、イスラズールからその資源を搾取するのではなく。ディートハルトが、かの地の生態系を保ちつつ文化と文明をもたらし、民にも歓迎されるように振る舞ってくれれば。

 そうなれば、ユリウスにとっては、大変都合が良い。アンナリーザ姫の祖国マルディバルにとっても、好ましい交易相手になるのではないかと思ったのだが──


「そうなのだろうが、私には自分の考えというものがないのだ」

「……そうなのですか?」


 ディートハルト王子は、あっさりと爽やかに首を振った。あまりにも堂々としているから聞き違いを疑うところだったが、あいにく王族というものは発音も発声もこの上なく明瞭だった。


「うん。王になる訳でもない王族には不要のことだと──ああ、だからやはり私は王には向かないのだな」

「……そうなのですか」


 先ほどと同じ相槌を、先ほどとは異なる思いを込めて、ユリウスは口にした。


(エルフリーデ妃といい、この方といい──)


 彼自身も、生まれながらに家名や領地や立場を負う身ではあるのだが、王族に課せられたそれらは遥かに重く厄介なものなのだろう。笑っていられるディートハルト王子こそ信じ難い変わり者なのか──あるいは、内心では無理をしていたりするのだろうか。踏み込んで尋ねることができるほど、彼は王子と親しい訳ではないのだが。


 何か慰めらしきことを口にすべきか、それも出過ぎた真似なのか──ユリウスが迷っていると、辺りがにわかに暗くなった。太陽が厚い雲に隠されたのだ。先ほどまでの晴天が嘘のように、潮風もすぐに湿り気を帯び、空からはぽつぽつと水滴が落ち始める。


「あ。雨だ──これは、激しくなるのかな」

「ご夫人たちが喜びますね。お手伝いしないと」

「ああ、そうだな」


 掌で雨粒を受け止めながら、ユリウスたちは銃を持って動き出した。最初の嵐こそ恐れたものの、今では女性たちは雨を歓迎している。雨水が洗顔や清拭に使えるからと。水夫たちに邪魔にならない場所を聞き出した彼女たちは、雨が降り出すと手に手に桶やたらいを持っていそいそと飛び出していくのだ。人間というものはまったくもって慣れるものだししたたかなものだ。


 今も、船室の扉が勢いよく開くと色とりどりのドレスを纏った女性たちが現われた。その先頭の人影が携える桶に、ユリウスは手を伸ばす。


「滑りますから、気を付けて」

「あ──ありがとう、ございます……?」


 雨除けになるよう、に寄り添ったところで、海の色の碧い目が見上げていることに気付く。桶を抱えていたのは、アンナリーザ姫その人だった。


(王女殿下自ら、先陣を切っていたのか)


 抜け駆けはしないと思ったはずだったのに、意図せずしてふたりの距離は、近い。ディートハルト王子との一幕を思い出してか、姫の目が戸惑いに揺れ、唇が一瞬だけむっと強張る。だが、この姫君は決断が早く思い切りが良かった。


「私の担当はあちらですの。あの、樽の間……!」

「かしこまりました」


 という訳で、姫の目線が命じるまま、ユリウスは彼女を支えて指定の場所に桶を設置した。船室に戻るまでの短い間の供を務めることができたのは、嬉しい役得というものだった。

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