五章 波は揺れる 思いも揺れる
第1話 銃の扱いも姫君の嗜みのうち
アンナリーザの足もとに跪いたベアトリーチェは、彼女の右足首に
「──いかがでしょうか、アンナリーザ様」
「良いと思うわ。ありがとう、ベアトリーチェ」
船室に備え付けの寝台に腰掛けたアンナリーザは、足をぷらぷらと振って
銃を支える外側の部分は革素材も使っているけれど、暑苦しく重くなるのを出来るだけ避けて、ベアトリーチェは裏地を柔らかい綿にしてくれた。さらには、レースや刺繡を施してある。船の上で暇を持て余したベアトリーチェが技術の粋を凝らしてくれたお陰で、用途にそぐわずとても可愛らしい仕上がりになっている。
(レースの下着を新調したような気分だわ)
普通にしとやかに振る舞っている限り、誰も王女が拳銃を身に着けているなんて思わないだろう。下着と同様、見えないし、誰に見せる訳でもないのだけれど。あるいは、自分しか知らないこそ、なのだろうか。可愛らしいもの、綺麗なものを身に着けると心が弾むものだ。
「歩いて、少し動いてみてくださいませ。締め付けるようでしたら調整いたします」
「分かったわ」
ベアトリーチェに促されて、アンナリーザはぴょんと床に降り立った。狭い船室の限られた面積でできる限り、跳ねたり回ったりしてみる。
「……落ちたり擦れたりはしなさそうね? ずっと着けていたら分からないけれど、今のところは快適よ。さすがの腕前ね」
拳銃自体の重さがあるからまったく気にならない訳ではないけれど、初めて作ったのだろうにベアトリーチェは良い仕事をしてくれたのではないか、と思う。率直に称賛の言葉を贈ると、今回の航海におけるアンナリーザ専属のデザイナーは嬉しそうに微笑んだ。そして、すぐに首を傾げる。
「腿に巻きつけるほうが安定するでしょうし、負担にならないかもしれないのですが。でも、万が一使う時のことを考えると……」
「……そうね。はしたないわね」
ベアトリーチェが濁した先を聞き取って、アンナリーザはむう、と唇を尖らせた。拳銃を取り出す場面を想像して、ドレスの裾を少し持ち上げる──と、当然のことながらふくらはぎまでを露出することになってしまう。今は、室内でベアトリーチェと助手役の侍女がいるだけだから良いけれど、屋外で、殿方もいる場面だと想像してみると、迷わず動けるかどうか自信がなかった。
片足で立って、銃鞘をつけたほうの右足をぷらぷらさせながら、アンナリーザはベアトリーチェの意見を求めることにした。
「私、今日はこれをつけたまま過ごそうかと思っていたのだけど。慣れたほうが良いと思って……」
銃の重さをぶら下げて動くのにも、銃を取り出すのにも。でも、ユリウスやディートハルトの前で足を露出するのは、父に言い聞かされたような王女らしい振る舞いではない気がする。
「練習をなさるのでございますよね。王子様方には目の毒かと存じます」
「やっぱり……?」
答えたのは、尋ねたベアトリーチェではなく侍女のほうだった。出過ぎた真似に踏み切ったこと、その口調の強さから、やはり「とんでもないこと」扱いのようだった。
「甲板に出る時には、御手に持って行かれたらよろしいのでは? その──恐ろしいものを取り出す練習は、
というか、侍女にとっては王女が拳銃を身に着けるという発想自体がおぞましいのかもしれなかった。アンナリーザの肌を毛虫が這っているかのような目つきで、足首を飾る物騒なアンクレットを見つめていたから。……アンナリーザは気に入っているのに、少々心外ではあるのだけれど。でも、淑女の慎みという観点からは頷かざるを得ないようだ。
「そうね。そうしましょう」
アンナリーザが言った瞬間、扉を叩く音がした。次いで、爽やかな声が外から響く。
「アンナリーザ様、上は用意ができましたよ。お出ましいただけますか?」
