第2話 慣れない銃、慣れない距離感
沈みゆく太陽が、水平線を燃やし始める時刻まで、三人は甲板で銃の訓練を行った。
「ふむ、勝負はつかなかったか」
「手加減したつもりはないのですが。お見事な腕前です、殿下」
笑い合うユリウスとディートハルトの射撃の腕は互角だった。船尾に据えた木材の的は、始めた時と比べるとだいぶ形を変えた。ふたりがかわるがわる銃弾を撃ち込んだことで、あるいは欠け、あるいは穴を空けていったのだ。
「もう、おふたりとも……私の練習ということでしたのに」
対するアンナリーザは、というと、いたずらに水平線に銃弾を吸い込ませるだけに終わった。彼女の弾はひとつとして当たらなかった。ディートハルトが
「……獲物を仕留められるまでは遠い道、なのですわね……」
弾倉を空にした拳銃の
「初めてなのだから仕方ありませんでしょう。まずは、引き金の感覚に慣れるところから、ですね」
「はい。……私、そういえば武器を持つのも初めてでしたわ」
「カトラリーとは訳が違いますからね。姫君が不慣れでも何も恥じることではありませんよ」
「ええ。イスラズールに着くまでにはもう少しマシになっていたいものです」
慰めてくれるユリウスとディートハルトに励まされて、アンナリーザは微笑んだ。航海中で会う人も少なく、潮風と日光に晒される日々とあって、ふたりとも砕けた格好をしている。この数日は、刺繍が重い
(殿方でも服を脱ぐのははしたないことなのかもしれないわ……)
夕日が照らしてくれているお陰で、アンナリーザの頬に朱が差したのは、気付かれることはなかっただろう。それに、幸いなことに、練習が終わったことを察した従者たちが、主にウェストコートを着せかけてくれた。
「食事の前に、食堂で手入れのご説明もしましょう。最終的には、おひとりでできるように」
「それも大事なことですものね。ええ、お願いいたします」
甲板を降りた、船の居住区域には、食堂として使っている広い部屋もあるのだ。それぞれの部屋に引き籠っていては気が滅入る一方だから、三度の食事の時以外にも、空いた時間があれば誰かしらが歓談しているのが常の光景になっている。アンナリーザたち以外にも、陸では接点のない侍女たちや従者たちと水夫の間でも交流が生まれつつあるようだ。
「そろそろ暗くなりますし、それでは休憩にしましょうか」
水は貴重品なのでお茶を飲みながら、とは言えないが、王女の特権で甘味はなかなかの量と種類を積んでいる。糖分は疲れに対する最高の薬にもなるだろう。──と、アンナリーザが頷いた瞬間だった。彼女の頬にぽつり、と水滴が当たる。
「雨……?」
見上げれば、夕焼けに染まっていたはずの空は、いつの間にか濃く黒い雲に覆われている。日没を待つまでもなく、時が進んで急に夜が訪れたかのような。しかも、遠くからは低く轟く雷鳴までが不穏に響いてきている。
「これは、荒れるぞ。──お姫様がたは、早く、中へ……!」
さらには、船長が駆けつけてきたので、アンナリーザたちは顔を見合わせた。王族と貴族ではあっても、海の上では経験豊かな船長の命令は絶対だ。そのように、陸にいた時から念入りに言い聞かされている。
「くそ、波も荒れて来たな」
「帆を下ろせ、急げ!」
水夫たちがにわかに慌ただしく動き出したのを見ても、邪魔者たちが甲板に居残るべきではないのは明らかだった。無言のうちに不安の視線を交わしながら、アンナリーザたちは早足で船室へと向かった。
* * *
船室に入ると、海の様子は見えなくなる。でも、ひどい荒れようだということは視覚に頼らずとも明らかだった。堅牢に作っているはずの内部にいても、飛び跳ねる食器や軋み木材、轟く雷と波の音によって、《
操船の役には何ら立たないアンナリーザたちは、食堂で蒼い顔を並べていた。顔色が悪い理由は、出航してから初めての嵐が恐ろしいのが半分、もう半分は船酔いの魔の手が伸びつつあるからだった。外洋の波風に体調を崩した者も、ようやく歩き回れるようになったころだったというのに、元通り──を越えて、今にも死んでしまうのではないかという白い顔もちらほら見える。
「今夜はスープでなくて良うございました。テーブルがすべて呑んでしまっていたことでしょう」
「ベアトリーチェはいつも通りね……」
調理するどころでもないだろう、切って並べただけの肉やチーズや例の甘いパンだけの食卓を前に、ベアトリーチェは豪胆なものだった。まるで、彼女の周りだけ嵐が避けていっているかのよう。目を丸くするアンナリーザに微笑む余裕さえ、彼女にはあるようだった。
「《
「そうね、私たちはまだ良いのかも……」
エルフリーデとして同じ航路を辿った時は、イスラズールの地を踏むことなく海の藻屑と消えるのだろうと、何度も悲観したものだった。海を知らなかった少女には、
(やっぱり、今の
多少の不快感があるとはいえ、アンナリーザは寝込んでしまうほどの酔いは感じていない。闇の中で嵐に揉まれている状況では、せめてもの心強い発見だった。
力をつけなくては、とチーズを乗せたパンを口に運ぼうとして──アンナリーザは、食事に手を伸ばすことさえできない者たちがいることに、気付く。
「あ──フェルゼンラングの皆さまは、よろしければ部屋に戻られては……? 横になっていたほうが、まだ楽かもしれませんし……食事は、後で届けさせますから」
やはり、内陸の川での船遊びと大海での航海は訳が違うのだ。ベアトリーチェが言った通り、海に馴染んだアンナリーザの侍女たちは、フェルゼンラングの従者たちと比べればまだいくらか
(私の前では吐くに吐けないでしょうし……)
水を思うように使えない航海の間、自分の吐瀉物で身体や服を汚すのは不快なものだ。
彼らの体面を慮って、口に出すことはしなかったけれど。たぶん、限界だった者もいるのだろう。従者たちは次々に席を立った。
「お、恐れ入ります」
「それでは、これで……」
従者に取り残された形になって、ディートハルトはぽつねんと座っている。でも、彼にも余裕がある訳ではないのは、口元を押えた格好からして明らかだった。
「ご婦人に、ついていないとは……」
情けない、とか。嘆かわしい、とか。王子様は、たぶんそんなことを言おうとしたのだろうけれど。その気持ちは、嬉しいことだとは思うけれど。傍目には、彼こそ退出する必要があるように見えてならなかった。
(でも、そう言っても退けない、のかしら……?)
殿方の体面というのは、たぶんとても大事なもので──でも、その体面のためにも、早く休んでもらったほうが良い気がして。アンナリーザが視線で助けを求めたのを汲んでくれたのだろうか。ユリウスは小さく、けれどしっかりと頷くと、わざとらしく咳払いをして立ち上がった。
「……殿下、私も部屋に戻ろうと思います。大変恐縮ですが、支えていただけますでしょうか」
「あ、ああ……ありがとう」
ユリウスが口実を作ってくれたのだと、ディートハルトにも分かったらしい。やり取りとしては少々噛み合わないし、彼こそがユリウスに
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