「ディートハルト様──はい。今、行きますわ」
上──甲板では、水夫たちの仕事が一段落したようだ。船室にいても波と風が穏やかなのは分かるから、帆を見張る必要がないということなのだろう。つまり、アンナリーザが銃の練習をしても流れ弾の被害が発生する恐れは少ないはずだ。
侍女の忠告に従って、拳銃を銃鞘から取り出し、ドレスの裾を直し──ついでに髪も整えてから、アンナリーザは王子様のお出迎えに応じて扉を開いた。
* * *
薄く軽いモスリン生地のドレスが、潮風に揺れる。日光を遮るものがない甲板に出るということで、アンナリーザは
繊細な装飾が施された拳銃は、ユリウスの大きな手の中に収まるといっそう華奢に見えた。銃の部位の名前や動かし方を、何も知らないアンナリーザに教えてくれようというのだ。
「撃鉄を起こさないと弾が発射されないようになっているのです。誤射を避けるための機構ですが、いざという時に素早く撃てるように訓練しないといけません」
「はい」
「今は弾が入っていないから、気負わず練習していただいて大丈夫ですよ」
「はい」
そう言われても、まったく緊張しないという訳にはいかなかった。アルフレートの計らいで銃弾もふんだんに積み込まれているし、木材で作った即席の的は船尾に配置されている。つまり銃口を向けるのは海のほうになるから、よほどの間違いが起きない限り流れ弾で怪我人が出る、なんてことはあり得ないはずなのだけれど。
「晴れているのに鳥は飛んでいないのですね。撃ち落とせれば食卓が豪華になるかもしれないのに」
手をかざして空を見上げて、目を細めるディートハルトは、アンナリーザの緊張を和らげようとしてくれたのだろうか。彼のことだから、単に思いついたことを口に出しただけかもしれない。
(
前世の家族のことを、一瞬だけ懐かしく思い出す。フェルゼンラングの森は深く豊かだから、王侯貴族の殿方は狩猟の腕を好んで競うのだ。武勇伝も獲物の肉も、晩餐の食卓を賑わせたもの。狩りの獲物としてなら、ディートハルトもイスラズールの鳥や動物に興味を持つだろうか。
「それだけ陸を離れてしまったのでしょうね……鳥も、羽を休める場所がなければ飛び続けることはできませんから」
ユリウスの何気ない相槌に、ふと、沈黙が降りた。三人して視線を空と海の間にさ迷わせたのは、少しばかりの雲の白のほかには、青以外に目に映るものがないのを改めて確かめたからだろう。もちろん、近くには船団の船が
「次に鳥を見る時は、イスラズールが近づいた時、ということですのね」
忍び寄りかけた不安を振り払って、アンナリーザはあえて明るくはしゃいだ声を上げた。ユリウスの手から、なかば強引に拳銃を奪い取って、微笑みかける。
「それまでには、私も鳥を撃ち落とせるようになれるでしょうか。ヴェルフェンツァーン侯爵家への感謝を表して、新種の鳥を捧げたいものですわ」
もしも、の怖れを語っても仕方がない。だから、口に出すのは楽しいことだけにしよう。彼女の思いが伝わったのかどうか──貴公子たちも、頬を緩めて応じてくれた。
「とても嬉しい御言葉です、アンナリーザ様。それでは、気合を入れてお教えしませんと」
「私も忘れないでくれ、ユリウス。良いところを見せたいからな。そうだ、君と私で競争しないか?」
「良いですね。姫君の御前ですから手加減はしませんよ」
「あの……私の練習なのですけれど」
にわかに元気づいたふたりに、アンナリーザは苦笑してしまう。でも、ユリウスもディートハルトも、これくらい気儘にやってくれるほうが、彼女にとっても気が楽というものだろう。遮るもののない海は、彼女や彼らの身分や立場も──ほんの一時だけ──忘れさせてくれそうだった。
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